アントニオ猪木さん、“本名”は「完至」…16日から横浜で開幕「展覧会」母が残した貴重メッセージが証明

スポーツ報知
「アントニオ猪木展」で公開された母・文子さんのメッセージカード。左から2行目に「完至の母」と書かれている

 2022年10月1日に亡くなった国民的プロレスラーのアントニオ猪木さん(享年79)の展覧会が16日から25日までふるさとの横浜市で開催される。

 「アントニオ猪木展」は昨年8月に東京の京王百貨店新宿店、11月には大阪の阪神梅田本店で開催。今回は、猪木さんのふるさとである横浜市の「MARK IS みなとみらい」の1階グランドガレリアで「~おかえりなさい 猪木さん~燃える闘魂アントニオ猪木展 in YOKOHAMA」と題して開催する。入場は無料。

 生前、社会貢献活動を積極的に行っていた猪木さんの遺志を引き継ぎ、能登半島地震の復興チャリティーイベントとして行われ、イベントの収益は復興支援に寄付する。

 展示品は、家族が所有していた秘蔵の幼少期、レスラー若手時代の画像等を公開。さらにムハマド・アリ戦をはじめ激闘の貴重な品々。直筆の書(道の詩や、猪木語録など)、愛用の『闘魂棒』なども展示する。また1980年代前半に着用していた試合ガウンも公開される。さらに闘魂タオル、アパレル、小物グッズ、写真パネル等のグッズを販売する。

 15日には報道陣向けの内覧会が実施された。その中で実弟の猪木啓介さんが所有している1987年10月に亡くなった猪木さんの母・文子さん(享年79)の直筆のメッセージカードも公開された。これは、新日本プロレスが1974年12月に初めてブラジル遠征を行った時にサンパウロ在住の文子さんが関係者へ宛てたクリスマスと新年のメッセージで結びに「完至の母 猪木文子」としたためている。

 現在、猪木さんの本名は「寛至」と伝わっているが、1943年2月20日の誕生時の命名は「完至」だった。ブラジルで力道山にスカウトされ60年4月の日本プロレス入門時の「報知新聞」の記事も「猪木完至」と書かれ、同年9月30日のデビュー後から62年11月に「アントニオ猪木」に変わるまでの2年間、リングネームは「猪木完至」で戦っていた。

 今回、展覧会で公開された母・文子さんのメッセージカードからも「完至」が本名であることが改めて証明された。では、なぜ「寛至」へ変わったのか。晩年の猪木さんを取材した時、「戦争で横浜大空襲の時に役所が焼けて戸籍もなくなった。戦争が終わって新しく申請するときに(石炭商だった)親父(佐次郎さん)が『寛至』に変えたんじゃないかな」と証言していた。

 横浜市鶴見区に住んでいた猪木さん一家だが約1万人が亡くなったとされる1945年5月29日の横浜大空襲で鶴見区役所は消失。他の市民と同じように新たに戸籍登録する際に「完至」から「寛至」へ変えたという。ただ、出生時の名前は「完至」。そのためリングネームもこれを貫き、さらには母・文子さんも変わらず「完至」と受け止めていたと思われる。

 11人兄弟の六男だった猪木さん。「完至」と命名された由来を尋ねると「親父は子どもを作りすぎたから、これで完全に打ち止め、至るっていう意味があったんじゃないかな。だけど、オレの後も妹と弟ができたんだけど」と爆笑していた。

 かなうことはないが、あの笑い声をもう一度聞きたい。展覧会で文子さんがしたためた「完至」の2文字に猪木さんの笑顔が浮かんだ。

 (福留 崇広)

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