ベストバウトは「ドリー・ファンク・ジュニア戦」…「馬場さんとの違いを見せつけた」…永遠のアントニオ猪木伝説【6】

日本プロレス時代のアントニオ猪木さん
日本プロレス時代のアントニオ猪木さん

 元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木さん(本名・猪木寛至)が1日朝、都内の自宅で亡くなった。79歳だった。「燃える闘魂」を掲げプロレス界、政界で果敢に挑戦を繰り返した猪木さん。「WEB報知」では「永遠のアントニオ猪木伝説」と題し、猪木さんが取材、インタビューなどで残した様々な秘話を家族葬が営まれる14日まで連載する。第6回は「ベストバウトは『ドリー・ファンク・ジュニア戦』…『馬場さんとの違いを見せつけた』」

 私は猪木に2度、「プロレス人生のベストバウト」を聞いたことがある。いずれも1976年6月26日、日本武道館でのムハマド・アリ戦を「除いて」とお願いした上での質問だった。アリ戦は「ベストバウト」といった枠組みを遙かに超越した闘いであるため、この歴史的な格闘技世界一決定戦は「別格」とした上での質問だった。

 初めて尋ねたのは私的な食事会だった。2017年10月21日に両国国技館で行われた「生前葬」の前日となる20日に港区内の焼き肉店の会食だった。この席は妻の田鶴子がスポーツ各紙などの「猪木番」記者に声をかけ、猪木さんと食事を共にした。

 最高の敵を「タイガー・ジェット・シン」と明かしたが、この時、猪木は「ベストバウト」に3試合をあげた。ひとつが米国修業中のジン・キニスキー戦。ふたつ目が試合日は明確ではなかったがアンドレ・ザ・ジャイアント戦。そして最後に日本プロレス時代の1969年12月2日、大阪府立体育会館でのドリー・ファンク・ジュニア戦を挙げた。

 この時は、猪木も我々記者もアルコールが入っていたこともあり、明快な選考理由を聞くことも話すこともなかった。この会合から数か月後、今度は参院議員会館でのインタビューで同じ質問をした。そして、猪木が明かした「ベストバウト」が焼き肉店でも明かした「ドリー戦」だった。

 猪木は他のメディアでのインタビューで違う試合を「ベストバウト」と話したこともあるが、私自身は2度の「質問」で同じ「ドリー戦」をベストバウトと告白したことから、この一戦こそがプロレス人生のベストバウトだと考えている。

 この試合は、猪木が26歳の時。当時、ドリーはNWA世界ヘビー級王者として初来日だった。NWA世界王座は当時、ボクシングの世界タイトルと同じようにファンの間ではプロレス界の世界最高峰とあがめられていた。さらにこの1969年は7月からNETテレビ(現テレビ朝日)が猪木をエースに水曜夜9時から「日本プロレス中継」をスタートした年。しかも翌日の12月3日には勝者が東京体育館で馬場の挑戦を受けることが決まっていた。ドリーを破れば、NWA王者として馬場と対戦する可能性もあった。そんなシチュエーションとテレビ局の看板を背負って「世界最強」のドリーと闘ったことはそれまでの猪木にとってレスラー人生最大の闘いだった。

 60分3本勝負の試合は、互いに1本も取ることなくフルタイム時間切れ引き分けとなった。翌日、馬場は1対1でドリーと60分フルタイムとなった。この試合を「ベストバウト」に指定した理由はやはり馬場の存在だった。

 「ドリーとの試合で俺は馬場さんとの違いを見せつけることができた。ドリーはチャンピオンでプライドも高かったけど俺は互角以上に闘うことができた」

 試合の数日前に手の指を骨折していた。しかも、当時はリングを照らすカラーテレビの照明が灼熱(しゃくねつ)で12月にもかかわらずリングは「鉄板のように熱かった」と回想した。そんな悪コンディションにも世界最強のドリーと馬場を上回る名勝負を展開したことは、その後の「燃える闘魂」にとってレスラーとしての自信をつけた一戦だったのだろう。いわば馬場を超える手応えを得たからこそ「ベストバウト」と明かしたと私は思う。

 この一戦をNETは、12月31日水曜日午後9時から放送した。最近では、大みそかのNHK「紅白歌合戦」の裏番組に格闘技イベントが放送されることが多くなったが、「猪木対ドリー」はそんな大みそかの格闘技番組の原点もあった。

 (続く。敬称略。福留 崇広)

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