【箱根への道】黒木亮さん、不朽の名作の「その後」…実父とタスキをつないだ夏苅晴良さんと面会

スポーツ報知
夏苅さん(左)が大事に保存している実父・田中さんの写真を見つめる黒木さん(カメラ・矢口 亨)

 早大時代、箱根駅伝に2度出場した小説家の黒木亮さん(62)=本名・金山雅之さん=が描いた自伝的小説の「冬の喝采」は陸上ファンの間では名作として知られる。作品に登場する実父の田中久夫さん(故人)も明大時代に箱根駅伝に出場した経験を持つが、黒木さんが田中さんと会ったことは一度だけという。英ロンドンを執筆活動の拠点としている黒木さんは2月に一時帰国した際、箱根路で田中さんとタスキをつないだ夏苅(旧姓・久保)晴良さん(90)と面会。「冬の喝采・その後」とも言うべき貴重な場面にスポーツ報知が立ち会った。(取材・構成=竹内 達朗)

 カリスマ指導者の中村清監督、箱根駅伝史に残るスーパースター瀬古利彦さんらと共に過ごした濃密な日々が克明に記されている「冬の喝采」。黒木さんの自伝的小説は陸上ファン、さらには学生ランナーの間でも愛読者が多い。

 黒木さんは北海道・深川西高1年時に道内で3位となり、全国高校総体5000メートルに出場。将来を期待されたランナーだったが、その後、長い間、故障に苦しんだ。一般入試に合格し、早大法学部に入学後、走ることへの執念で故障を治した。一人で練習を再開し、同好会に入会。徐々に力を取り戻すと、2年生に進級する直前の春休みに体育会の競走部の門を叩いた。

 中村監督の厳しい指導に耐えた黒木さんは3年時の1979年箱根駅伝3区に出場。しかも、2区で区間新記録をマークした瀬古さんから首位でタスキを受け、首位を死守した。4年時の80年箱根駅伝は8区で区間6位と力走し、総合3位に貢献した。

 卒業後、引退し、都市銀行に入行。その後、証券会社、商社など金融ビジネスの第一線で活躍する一方で2000年に作家デビュー。多くの経済小説を執筆し、活躍している。

 「冬の喝采」は08年に発表された。箱根駅伝を軸とした競技面と、もう一つのハイライトが実父とのドラマだ。

 作品の中で「十分な愛情を注いで育ててもらった」と描かれている通り、黒木さんは養父母の元で成長した。早大卒業後、銀行員として活躍していたとき、生後7か月で別れた生みの両親に初めて連絡を取り、実父の田中久夫さんも自身と同じく箱根駅伝ランナーだったことを知る。詳細は「冬の喝采」を読んでいただきたい。

 黒木さんが「常に距離を置いていた」と記す田中さんはすでに亡くなったが、田中さんのことを黒木さん以上に知っている人物がいる。明大時代、田中さんと箱根駅伝で2度も紫紺のタスキをつないだ夏苅さんだ。1948、49年と2大会連続で田中さんが3区、夏苅さんが4区を担った。

 それから71年。箱根駅伝4、7区のコースとなっている国道1号線から、わずか100メートルほど海側にある夏苅さんの自宅を黒木さんは訪ねた。

 田中久夫さんのことを夏苅さんは「田中先輩」と呼び、黒木さんは「田中さん」と呼ぶ。会談は和やかに始まった。

 「田中さんはどんな人でしたか?」と黒木さんが問いかけると、夏苅さんは柔らかな笑みを見せながら答えた。「田中先輩はいい男だった。色白で二枚目で。おっとりとして優しい先輩だった。それでいて、もちろん、強かった」

 田中さんは戦後復活1回目となった47年の箱根駅伝から4年連続で出場。47年大会では10区を走り、戦後最初の優勝のゴールテープを切った。しかし、48年大会では3区で大ブレーキに。平塚中継所で待っていたのが夏苅さんだった。

 「今と違って、当時は正確な情報がほとんどなかった。3、4位で来るはずが、一向に来ない。どうやら田中先輩が歩いているらしい、と。やっと見えたけど、なかなか平塚中継所にたどりつかなかった」と夏苅さんは振り返る。結局、田中さんは区間最下位で5人に抜かれ、4位から9位に後退。夏苅さんは区間2位の好走で8位まで挽回したが、明大は3位で連覇を逃した。

 49年大会。再び田中さんが3区、夏苅さんが4区を任された。

 「この時の田中先輩はすごかった。普段はおっとりしているのに、鬼の形相で、トップで中継所に飛び込んできた。私も奮い立ちましたよ。あぁ、懐かしい」。夏苅さんは語りながら熱い涙を流した。前回、区間最下位だった田中さんは区間賞を獲得。夏苅さんも2年連続区間2位の力走で首位を死守。明大は1区から一度も首位を譲らず完全優勝を飾った。明大はこの時の7度目の優勝を最後に栄冠から遠ざかっており、現時点で田中さん、夏苅さんら10人は明大最後のVメンバーとなっている。

 黒木さんは静かに夏苅さんの言葉に耳を傾けていた。「田中さんがどんな人だったか、知ることができて良かった」と話した。

 夏苅さんは、この日のために箱根駅伝通の妻・美恵さん(90)と一緒にアルバムや資料を整理して黒木さんを待っていた。アルバムの中には平塚中継所で田中さんと夏苅さんがタスキをつなぐ写真があった。「こちらが田中さんですか…」と、つぶやいた黒木さんはデジタルカメラでセピア色の一枚を丁寧に複写した。

 現在、平塚中継所は海岸沿いの国道134号線の花水川橋西側にあるが、田中さんと夏苅さんが走った当時は平塚駅北口から500メートルほどの旧東海道に位置していた。会談を終えた後、写真撮影のため、2人は現地を訪れた。

 「田中先輩の息子さんにお会いできて夢のようだ。長生きして良かった」と夏苅さんは感慨深い表情で話した。黒木さんは「私も夏苅さんにお会いできてうれしかった。夏苅さんご夫妻が今回の面会を喜んでいただいたことが良かったです」と穏やかに答えた。

 箱根駅伝を舞台とした悠久のドラマ。旧平塚中継所に並んで立つ夏苅さんと黒木さんの姿に100年を超える大会の歴史を感じた。

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