明治初期における初等・中等建築教育の研究

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タイトル別名
  • ON THE ELEMENTARY AND SECONDARY ARCHITECTURAL EDUCATION AT EARLY IN THE MEIJI ERA
  • メイジ ショキ ニ オケル ショトウ チュウトウ ケンチク キョウイク ノ ケ

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抄録

明治初期の初等・中等建築教育の研究によって次のことが明らかとなった。従来の研究においては, 明治19年以前の初等・中等建築教育の状況について, 「まだまったく未開の時代」とされていた。確かに工部大学校を除き, 当期においては体系的な建築教育は行われ得なかった。しかし, 現実的必要性から, あるいは技術教育の試行として, 少なくとも建築関連教育は行われていた。工部省各寮司においてはその職制に技術伝習を含む課を持ち, その事務章程に建築関連分野を含む場合もあった。特にここでは邦人技術者の不足を補うため, きわめて実践的で速成的な技術教育が行われた。本論では各寮司及び横須賀黌舎における建築に関連する技術伝習の内容を示した。特に鉄道局工技生養成所については, その内容を詳細に分析し, 如何に速成的で実践的であったかという点, 及びその内容は土木的工作技術を中心としながらも, 建築技術に転用のきくものであったかという点について, 岡田時太郎を例として検討を行った。次に, 幕末よりの伝統を受けつぐ家塾的教育機関においても建築技術の教授が行われていたことを, 攻玉社・開工舎を例に示した。特に開工舎については当期唯一と言える建築専門教育機関であること, 従来の和風の伝統的な建築技術を中心に教授されたこと, 及び開工舎出身あるいは立川に師事した山崎慶次郎・山本治兵衛のその後の活動より開工舎の存在は明治初期の建築教育機関として看過し得ないものであるという三点につて論述した。一方, 明治初期に後の実業補習学校に類似する教育形態を持つ東京府庶民夜学校が開設され, その教科中には建築関連教科が含まれていた。これはわずか2年で廃止されるが, 所在区によっては継続の要望強く, ひき続き区立として継続された学校もあった。最後に, 本格的な中等建築教育の起点と言われる東京商業学校付属商工徒弟講習所木工科以前の文部省系諸学校における建築関連教育機関として, 東京開成学校製作学教場をとりあげ分析を行った。同教場製作科においては指物・挽物という木工製作の教育が含まれるべく教程が組まれた。この製作学教の教程は開成学校で行われた他の教育内容に較べれば多分に実践的であった。しかし前述した当期の他の技術教育機関でとられた教育に較べればなお系統的であった。以上のように, 明治初期には様々な教育機関において様々な形の建築教育が行われた。本稿の主題はこの時期にどの様な建築教育が行われたかを知ることにある。従って以上に示した如く, その関連教育機関とその教育内容の分析を行うことによって本稿の目的は達成されるが, 稿をとじるにあたって一・二の問題点を指摘しておきたい。明治初期においては立川知方の開工舎を除き, 明瞭に中等建築教育と呼び得るものは存在しなかった。またこの開工舎も西欧技術教育という観点より見れば, 特殊な教授内容であった。このように, 当期の中等建築教育は土木的工作技術あるいは物品の製作技術を中心とし, 建築教育はその関連領域に含まれていた。つまり本来の建築教育(Architectural Education)のうち, 即物的技術教育に中心が置かれ, 建築の重要な側面である芸術性(ArtまたはArt Manufactureなど)の視点が欠落していたことを特徴とする。これは当期の状況より止むを得ぬとは言え, 我が国の中等建築教育はこの種の即物的技術教育より出発したということを確認しておきたい。翻って考えれば, 岡田時太郎・山本治兵衛など, 明治初期の中等建築教育機関出身者達は建築の芸術的分野をその後の経験によって身につけたと考えられる。一方, 明治初期の初等・中等建築教育機関は本稿においてほぼ網羅した。これ等の機関中工部省諸寮司及び家塾的専門教育機関における技術教育は, 当時稀少の西欧建築技術教育であり, 中堅建築技術者養成に関る機関として当期においては重要な位置を占めた。従って今後明治期の中堅建築技術者の研究が進むにつれ, これ等各校出身者が発見される可能性は強いと考えられる。

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