EU首脳会議を受けて、英首相官邸は「(英EU自由貿易協定の)交渉は終わった」との意向を示した。欧州政治に詳しい、慶応義塾大学の庄司克宏教授は「これはブラフ。11月上旬までに何らかの妥協が成立する」と分析する。それはなぜか。理由は大きく3つある。(聞き手:森 永輔)

ジョンソン英首相はEUから何を得ようとしているのか(写真:AP/アフロ)
ジョンソン英首相はEUから何を得ようとしているのか(写真:AP/アフロ)

先週10月15日のEU(欧州連合)首脳会議を受けて、英首相官邸は「(英EU自由貿易協定の)交渉は終わった」との意向を示しました。これは本気の発言なのか、ブラフなのか、庄司さんはどう評価しますか。

庄司:私はブラフだと思います。英国がEUとの「自由貿易協定なし(ノーディール)」とした場合、より大きな経済的打撃を受けるのは英国ですから。英国は貿易において、輸出で45%、輸入で52%、EUに依存しています。そして、英国からEUに輸出する自動車には10%、牛肉や羊肉(ラム)には40~100%の関税が課されるようになります。

<span class="fontBold">庄司克宏(しょうじ・かつひろ)</span><br> 慶応義塾大学大学院法務研究科教授、ジャン・モネEU研究センター所長。1957年生まれ。慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門はEUの法制度と政策。主な著書に『欧州連合』『欧州ポピュリズム』『ブレグジット・パラドクス』がある。(写真:的野弘路)
庄司克宏(しょうじ・かつひろ)
慶応義塾大学大学院法務研究科教授、ジャン・モネEU研究センター所長。1957年生まれ。慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門はEUの法制度と政策。主な著書に『欧州連合』『欧州ポピュリズム』『ブレグジット・パラドクス』がある。(写真:的野弘路)

 「交渉は終わった」と語ったのが、ボリス・ジョンソン英首相本人ではなく、首相官邸だったこともブラフであることを裏付けています。同首相自身がこのような発言をすれば、後戻りが難しくなります。官邸スタッフの発言なら撤回するのがずっと容易です。

ジョンソン政権は、ここで強気の発言をすることで何を得ようとしているのでしょう。

庄司:同一競争条件(level playing field)をめぐってEUが求める条件を回避することです。

 EUは環境、労働、補助金における規制のレベルを合わせることで貿易における競争条件を同じにするよう英国に求めています。例えば、EUを離脱した英国が環境に関する規制を一方的に緩和して低価格の製品を作り、それをEUに輸出するようになっては困りますから。

 一方、英国は「関税などの貿易条件は、EUがカナダや日本と結んだFTA(自由貿易協定)と同等でかまわないので、同一競争条件を厳しく求めるのをやめてほしい」と要求してきました。EUの要求を受け入れれば、EU離脱(Brexit)の目的の1つである「主権を取り戻す」を実現できないことになってしまうからです。

ジョンソン政権の失策で、EUは一層かたくなに

 英政府が「国内市場法案」を議会に提出し下院が可決したことが、同一競争条件をめぐるEUの姿勢を一層厳しいものにしました。同法案には、英EU間でFTAが締結できない場合、英領北アイルランドに関する両者の合意を、英国が一方的に反故(ほご)にできるようにする条項が含まれています。

合意とは、英領北アイルランドを、①EUの関税同盟と、②物品貿易におけるEU単一市場に実質的に残す、というものですね。

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庄司:そうです。英国のこうした一方的な姿勢に不安を感じたEUは、同一競争条件をめぐる規定が守られなかった場合の紛争解決手段や、EUが制裁措置を取れるようにする条項を英EU自由貿易協定に盛り込むことを重視するようになりました。

 同法案の提出は、ジョンソン政権の失敗だったと思います。EUとの交渉材料にすべく持ち出したのでしょうが、逆にEUの姿勢を硬化させることになりました。

漁業権は、安く切れる交渉カード

英政府が企業などに支給する補助金の取り扱いが、対立項目の1つに挙がっています。これは同一競争条件の1つですね。

庄司:最も大きな項目です。よってEUは、補助金の支給状況を監視する独立機関の設置や、違反した場合には欧州司法裁判所(ECJ)が関与できるようにすること、EUが報復措置を取れるようにすることを、英EU自由貿易協定に明記するよう主張しています。

 ジョンソン政権はこれまでの保守党政権と異なり、インフラ、教育、医療、ハイテクなどに支出を拡大することを公約に掲げて昨年12月の選挙に勝利しました。労働党の地盤を崩すことを意図した政策です。EU側は特定の産業に政府補助金を投入して、EUとの競争上優位に立とうとしているのではないかと危惧しています。

漁業権をめぐる取り決めも争点になっていますね。

庄司:これは、実はそれほど大きな話ではありません。英政府は、大きな傷を受けることなくEUに譲ることのできるカードとして、漁業権を持ち出したのでしょう。

 これまで英国は共通漁業政策の下でEU加盟国として、排他的経済水域(EEZ)内の漁場を一定の漁獲高制限の下で他の加盟国に開放してきました。この漁獲高を毎年交渉して改めるよう英国は求めています。しかし、漁業が英国のGDP(国内総生産)に占める割合は0.1%で、そのウエートはわずかなものです。

 ただジョンソン政権は、経済的な利益よりも政治的合理性を重視する政権です。先ほど触れた主権に関わるこだわりも、この主張の背景にあると考えられます。

日本が、FTAで英国とあっけなく合意した理由

ジョンソン政権はカナダ型のFTAを求めています。「それで合意できないならオーストラリア型で離脱する」との主張。それぞれ、どのような特徴がありますか。日本がEUと結んでいるEPA(経済連携協定)とどう異なるのでしょう。

庄司:日本とEUが結んでいる「日EU経済連携協定」と、EUとカナダが結んでいる「EUカナダ包括的経済貿易協定(CETA)」、日本と英国が9月に大筋合意した「日英包括的経済連携協定」はほぼ同じと考えてよいものです。

 モノの貿易については原則として、カバー率100%、関税率ゼロ%、数量制限ゼロとする。サービスの貿易については、WTO(世界貿易機関)が定める最低限+アルファです。

 EUは、日本とカナダに対しては、同一競争条件をめぐって厳しい制約を課してはいません。距離的にも遠いですし、貿易額も英国ほど大きくはないからです。英国はこの点にも不満を抱いています。

英国とEUとのFTA交渉が難渋する中、日本は英国とあっけないくらいに早く合意しました。これはなぜですか。

庄司:日本の製造業が被る影響を回避するためです。英国に進出した日本の製造業は、日本・欧州大陸・英国にまたがったサプライチェーンを構築しています。なので、これを傷つけないことが日本の利益になります。日英包括的経済連携協定を早期に確立することで、不安材料を英EU自由貿易協定に限定することができます。

 他方、EUとオーストラリアの間ではFTA交渉が行われていますが、WTO+アルファ程度の内容が想定されています。よって、オーストラリア型というのは、英国にとっては事実上のノー・ディールを意味します。

英国のTPP参加は可能性大

英国のエリザベス・トラス国際貿易相は、日英が日英包括的経済連携協定で大筋合意した際、「合意は、環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定(TPP11)に加盟し、英国を友好・同盟国との現代的な自由貿易協定ネットワークの中心に据えるための重要な一歩」と発言しました。TPPへの加入は、英国にとってどの程度重要なのでしょう。

庄司:非常に重要です。近い将来に加盟する可能性が高いでしょう。理由は以下の3つです。

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