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「満州事変」石原莞爾は悲劇の将軍か

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上司・東条英機との対立でさらに窮地に

戸部教授は「歴史的には石原の予測が正しかったが、石原には少数の信奉者がいるだけで確固とした支持グループがなかった」と分析する。当時の参謀総長の閑院宮は皇族、次長の今井清は重病だった。作戦部長として昇格していた石原は事実上の参謀本部トップであり、しかも正確な見通しをも持ちながら石原は日中戦争の拡大を阻止することができなかった。悲劇の将軍と呼ばれるゆえんだ。

37年9月に石原は参謀本部を追われ、関東軍参謀副長として転出したが、新勤務先の上司である東条英機参謀長(後の首相、陸相)と感情面も含め決定的に対立したことで、さらに窮地に追い込まれた。東条は会議や部下の報告を克明にメモし3種類もの手帳を作ったというエピソードを持つ勤勉かつ官僚的な軍人だ。

参謀副長時代に、満州国の英雄である石原のもとには広く各界の要人らが面会に訪れたという。一方で東条は秩序の乱れを嫌い、「2.26事件」でも、真っ先に青年将校らを反乱軍として鎮圧することを主張した1人でもあった。戸部教授は「自ら努力し、努力した人間が報われるべきだという気持ちが強い東条と、そうした面に無頓着で天才型の石原では、人間としての肌が合わなさすぎた」と言う。

「東条には石原への才能への嫉妬もあっただろう」(戸部教授)。石原派は閑職をあてがわれ続け、太平洋戦争前の41年3月に退役を余儀なくされた。当時、全体の人事権を持つ陸軍大臣は東条その人だ。事実上の陸軍からの追放だった。国運を賭けた大戦争で石原の才能を活用できる局面は来なかった。もし石原が太平洋戦争を指揮していたら、と惜しむ声は現在でも一部で聞かれる。

今日でも一部に根強い人気を持つ石原莞爾だが、北岡氏は厳しい点数を付ける。(1)結果さえよければ、勝手に軍隊を動かしてよいという下克上の先例を作った石原の責任は大きい(2)37年の日中戦争の勃発時に、できれば中国本土の資源も手に入れたいと石原は考えていたため、戦争の不拡大方針を徹底できなかった(3)陸軍の幕僚に批判された時に「満州事変の時とは国際情勢が全く違う」と言って反対すべきだったーーなどを指摘する。「日中戦争の拡大が石原の悲劇だとは思わない。石原のような人物を持ったことが日本にとっての悲劇だった」と述べる。

戸部教授は石原を「日本陸軍が生んだ鬼才のひとり」と認めながらも「満州事変で日本の外交も内政も混迷を深めたのは事実」とする。事変当時、石原自身は陸軍を辞めざるを得なくなることを覚悟していたという。戸部教授は「満州事変後に、やはり石原に一定の処罰を与えるべきだった」とする。北岡氏も「一般社会とのルール違反とはレベルが違う。軍隊を無断で動かしたのは重大な違法行為だ。処罰して退役処分にするなどの方法があったと思う」と話す。

それでも石原の伝記は現在も後を絶たない。最近10年でも数十冊にも及ぶという。その理由を北岡氏は「現在の閉塞感があるのかもしれない」と指摘する。戸部教授は「多面的な行動や思想の歴史的評価がまだ難しいからだ」という。組織のワクを超えてしまった人材をどう処遇すべきかの問題は、現在の企業社会にも見過ごせないテーマとして残っている。

(松本治人)

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