伊秩弘将インタビュー前編 | 【AmebaMusic】アメーバミュージック

伊秩弘将インタビュー前編

The Producer HIROMASA IJICHI(伊秩弘将)

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9歳で作曲。渡辺美里でデビュー

ライブで熱唱する伊秩さん

——音楽プロデューサーとしてご活躍されている伊秩さんですが、そもそも音楽に関わりを持つようになったきっかけを教えてください。

伊秩 小学校まで遡るんですが、3年生のときにたまたまピアノの音色に反応してしまったんです。
当時、1学年にクラシック曲を1曲与えられ、皆それを卒業するときにレコーディングする、そんな学校だったんです。公立の(千代田区立番町)小学校でしたが、音楽に触れる機会がすごく多かった。それで自然と交響楽や、メロディの高揚感というものが、子どもながらすっと入ってきて。僕はその中でもピアノの音色が好きで、自分から習いたいといって始めました。

——9歳から作曲を始められたとか。

伊秩 16小節くらいの簡単な曲が浮かんで、教室のオルガンで弾いてみたところ、クラスのみんながいい感じになってくれたんですよ。それで子ども心に「作曲っていいな」みたいなものが芽生えたのが9歳のとき。それから僕はずっと作曲家になりたいと思ってやってきました。4年生から僕には毎週新曲(インストゥルメンタル)を発表するコーナーがありました(笑)。当時流行っていた『ソウル・ドラキュラ』などの洋楽ディスコブームもあって自由で、今まで聞いていたクラシックの交響楽とは違う高揚感もあり、それにも感銘してそういう方向に行きたいな、と。

——音楽へのアプローチとしては珍しいのでは?

伊秩 純粋な形で始まりましたからね。13歳からは詞も書き始めました。その頃ユーミンとか小椋佳さんとか、情景を描写したような絵画的な詞が多く、それに影響されディスコブームのビートの方に行かないで(笑)、フォークの方にいっちゃったんです。その詞をピアノを弾きながら歌う、というのが中学の頃。高校に入ってからはロックに出合ってバンドを結成し、レコード会社への売り込みなどを具体的に考え始めました。

——そして業界デビューということですね。

伊秩 18歳あたりから、レコード会社にデモテープを200本くらい送って売り込んでいました。23歳終わりぐらいのとき、渡辺美里さんが『マイ・レボリューション』でブレイクしたあと、新人作曲家を募集していてそこに引っかかり、彼女に曲を。また、森高千里さんの作詞家としても声がかかりました。それで仕事を始め、1年後ソロデビューもしましたが、他人のヴォイス、フィルターを通して曲を表現することの方が、より自分らしさを表現できるような気がしてきたんです。自分のアルバムだとかえって周囲にプロデュースされてしまっているみたいで…。そこで模索が始まって、自分で歌うのもいいけれど、自分とはまったく違う女の子のフィルターを通して詞や曲を書くのも面白いと感じるようになりましたね。それから今のようなスタンスの土壌ができたという感じですね。