では、前回ちょこっと紹介しましたこの資料館の目玉展示である零戦だ、、。

これをれいせんと呼ぶ方とぜろせんと呼ぶ方がいますが、現在ではゼロ戦の方が一般的ですね、(因みにわたしはれいせんです)。

特に海軍は陸軍と違い英語表記も敵国語として使わないという事は無く、結構フランクだったと聞きます、、。

なので型式もA6Mといい陸軍の一式戦隼がキ43なのとは対照的だ、、。

 

ゼロ戦の諸元に関してはお好きな方はもう知り尽くしていると思いますし、知りたい方には専門書も沢山出ているので細かくは割愛します、、。

 

 

錦江湾と吹上浜より引き上げられた21型の後期型と52型丙を組み合わせて52型甲として平成4年に再生された、、。

当然朽ち果てた機体であったからかなりの部分を作り直している、。

 

直ぐ真近で観察できるのがここの特徴で、手を伸ばせば届いてしまう距離だ(当然触っちゃだめですよ)、、。

 

ステップが有りコクピットも観察できます、、。

 

 

89式と思われる7.7mm機銃と共にしっかりと再現されています、。

 

この位置からだと主翼上面も観察出来て、、。

 

 

航法灯(正面から見て右が赤で左が青と、船から範を取って他機から左右が解るようになっている、これは現在でも同様)も観察できる、、。

 

 

こういうのはなかなか見れない場所なので貴重です、、。

 

 

この頃の機体は全金属製と呼ばれているのでそう思っている方も多いと思いますが、、。

実際は動翼(方向舵や昇降舵等)は帆布張りと旧態のままだし、尾部の造形も金属では生産性が悪いので木製である、、。

 

 

尾灯部分は一見枕頭鋲が打たれジュラルミン製なのですが、、。

その芯は木製である、そのパーツが展示されてた、、。

 

 

木でキールが作られ合板を張って作られている、ここへ超々ジュラルミンの薄板が張られているんですね、、。

 

 

傍らにはエンジンも展示されています、、。

 

 

中嶋飛行機設計の栄だ、引き上げ機体から31型でしょうか、、。

もう微に入り細に入り外観はすぐにでも稼働しそうなほどきれいに再現されています、。

 

 

80年前にこのような物を作り上げた先人の努力は並々ならぬものが有ったでしょう、。

ただ各務ヶ原航空博物館にある3式戦飛燕に使われたハ40、つまりダイムラー・ベンツ製DB601のコピーのカットモデルを見ると、まだまだ欧米には今一歩という所でしょうか、、。

 

 

キャブレターと過給機もしっかりと再現されている、、。

高高度を飛ぶ飛行機は空気の薄い高空でもエンジン出力を確保できるようにエンジンの回転を利用して過給機、つまり圧縮装置を使うのですが、、。

当時の日本の航空機用エンジンは、何とか難しい2段過給機までは実用できたのですが、。

排気を使うターボ過給機はついに実用できずに弱点となっていますね、。

 

 

当日は地元の中学校の生徒さんが社会科見学に来ていました、、。

 

展示はこの他にここ鹿屋から特攻へ行った若き青年たちの遺影と遺書や手紙が展示された部屋では(ご遺族に配慮して撮禁となっています)、。

祖父祖母や親たちに話を聞いているのでしょう、真剣に資料を読んでレポートしていたのが印象的でした(勿論騒いでいる男子生徒も多いですがね)、、、。

 

他にも紹介したいものが多々あるのですが、撮禁になっているものも多く、。

やはり一度は行ってみるのが良いかと思います、、、。

 

ただ規模的には陸軍の知覧の特攻平和会館の方が充実しており、、。

どちらかを選択するのであれば知覧の方をお勧めします、、。

 

知覧については実働する唯一の4式戦疾風含めまたの機会にという事で、、。

戦争の悲惨さを忘れないために貴重な展示内容と改めて思いました、、。