續猿蓑

巻之下

春の部脚注


     花 櫻
                  露沾
温石のあかるゝ夜半やはつ櫻
<おんじゃくの あかるるよわや はつざくら>。「温石<おんじゃく>」は冬の寒い夜などに懐に抱いて温まるための石。胃弱などの治療に使った。桜の便りが聞かれるような季節になると温石も不要になる。

寝時分に又みむ月か初ざくら     其角
<ねじぶんに またみんつきが はつざくら>。夕月が美しい暮時などは、寝る前にまたあの月を見ようと思うものだが、咲き始めの桜というのも同じ想いを誘うものだ。

顔に似ぬほつ句も出よはつ櫻     芭蕉

ちか道や木の股くヾる花の山     洞木
<ちかみちや きのまたくぐる はなのやま>。近道だが道なき道でもある欝蒼たる林の中、木の股をくぐって歩くような場所だが、しかしそこはなんと花の森でもあった。思いがけない発見。

角いれし人をかしらや花の友     丈草
<すみいれし ひとをかしらや はなのとも>。「角を入れる」のは、額のはえぎわを四角に剃るのがこの時代の若い男の子たちの流行だった。ちょっと不良がかった子供が頭目になっている一団が花見に来ている。何時の時代も、少年たちは格好をつけたがるのだ。

花散て竹見る軒のやすさかな     洒堂
<はなちりて たけみるのきの やすさかな>。桜の花はとおに散ってしまった。花が咲いているときには、風といい、雨といい、気になって仕方が無かったが、もはや気にならないこの気安さよ。

富貴なる酒屋にあそびて、文君が爪音も、
醉のまぎれに思ひいでらるゝに、
酒部屋に琴の音せよ窓の花      維然
<さかべやに きんのおとせよ まどのはな>。文君<ぶんくん>の故事。司馬相如(前179-前117)は 中国、前漢の詩人。字(あざな)は長卿(ちようけい)。華麗な辞賦で名高く、武帝に召されて宮廷詩人として活躍した。富豪の娘卓文君との恋愛の話は有名(『大字林』)。この恋愛劇というのは、相如が文君の弾く琴の音に心を奪われて求愛し、二人で駆け落ちしたという話。一句は、お大臣の造り酒屋に招かれてきたが、酒蔵の高窓から美しい顔をのぞかせて、琴の音でも聴こえこようものなら、それはもう文君の爪弾きと思ってしまうことだろう。

賭にして降出されけりさくら狩    支考
<かけにして ふりだされけり さくらがり>。昔から「春に三日の晴れ間なし」という。全くその通りで特に桜の頃は天気はめまぐるしく変わる。晴を賭けて桜見物に来たのまではよかったが、案の定というか振り出してしまった。せっかくの桜狩がめちゃくちゃになるわ、賭けには負けるわ。

人の氣もかく窺はじはつ櫻      沾徳
<ひとのきも かくうかがわじ はつざくら>。初桜とは、桜の開花のこと。桜の開花ほど気をもむものは無い。人の心なら、どんなに気を使う相手でもこれ程までには気にしないのではないか。たしかに、今日でも開花予想は大きな話題になっている。

くもる日や野中の花の北面      猿雖
<くもるひや のなかのはなの きたおもて>。花曇りの昼下がり。野原に満開の一本の桜。それを北側から眺めてみる。春の陽が柔らかく花ごしに薄紅の光を放射している。

七つより花見におこる女中哉     陽和
<ななつより はなみにおこる じょちゅうかな>。「七つ」はここでは朝の4時ごろにあたる。「おこる」は活動開始のこと。今日は家之子郎党上げて花見だというので女中たちは四時起をして頑張っている。

見る所おもふところやはつ櫻     乙州
<みるところ おもうところや はつざくら>。花の季節の到来と聞けば、思うもの、見るもの、何もかもが桜に結びつけてしまう。

咲花をむつかしげなる老木哉     木節
<さくはなを むつかしげなる おいきかな>。「むつかし」は、うっとうしいという程度の意味。桜の木も老木となると若木が咲く季節に調子を合わせているものの、何処と無し鬱陶しいような顔つきをしている。

我庭や木ぶり見置(直)すはつ櫻   沾荷
<わがにわや きぶりみなおす はつざくら>。我が庭、普段は大して気にも留めていないのだが、一本の桜が色づき始めてきたら、急に木々の枝振りが気になってきた。作者沾荷<せんか>は、福島平の内藤露沾に仕えた武士。

二の膳やさくら吹込む鯛の鼻     子珊
<にのぜんや さくらふきこむ たいのはな>。花見の席の二の膳の料理。一陣の風に桜の花びらが降ってくる。そのうちの一枚が鯛の鼻に吹き込まれていった。

蓑虫の出方にひらく櫻かな      卓袋
<みのむしの でかたにひらく さくらかな>。蓑虫は、越冬から覚めて羽化する。丁度それが桜の咲く季節。別に申し合わせたわけではないが、美に最も遠い蓑虫と、美の象徴桜が同期しているというのは、わざわざ突き合せないと気がつかない。多分卓袋がこの国で最初に気がついた人かも。

田家
蒟蒻の名物とはんやま櫻       李里
<こんやくの めいぶつとわん やまざくら>。山桜が美しく咲いている山里。桜は美しいが、こんな田舎では食べ物に旨いものは無いだろうが、コンニャクは産地だ。どういうコンニャク料理があるのか教えて欲しいものだ。作者李里<りり>は詳細不明。

咲かゝる花や飯米五十石       桃首
<さきかかる はなやはんまい ごじっこく>。桜が今にも開花しようとしている。この家の主は、50国扶持の侍だ。花の盛りはこれから来る。主の盛りもこれから来るか?

山門に花ものものし木のふとり    一桐
<さんもんに はなものものし きのふとり>。寺の山門に見事な桜の木。だが少し、幹が太すぎて山門を圧倒しているのがよろしくない。

ながれ木の根やあらはるゝ花の瀧   如雪
<ながれぎの ねやあらわるる はなのたき>。流木が滝つぼに横たわっている。その根が、桜の花の混った滝の水に打たれて洗われている。

花笠をきせて似合む人は誰      其角
<はながさを きせてにあわん ひとはだれ>。「花笠」は、桜の花を日傘につけたものであるか、散った花びらが付着した笠。ここでは前者であろう。花見の客は多勢いるが、この中で花笠をかぶって、その美しさに負けずにかぶれる人がいるかな。

はれやかに置床なほす花の春    少年一鷺
<はれやかに おきどこなおす はなのはる>。「置床」は、床の間の代用とする移動できる台。付け床(『大字林』)。置床をわざわざしつらえて大きな瓶に桜の花を活けたのである。それが何とも春を寿ぐ気分が出るのである。

ぬり直す壁のしめりや軒の花     卓袋
<ぬりなおす かべのしめりや のきのはな>。土壁を塗りなおした土蔵の傍に桜の花。土蔵の壁は、この季節降り続く雨でなかなか乾かない。湿った壁に映える桜の花。

一日は花見のあてや旦那寺      沾圃
<いちにちは はなみのあてや だんなでら>。寺の庭の桜。旦那寺の和尚は、一日檀家の衆を招いて花見をしたいのであろう。

八重櫻京にも移る奈良茶哉      
<やえざくら きょうにもうつる ならちゃかな>。奈良といえば八重桜。その八重桜が京にも沢山ある。が桜と一緒に奈良茶粥も京の都にやってきているようだ。

  若 菜

濡縁や薺こぼるゝ土ながら      嵐雪
<ぬれえんや なづなこぼるる つちながら>。春の七草のナズナを摘んで、それをまだ土の着いたまま濡れ縁に置いてみた。

梟の啼やむ岨の若菜かな       曲翠
<ふくろうの なきやむそばの わかなかな>。峻険な崖っぷちに鳴いていたフクロウが急に啼き止んだ。若菜採りの人々がその崖の近くに来たのであろう。

夕波の船にきこゆるなづな哉     孤屋
<ゆうなみの ふねにきこゆる なずなかな>。夕方の船の中からナズナを打つ音が聞こえてくる。明日の朝の七草粥の準備をしているのであろう。

一かぶの牡丹は寒き若菜かな     尾頭
<ひとかぶの ぼたんはさむき わかなかな>。若菜は元気に春の陽を受けて青々している。それに比べて牡丹は未だ季節が早い。如何にも寒々しい。

   附 柳

春もやゝ氣色とゝのふ月と梅     芭蕉

きさらぎや大K棚もむめの花     野水
<きさらぎや だいこくだなも むめのはな>。「大黒棚」は、七福神のひとり大黒天を祀った神棚のこと。如月の二月25日は天神様の縁日。菅原道真ゆかりの梅の花をささげて祝うのだが、その梅がついでに大黒棚にもさしてあるというのがユーモラスである。

守梅のあそび業なり野老賣      其角
<もるうめの あそびわざなり ところうり>。この句は、江戸亀戸天神で詠んだ。天神社では梅がシンボルだから梅を大切に管理しているのだが、野老が奉納してある。これは梅の手入れの暇に遊びで掘ったものであろう、というのだ。「野老」は、ヤマノイモ科のつる性多年草。原野に自生。柄のある心臓形の葉を互生。雌雄異株。夏、腋生の花穂に黄緑色の小花をつける。根茎は太くひげ根を多数出し、これを老人のひげに見たて「野老」の字をあてる。根茎は正月の飾り物とされ、また苦味を抜けば食用となり、煎(せん)じて胃病や去痰(きよたん)の薬とする。オニドコロ。古名トコロズラ(『大字林』)。

里坊に碓きくやむめの花       昌房
<さとぼうに からうすきくや むめのはな>。「里坊」とは、山寺の僧などが、人里に設ける僧坊(『大字林』)。畿内の神社や寺院では、京の街中に里坊を作った。首都における営業拠点だったのである。その里坊で、カラウスで米を搗いている。折りしも梅が境内で匂い立つ早春の昼下がり。

投入や梅の相手は蕗のたう      良品
<なげいれや うめのあいては ふきのとう>。「投入<なげいれ>」は、華道で自然に限りなく似せて花を生ける手法。投入れに梅の花を使うとすれば、相棒にフキノトウを使うと投入れに似つかわしい。

病僧の庭はく梅のさかり哉      曾良
<びょうそうの にわはくうめの さかりかな>。病気で冬の間にすっかり痩せてしまった坊さんが寺の庭を掃いている。境内には梅の香が漂っている。

あたらしき翠簾まだ寒し梅花     万乎
<あたらしき みすまださむし うめのはな>。初春に簾を新調したようだが、梅の季節にはまだ寒々しい。

薄雪や梅の際まで下駄の跡      魚日
<うすゆきや うめのきわまで げたのあと>。春になったが時ならぬ雪が降った。梅はどうかと誰かが梅の木の下まで見に行ったらしい。下駄の歯の跡が点々と続いている。

しら梅やたしかな家もなきあたり   千川
<しらうめや たしかないえも なきあたり>。白梅が咲いている。周囲は貧しい家ばかりでこれといった住居は無い。しかし、貧しさにもめげず気高く白梅の香が匂い立っている。

寐所や梅のにほひをたて籠ん     大舟
<ねどころや うめのにおいを たてこめん>。寝床に梅の香が漂ってきた。しっかりこれを包み込んで今夜は梅の香の中で一夜を過ごそう。

天神のやしろに詣て
身につけと祈るや梅の籬ぎは     遊糸
<みにつけと いのるやうめの まがきぎわ>。「籬<まがき>」は、神社の垣根、神垣。そこに咲いている梅の花。その匂いが我が身に着いて欲しい。それと同時に天神様のご利益も我が身に訪れて欲しい。作者遊糸は美濃の人。詳細は不明。

それぞれの朧のなりやむめ柳     千那
<それぞれの おぼろのなりや むめやなぎ>。朧月夜の春の夜。月光の中に梅ノ木と柳の木が見えるが、二つは二様に浮き出して見える。梅は鋭く、柳はなよなよと。

時々は水にかちけり川やなぎ     意元
<ときどきは みずにかちけり かわやなぎ>。川岸の柳の枝。水面まで落ちてしまって、その先端は常に水に流されているのだが、時折水勢が衰えたときそれがすっくと天に向かって立ち上るときがある。作者意元については不明。

ちか道を教へぢからや古柳     江東李由
<ちかみちを おしえじからや ふるやなぎ>。普段何気なく付き合っている柳の古木。気がついてみたら人に近道など教えるときにランドマークとしてその柳を指名している。

青柳のしだれくヾれや馬の曲     九節
<おあおやぎの しだれくぐれや うまのきょく>。「馬の曲」は、馬術の曲芸。柳の枝の垂れている下をくぐって、柳の枝がびくともしないなどという曲芸があってもいいか?

輪をかけて馬乗通る柳かな      巴丈
<わをかけて うまのりとおる やなぎかな>。柳の垂れ下がっている街路樹の辺り。若い侍は、わざと鞭を入れて馬を走らせて柳の枝を揺すって通る。とてもカッコウが良い。作者巴丈<はじょう>は支考門人で名古屋の人。

    附 魚

鶯に長刀かゝる承塵かな       其角
<うぐいすに なぎなたかかる なげしかな>。「承塵<しょうじん>」は、長押<なげし>の意味で使われている。長押は、和風建築で、鴨居(かもい)の上や敷居の下などの側面に取り付けた、柱と柱の間をつなぐ横材。位置により、地覆(じふく)長押・縁(えん)長押・内法(うちのり)長押・天井長押などがあり、普通には内法長押のことをいう。元来は構造材であったが、貫(ぬき)の発達により装飾材へと変化していった(『大字林』)。この長押に長刀が懸けてある。物騒な凶器だが、これとは対照的に鶯の鳴く声がする。

うぐひすや野は塀越の風呂あがり   史邦
<うぐいすや のはへいごしの ふろあがり>。風呂上りの裸のままで、鶯の鳴き声を聴いている。塀の向こうは誰もいない野っ原。誰に見られることなく裸と鶯の初音を楽しめる。

鶯に手もと休めむながしもと     智月
<うぐいすに てもとやすめん ながしもと>。台所で流しものの仕事をしていると、窓の外から鶯の声が聞こえてきた。思わず手元を休めて聞き入ってしまった。

鶯や柳のうしろ藪のまへ       芭蕉

瀧壺もひしげと雉のほろゝ哉     去来
<たきつぼも ひしげときじの ほろろかな>。ごうごうと音をたてて落ちる瀑布の轟音をも圧するように、雉が一声あげて飛び立った。去来秀句の一つ。

春雨や簔につゝまん雉子の聲     洒堂
<はるさめや みのにつつまん きじのこえ>。細かい糸を引いて春雨が降っている。その中に雉の一声。かぶっている蓑で、その声を包み取ってしまいたいような気分。

駒鳥の目のさやはづす高根哉     傘下
<こまどりの めのさやはずす たかねかな>。「目の鞘はずす」とは、油断無く周囲を見回すために目に付いている鞘を外して見るという意味。目に鞘があるかどうか? 一句は、駒鳥が一心に警戒しながら峰の高みで辺りを警戒している。

こま鳥の音ぞ似合しき白銀屋     長虹
<こまどりの ねぞにあわしき しろがねや>。駒鳥(ロビン)のころころという鳴き声は、銀細工をする職人の打つトンカチの音とよくマッチングする。

燕や田をおりかへす馬のあと     野童
<つばくろや たをおりかえす うまのあと>。燕が、田をおこしている馬の鋤の後を折り返し行ったり来たりしている。燕は、この馬の周辺に飛んでくる蝿やアブなどや、田をおこしたときに土中から出てくる虫などを狙っているのである。

巣の中や身を細しておや燕     少年峯嵐
<すのなかや みをほそうして おやつばめ>。燕の巣を覗いてみると、親燕は身を細くして巣の中にいた。作者峯嵐は伊賀上野の人という以外詳細不詳。

雀子や姉にもらひし雛の櫃      槐市
<すずめこや あねにもらいし ひなのひつ>。「雛の櫃」は、雛遊びに用いる塗り物の曲げ物。落ちてきた雀の子を姉から貰ったこの櫃に入れたのであろう。

蝿うちになるゝ雀の子飼哉      河瓢
<はえうちに なるるすずめの こがいかな>。ハエたたきで蝿を捕る。その音を聞いても子飼いの雀は驚かない。当然で、こうして捕ったハエは、その雀の餌になったのである。だから、怖いどころか小雀にとっては快い音に聞こえたであろう。作者河瓢<かひょう>については不詳。

行鴨や東風につれての磯惜み     釣箒
<ゆくかもや こちにつれての いそおしみ>。春の風に誘われて、北に向かって飛び立とうとしている鴨の一団が磯で羽を休めている。きっと、慣れ親しんだ磯に別れかねているのであろう。作者釣箒<ちょうしゅう>は不詳。

芳野西河の瀧
鮎の子の心すさまじ瀧の音      土芳
<あゆのこの こころすさまじ たきのおと>。「芳野西河の瀧」は、吉野の大滝のこと。その激流を登る鮎の子達。その滝の音は彼らにどのように聞こえるのであろうか。すさまじい恐怖と共に聞こえるに違いないが、それでもそこを登っていこうとする。

かげろふと共にちらつく小鮎哉    圃水
<かげろうと ともにちらつく こあゆかな>。子鮎が激流を上って行く。流れにはウスバカゲロウの幼虫も飛来して、川面をちらつかせている。作者圃水<ほすい>については不詳。

しら魚の一かたまりや汐たるみ    子珊
<しらうおの ひとかたまりや しおたるみ>。「汐たるみ」は、汐の満潮や干潮の頂点に達した瞬間で、汐が静止するとき。白魚は、一瞬静まった潮時に橋の上などから見ることができる。ここではかたまって見えた。

白魚のしろき噂もつきぬべし     山蜂
<しらうおの しろきうわさお つきぬべし>。白魚の白さを人々は語り続けてきたが、いまだ表現しつくしたとは言えない。もはや、言葉は尽きたのだ。それほどに白魚は白い。

深川に遊びて、
しら魚をふるひ寄たる四手哉     其角
<しらうおを ふるいよせたる よつでかな>。白魚漁には四手網を使う。竹篭で四角錐を作ってこれを川底に沈めておいて、引き上げると白魚が捕獲できる。引き上げると、網の底に白魚が集められる。これが、白魚を「ふるい寄せた」というのである。

  春 草

なぐりても萌たつ世話や春の草    正秀
<なぐりても もえたつせわや はるのくさ>。「なぐる」は、「殴る」のではなくて、「薙る<なぎる>」こと、立ちかんななどで除草することを言う。春の雑草の生命力の強さと頼もしさを讃えてた句。

若草や松につけたき蟻の道      此筋
<わかくさや まつにつけたき ありのみち>。春になって蟻の一団が若草の間を行列して歩いていく。その勢いのよさは松林の中なら相応しいが、芽吹いたばかりの若草では似合わない。

春の野やいづれの草にかぶれけん   羽紅
<はるののや いずれのくさに かぶれけん>。一日野原を歩いて帰ってきてみると、顔にかぶれ。どの春草にかぶれたものやら。

川淀や淡をやすむるあしの角     猿雖
<かわよどや あわをやすむる あしのつの>。小川に芦の芽が角吹いてきた。淀みにやってきた泡は、この芦の新芽のところで一休み。

宵の雨しるや土筆の長みじか     闇指
<よいのあめ しるやつくしの ながみじか>。昨夜の宵の内に通り雨があった。その雨に誘われて土筆が土手に芽を出した。長いのも短いのも。

味ひや櫻の花によめがはぎ      車來
<あじわいや さくらのはなに よめがはぎ>。「よめがはぎ」は春の七草「よめな」。桜の季節になると、ヨメナの味が一段とおいしくなる。

茨はら咲添ふものも鬼あざみ     荒雀
<いばらはら さきそうものも おにあざみ>。ノバラの生えている原っぱに、加えて鬼アザミが咲いている。何ともとげとげしいことだ。作者荒雀<こうじゃく>については未詳。

堤よりころび落ればすみれ哉     馬莧
<つつみより ころびおちれば すみれかな>。土手の上から足を滑らせて落ちたところにかわいらしいスミレの花。ばかされたみたいな気分。

踏またぐ土堤の切目や蕗の塔     拙侯
<ふみまたぐ どてのきれめや ふきのとう>。小川でもあるか土手の切れ目。底をまたぎながら下を見るとそこにフキノトウ。一つ採って帰ろうか。

ふみたふす形に花さく土大根     乃龍
<ふみたおす なりにはなさく つちおおね>。春が来て踏み倒された大根が斜めになったまま花を咲かせている。

早蕨や笠とり山の柱うり       正秀
<さわらびや かさとりやまの はしらうり>。「笠とり山」は「笠取山」京都宇治市の山。京滋バイパス笠取ICがある。その山から床柱を売りに来る山人がかついでいる柱には、その先っぽにワラビが付いている。

みそ部屋のにほひに肥る三葉哉    夕可
<みそべやの においにふとる みつばかな>。味噌蔵の周りの三つ葉芹。青々と勢いがよい。これはきっと八丁味噌の香を吸って元気になったものであろう。作者夕可<せきか>は不詳。美濃の人。

日の影に猫の抓出す獨活芽哉     一桐
<ひのかげに ねこのかきだす うどめかな>。日当たりのよい場所に栽培してあるウド。できるだけ白い芽を伸ばそうと木の葉などを集めてこんもりと盛っておく。ここはまた格好の猫の排便場所ともなる。猫の奴、ここに排泄して跡を埋けておこうというので後ろ足で土をかける。そのときうっかり独活の芽を掻きだしてしまうのである。

蒲公英や葉にはそぐはぬ花ざかり    圃箔
<たんぽぽや はにはそぐわぬ はなざかり>。タンポポの葉というのは、殆ど真横に張って土に着かんばかりである。片や、花はというとすっくりと立って天を向いて咲いている。葉と花が寄り添わない。

  猫 恋  附 胡蝶

我影や月になを啼猫の恋       探丸
<わがかげや つきになおなく ねこのこい>。春の月夜。恋する猫は歩きながら、自分の影にまで恋して啼きながら徘徊する。その真剣なこと。

うき恋にたえてや猫の盗喰      支考
<うきこいに たえてやねこの ぬすみぐい>。恋の季節の猫は食事などにかまってはいられない。さりながら、食わなくては死んでしまうので時ならぬ時刻に盗み食いをしているのであろう。我が家のおいしい食べ物を盗んだ奴がいるが、そういう事情と思って許してやろう。

おもひかねその里たける野猫哉    ミノ己百
<おもいかね そのさとたける のねこかな>。恋の想いに耐えかねて、愛する猫のいる里で大声上げて恋の声を上げる野良猫がいる。何ともほほえましい。

白日しづか也、
とまりても翔は動く胡蝶かな     柳梅
<とまりても つばさはうごく こちょうかな>。蝶がしずかに舞い降りて花びらの先にとまった。とまった瞬間も羽は動いている。全く音はしないが羽がゆっくり動いている。その動きがなお一層静寂を引き立てる。

衣更着のかさねや寒き蝶の羽     維然
<きさらぎの かさねやさむき ちょうのはね>。「かさね」は、「襲<かさね>」で王朝の女性の衣服、十二単など。衣更着は如月で二月だが、余寒のために寒いので衣服を重ねて着ることから名付けられたという。蝶の翅は、襲のように美しいが、如月の寒さの中ではもう一枚襲を重ねた方がよさそうだ。

蝶の舞おつる椿にうたるゝな     闇指
<ちょうのまい おつるつばきに うたるるな>。蝶が舞っている。庭では椿の花がさかんに落ちている。蝶たちよ落ちてくる椿に気をつけよ。

風吹に舞の出來たる小蝶かな    出羽重行
<かぜふくに まいのできたる こちょうかな>。羽化したばかりの小さな蝶、まだ能く飛べない蝶だが吹く風に逆らって飛んでいるうちに、上手に舞ができるようになった。

昼ねして花にせはしき胡蝶哉     雪窓
<ひるねして はなにせわしき こちょうかな>。花に寝ている間に寝過ごしでもしたのであろうか。一匹の蝶がせわしなく花から花へ蜜を吸いに飛び回っている。雪窓<せつそう>は不詳。

  春 鹿

振おとし行や廣野の鹿の角      沢雉
<ふりおとし ゆくやひろのの しかのつの>。広い野原を旅していくと、そこに鹿の角が落ちていた。春になって鹿が角を振り落としたのであろう。想像の句。鹿の角は、古来春に自然に落ちるとされていたので、この句となったが、鹿の角は発情期などにメスをめぐって争って落とすことはあっても自然に落下することは無い。

  春 耕

妙福のこゝろあて有さくら麻     木節
<みょうふくの こころあてあり さくらあさ>。「さくら麻」は、麻の一種。花の色から、あるいは種子をまく時期からともいうが実体は不詳。俳諧では夏の季語とされた。さくらお。「畑打音やあらしのさくらさ」(『大字林』)。「妙福」は、宗教上の意味か?法事などをさすのかも知れない。何か宗教上の行事を予定していて、それに合わせて麻の種を蒔いているのか?。

苗札や笠縫をきの宵月夜       此筋
<なえふだや かさぬいおきの よいづきよ>。「苗札」は、稲の苗床にその品種などの名前を書いた札。「笠縫」は美濃杭瀬川の歌枕「旅人のみのうちはらふ夕暮に雨に宿かる笠縫の里」(『十六夜日記』)。宵月夜のあかりに照らされて、笠縫の平野の奥深くまで苗床の白い札が点々と夜目に見える。

千刈の田をかへすなり難波人     一鷺
<せんがりの たをかえすなり なにわびと>。「千刈」は、稲束を千束も収穫できるような大きな田んぼのこと。摂津大坂平野にでると大きな田んぼが豊かに広がる。そこの百姓たちは千束田んぼを耕すのであろう。作者は伊賀の商人で、伊賀地方では盆地なので大きな田は無いので、うらやましさが入っているのかも知れない。

  桃 附 椿

白桃やしづくも落ず水の色      桃隣
<しらももや しずくもおちず みずのいろ>。桃の花の色は、水の色。水の色ならそこから雫が落ちてもよさそうなものだが、落ちない。

金柑はまだ盛なり桃の花       介我
<きんかんは まださかりなり もものはな>。「金柑」とは、ミカン科の常緑低木。中国原産で、渡来は古い。暖地で栽培される。葉は広披針形。夏に芳香のある白色五弁の花を腋生する。果実は球形または楕円形で径2センチメートルほど。晩秋、橙黄色に熟し、生や砂糖漬けにして食べる(『大字林』)。桃の花が咲き始めたが、金柑も頑張っていて未だ盛りだ。

伏見かと菜種の上の桃の花      雪芝
<ふしみかと なたねのうえの もものはな>。京都の伏見は桃の名所。遠く菜畑の黄色い花の上の方にピンクが見えるがあの辺りが桃で有名な伏見の辺りであろう。

梅さくら中をたるます桃の花     水鴎
<うめさくら なかをたるます もものはな>。「たるます」は、緊張をほぐすといった意味。梅と桜の花の間を仲良く結びつけるように合間に桃の花が美しく咲く。

花さそふ桃や哥舞伎の脇躍      其角
<はなさそう ももやかぶきの わきおどり>。ここに「花」とは桜のこと。桜の花の咲くのを誘うように先に咲く桃の花は、さしずめ桜が太夫だから脇大夫といった格であろう。

江東の李由が、祖父の懐旧の法事に、お
のおの経文題のほつ句に、弥陀の光明と
いふ事を、
小服綿に光をやどせ玉つばき     角上
<こぶくめに ひかりをやどせ たまつばき>。李由のお寺で先先代の住職の法要を開催して、そのときの句題が「弥陀の光明」であったという。「小服綿<こぶくめん>」とは、僧尼など出家した人の着た綿入れの平服。普通、白で十徳に似る(『大字林』)。ここに、「小服綿」は、真宗中興の祖蓮如が着用したという伝えによる。

穂は枯て臺に花咲椿かな       残香
<ほわかれて だいにはなさく つばきかな>。これは椿の台木に別品種の椿を接木したのである。しかし、接ぎ穂の方は枯れてしまった。しかし、台木は元気でなんと花を咲かせている。

取あげて見るや椿のほぞの穴     洞木
<とりあげて みるやつばきの ほぞのあな>。「ほぞ」はへそのことだが、ここでは椿の花の基部の穴。椿の花は突如全部が一緒に落ちる。それが潔いとされたり、首が落ちるようにポトンと落ちるので縁起が悪いと言われたりする。ここでは、落ちた花の付け根を改めて覗いてみる。

ちり椿あまりもろさに續て見る    野坡
<ちりつばき あまりもろさに つぎてみる>。上の句と同じ動機。あまりに散り際がよいので改めて落ちた花を拾ってもとの花の萼につけてみる。

  款 冬 附 躑躅 藤

山吹や垣に干たる簔一重       闇指
<やまぶきや かきにほしたる みのひとえ>。「蓑一重」は、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」からもじった。山吹の咲いている家には蓑一つが垣根に干してある。「実の一つだに無きぞ」では無かったのか。

田家の人に對して、
吹も散るか祭のふかなます      洒堂
<やまぶきも ちるかまつりの ふかなます>。「ふかなます」は、海のフカで作った膾のこと。上方ではフカを食する習慣は古くからあった。田舎でもフカが食べられたのは日持ちがよかったからである。田舎の祭では、フカの膾がご馳走で、きっと季節柄その中に山吹の黄色い花びらが落ちて色ぞりを添えるのでしょうね。

堀おこすつゝじの株や蟻のより    雪芝
<ほりおこす つつじのかぶや ありのより>。山地にきれいなツツジが咲いているので、家の庭に移植しようと根を掘り起こしてみると、無数の蟻の集合。巣があったものらしい。

藪疇や穂麥にとヾく藤の花      荊口
<やぶあぜや むぎほにとどく ふじのはな>。薮に接する麦畑。薮には藤の蔓がのびてそれが垂れ下がって麦畑まで降りてきている。そこに紫の花が咲いている。

  春 月

山の端をちから貌なり春の月    長崎魯町
<やまなおはを ちからがおなり はるのつき>。山の端に春の月が上ってきた。ボーっとした朧月で、山の端を頼りにして、そこにつかまるようにして上って来た。

  春 雨 附 春雪 蛙

物よはき草の座とりや春の雨     荊口
<ものよわき くさのざとりや はるのあめ>。春の雨に誘われて若草が芽を出している。しかし、その場所取りは弱々しく、元気は感じられない。

咄さへ調子合けり春の雨       乃龍
<はなしさえ ちょうしあいけり はるのあめ>。しとしとと温和に雨が降っている。こういう心休まる感じの雨の日は、人と話をしえいても話までよく合う。

春雨や唐丸あがる臺どころ      游刀
<はるさめや とうまるあがる だいどころ>。「唐丸」は、ニワトリの一品種。鳴き声を賞玩する目的で作られた。とさかは単一で羽は黒い。鳴き声は五〜一三秒と長く、やや高音。新潟で改良された。天然記念物(『大字林』)。長い春雨ですっかり庭は濡れて、外にいるのはさすがの唐丸でも楽しくないらしく、図々しく台所に上がってくる。

なにがし主馬が武江の旅店をたづねける
時、
春雨や枕くづるゝうたひ本      支考
<はるさめや まくらくづるる うたいぼん>。「なにがし主馬」は、本馬主馬で、彼が投宿していた江戸の旅館を訪ねたらかれは春雨に閉じ込められた無聊を居眠りで紛らしていたのである。そのとき、能役者だから、そのタネ本を枕にして眠っていたので、本が崩れていたのである。

はる雨や光りうつろふ鍛冶が鎚    桃首
<はるさめや ひかりうつろう かじがつち>。長くたれこめた春雨。何もかも錆びさせてしまう。あれほど手入れを怠らない鍛冶屋の鎚でさえどことなし生気が無い。

淡雪や雨に追るゝはるの笠      風麥
<あわゆきや あめにおわるる はるのかさ>。旅の途中に時ならぬ春の雪が降ってきた。しかし、やがて雨に変わって笠に積った春の淡雪も溶けて消えた。あたかも頭の上で冬が春に追い越されたような。

行つくや蛙の居る石の直       風睡
<いきつくや かわずのすわる いしのろく>。「直<ろく>」はしっかりして微動だにしない状態。蛙がぴょんぴょん跳ねて、一番奥の大きな石の上に胡坐をかいて座っている。この安定感が欲しかったのだといわんばかりに威張って座っている。

  汐 干

のぼり帆の淡路はなれぬ汐干哉    去来
<のぼりほの あわじはなれぬ しおひかな>。「のぼり帆」は、幟帆で、大きな帆のことらしい。3月3日の干潮。淡路島付近を航行中の大きな帆をかけた舟一層、干潮に悩まされているのであろう。先ほどから殆ど動いている様子がない。のんびりと帆をかけて春の海をひねもす止っているようだ。

品川に富士の影なきしほひ哉     闇指
<しながわに ふじのかげなき しおひかな>。今日は3月3日、干潮で品川沖の海水ははるか沖合いまで行ってしまった。おかげで今日は海の中に富士の姿は無い。

  雑 春

出がはりやあはれ勸る奉加帳     許六
<でがわりや あわれすすむる ほうがちょう>。「出がわり」は、3月5日に奉公人の年季が開ける。巣立つもの改めて奉公に上がるもの、行く人来る人の交錯する日がこの日であった。人の世の無常を感じる今日に、丁度勧進をすすめる奉加帳が回ってきた。何ともいいタイミング!!

若草やまたぎ越たる桐の苗      風睡
<わかくさや またぎこえたる きりのなえ>。「またぎ越える」は、飛び越える、の意。春の若草は成長も早く、桐の苗を越えて成長している。しかし、来年はもうそうは行くまいよ。

Kぼこの松のそだちやわか緑     土芳
<くろぼこの まつのそだちや わかみどり>。「黒ぼこ」は、黒土のこと。これが苗床の土か、山地の土かは句からは分からない。黒々とした栄養たっぷりの黒土の松の苗木、青々とした新芽が生えて、その生育のよいこと。

かげろふや巌に腰の掛ちから     配力
<かげろうや いわおにこしの かけちから>。「掛ちから」は、「懸税」とかいて、上代、稲の初穂を茎のまま抜いて青竹にかけて神に奉納したもの。掛け稲(『大字林』)。陽炎が岩に立ち昇っている。あれは、磐に「懸税」を供えているのか。

小米花奈良のはづれや鍛冶が家    万乎
<こごめばな ならのはずれや かじがいえ>。「小米花」は、雪柳のこと。白い晩春から初夏にかけて小さな白い花をつける。きれいなゆきやなぎの花が咲いている。奈良のはずれの鍛冶屋の家の前。なお、奈良の刀は評価が低く、安物の代名詞。

聲毎に獨活や野老や市の中      苔蘇
<こえごとに うどやところや いちのなか>。春の市の賑やかなこと。様々な売り声でウドやトコロ売りが叫んでいる。

木の芽だつ雀がくれやぬけ参        ミノ均水
<きのめだつ すずめがくれや ぬけまいり>。「ぬけ参」とは、伊勢神宮に親や雇用主に断らずに脱走してお参りに行くこと。「雀がくれ」は、雀が隠れることができるほどに枝葉が伸びてきた状態を言う。春、雀がくれならぬ人がくれと言うべきだろうか。ぬけ参りの男女が街道を行く。作者均水<きんすい>は美濃の人だが詳細は不明。

春の日や茶の木の中の小室節     正秀
<はるのひや ちゃのきのなかの こむろぶし>。「小室節」は、江戸時代に流行した馬子唄の一。起源・内容については諸説あるが、現在伝わらず不詳(『大字林』)。だが、常陸の国小室の遊女が歌っていた歌謡が起源とも言われている。それはともかく、春のうららかな昼下がり。緑の茶畑の中から「小室節」が聞こえてくる。

三尺の鯉はねる見ゆ春の池      仙化
<さんじゃくの こいはねるみゆ はるのいけ>。鯉の三尺は巨大。眠くなるような時間の動かない春の昼下がり、池で三尺の巨大な鯉が跳ね上がった。

引鳥の中に交るや田蝶とり      支浪
<ひきどりの なかにまじるや たにしどり>。「引鳥」は、春北に帰る渡り鳥のこと。鶴などがその典型。彼らは長旅のための栄養を摂るために田のタニシなどを一心に食べる。それに混じって人間がタニシを拾いに行って鳥と混じっていると言うのである。

  三 月 尽

朧夜を白酒賣の名殘かな       支考
<おぼろよを しらざけうりの なごりかな>。「白酒」は、もち米・味醂(みりん)などを材料として作った濃厚な白色の酒。甘味が強く、独特の香気がある。雛祭りに供える(『大字林』)。江戸時代は一年中消費された。とくに春先はよく売れたのである。だから、朧月夜は、白酒売りにとっては商売の名残の夜だったのである。これから暑くなるとあまり売れないのだ。

  歳 旦

若水や手にうつくしき薄氷     少年武仙
<わかみずや てにうつくしき うすごおり>。元日の朝、男子は若水を汲む。春とはいえ寒さの残る元朝のこと、若水に浮く氷は冷たい。それでももう春のこと、氷は正月の光に薄く輝いている。
 作者武仙<ぶせん>については未詳。

莚道は年のかすみの立所哉      百歳
<えんどうは としのかすみの たたちどかな>。「筵道<えんどう>」とは、貴人が歩む通路に敷くむしろ(『大字林』)。御所でのこと。正月に帝の四方拝が行われる筵道は、新春のことだから春霞が最初に立つ所ということになる。理屈の勝った嫌味な句。

鶯や雑煮過ての里つヾき       尚白
<うぐいすや あおうにすぎての さとつづき>。元日の朝、雑煮を食べ終えたとき鶯の鳴き声が聞こえてきた。里に続く田舎で啼く声らしい。

蓬莱の具につかひたし螺の貝     沾圃
<ほうらいの ぐにつかいたし にしのかい>。「蓬莱」は、正月の飾りのこと。ここに螺<つぶ又はつぼ>を使いたい。

母方の紋めづらしやきそ始      山蜂
<ははかたの もんめずらしや きそはじめ>。「きそはじめ<着衣はじめ>」は、江戸時代、正月三が日中の吉日に、新しい衣服を着始めること。また、その儀式(『大字林』)。この着物は母の実家が家紋をつけて贈ったものらしい。そこではじめて見る母の実家の家紋はものめずらしいのである。いまでも留袖など母の実家の家紋をつけるが、こういう風習の名残でもあるか?

にいへる衣裳を顛倒すといふ事を、老
父の文に書越し侍れば、
元日や夜ぶかき衣のうら表       千川
<がんじつや よぶかききぬの うらおもて>。前詞にあるように、千川に父荊口から手紙が来て、元日に藩主のお供で江戸城に登城するについて、よく宵のうちから着ていく衣装を裏表念入りに点検するように。そういうことがっ中国の詩にもあるよという。ありがたい父の言葉だ。そこで私は暗いうちから、衣服をうらおもて念入りにチェックしている。

人もみぬ春や鏡のうらの梅      芭蕉

明る夜のほのかに嬉しよめが君    其角
<あけるよの ほのかにうれし よめがきみ>。「よめが君」とは、鼠(ねずみ)の異名。特に新年、鼠をさしていう忌み詞(『大字林』)。日本語というのは素晴らしい。正月にはネズミを呼ぶ名前が変わるというのだから。
 元日が来る夜更けになると、「嫁が君」などと呼ばれるネズミはさぞ喜んでいるであろう。またh、正月に合わせて嫁に来た花嫁。改めて正月に披露され、嫁といわれる白々と明ける初夜のあかりのうれしさ、という艶っぽい意味も裏に隠されているらしい。

楪の世阿彌まつりやかづら     嵐雪
<ゆずりはの ぜあみまつりや あおかずら>。「楪<ゆずりは>」は、ユズリハ科の常緑高木。暖地の海岸近くに多く、庭木ともされる。葉は互生し、大形の狭長楕円形で、質が厚く濃緑色。葉柄は赤い。雌雄異株。初夏、黄緑色の小花を総状につけ、実は暗青色に熟す。新葉の生長後に旧葉が落ちるのでこの名がある。葉は新年の飾りに用いられる(『大字林』)。世阿弥祭りは不明。「青かずら」は、アワブキ科の落葉つる性小木本。葉は楕円形で、春、葉に先立って淡黄色の五弁花をつける。九州に自生。幕府の新年行事の能楽は、特に五大将軍綱吉の元禄時代さかんであった。ユズリハは、新しい葉が先に出て、そのあとで古い葉が落ちるので世代交代の円満なことを言って縁起が良いとされた。幕府もそのめでたさの中にある、というような意であろう。

萬歳や左右にひらひて松の陰     去来
<まんざいや さゆうにひらいて まつのかげ>。正月の萬歳は、畿内の農村地帯の百姓の正月アルバイト。能狂言の発達した上方では、東国よりはるかに発達した芸能として定着していたのである。その萬歳が、正月を寿いで舞を舞う。大夫と才蔵のふたり左右に開いて松をはさんで舞っている。如何にも正月らしい雰囲気だ。

鶯に橘見する羽ぶきかな       土芳
<うぐいすに たちばなみする はぶきかな>。「羽ぶき」は、羽ばたき。鶯に橘を見せると、その匂いに誘われて羽ばたきをしてやってくる。そこで鶯はきれいな声で鳴くので、それがつけめなのだ。

はつ春やよく仕て過る無調法     風睡
<はつはるや よくしてすぐる ぶちょうほう>。「よく仕て」は、完璧にこなすぐらいの意味。多少心が入らない欠点があるかもしれない。正月の挨拶、実に手際のよい振る舞いで挨拶をして立ち去っていったが、一種の不調法のようだ。

冬年孫をまうけて、
元日やまだ片なりの梅の花      猿雖
<がんjつや まだかたなりの うめのはな>。「片なり」は、未熟の意。春とはいえ未だ寒いこの季節。梅の花も満開とはいかない。私の孫もまだ幼いので、寒さが心配だ。去年の冬に孫が生れたのだが、その喜びを春の句に託したのである。

子共にはまづ惣領や藏びらき     蔦雫
<こどもには まずそうりょうの くらびらき>。「蔵びらき」とは、年の初めに、吉日を選んでその年初めて蔵を開くこと。また、その祝い。多く正月11日に行い、鏡餅を雑煮などにして食べた。江戸時代、大名が米蔵を開く儀式をしたのにはじまる(『大字林』)。蔵開きの祝いは総領の仕事。彼が跡取りだから。

背たらおふ物見せばや花の春     野童
<せたらおう ものやみせばや はなのはる>。「背たらおう」は背負うこと。古来意味の不明の句として処理されているのでここでもそれに従うこととする。実際何を言っているのか分からない。

歯朶の葉に見よ包尾の鯛のそり    耕雪
<しだのはに みよつつみおの たいのそり>。正月、松の小枝とともに蔵などの戸に鯛二尾をシダの葉と共にしばってぶら下げて飾る。「包尾」はそのときのタイを包んだ包み紙。そのタイの尻尾の曲げ上がったところの具合がすばらしいというのである。作者耕雪については不詳。

鮭の簀の寒氣をほどく初日哉     左柳
<さけのすの かんきをほどく はつひかな>。「鮭の簀」は、秋に鮭を捕るための梁をしかけ、簀に上がった鮭を捕まえるのである。これが冬中放置されて寒さで凍っていたのだが、新春を迎えて凍りも溶けている。

はつ春や年は若狭の白比丘尼     前川
<はつはるや としはわかさの しろびくに>。「白比丘尼」は伝説の美人の尼さん。年齢800歳の高齢だが顔が白かったのでこの名がついた。初春などと言うのも、初などと言っているが、これも800歳ぐらいの高齢で、本当は歳をとっているのだ。

枇杷の葉のなを慥也初霞       斜嶺
<びわのはの なおたしかなり はつがすみ>。びわの葉は、照り葉で裏には毛が一面に生えている。早春でも青々としているところを詠んだ。

世の業や髭はあれども若夷      山蜂
<よのわざや ひげはあれども わかえびす>。世の中のことには訳の分からないことが多くある。たとえば新年の若戎の絵などはその一例で、若といいながらひげが生えている。

濡いろや大かはらけの初日影     任行
<ぬれいろや おおかわらけの はつひかげ>。年頭の諸行事につかわれる素焼きの土器。使用前に熱湯で煮たりして使う。だから元日の神棚に並んだところを見るとみんな水に濡れて光っている。

元日や置どころなき猫の五器     竹戸
<がんじつや おきどころなき ねこのごき>。「猫の五器」は、猫のご飯茶碗のこと。正月にはすべて掃除をする。とくに食器などは念入りにきれいに洗う。そういう中にあって猫の五器には片付けるわけにもいかず困ってしまう。

我宿はかづらに鏡すえにけり     是樂
<わがやどは かずらにかがみ すえにけり>。是樂<ぜらく>については詳細不詳だが、句意からして能役者らしい。「かづら」は、かつらで、女装の髪の毛。鏡すえというのは、鏡餅をそなえること。普通には、鏡餅は親族に配るものだが、我が家では「かづら」に供えるのだ。

搗栗や餅にやはらぐそのしめり    沾圃
<かちぐりや もちにやわらぐ そのしめり>。蓬莱飾りのカチ栗が、鏡餅に水気を送って柔らかくしているのだろうか、柔らかな光がさしている。

虫ぼしのその日に似たり藏びらき   圃角
<むしぼしの そのひににたり くらびらき>。正月11日に蔵開きをする。季節は違うが土曜の虫干しのような気分になる。圃角<ほかく>については詳細不明。