芭蕉db

嵯峨日記

(4月22日)


二十二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、

 「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは*、さびしさをあるじなるべし。  又よめる

山里にこは又誰をよぶこ鳥

   獨すまむとおもひしものを*

 獨住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士*の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を うしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ*。予も 又、

うき我をさびしがらせよ かんこ鳥

(うきわれを さびしがらせよ かんこどり)

とは、ある寺に独居て云し句なり。

暮方去来より消息ス。

乙州*武江より 歸り侍るとて、旧友・門人の消息共あまた届。其内曲水状ニ*、予 ガ住捨し芭蕉庵の旧き跡尋て、宗波*に逢由。

昔誰小鍋洗ひしすみれ艸

(むかしたれ こなべあらいし すみれぐさ)

又いふ、

「我が住所、弓杖二長計にして*、楓一本より外は青き色を見ず」
と書て、

若楓茶色になるも一盛

(わかかえで ちゃいろになるも ひとさかり)

  嵐雪*が文 ニ

狗背の塵にえらるゝ蕨哉

(ぜんまいの ちりにえらるる わらびかな)

出替りや稚ごゝろに物哀

(でがわりや おさなごころに ものあわれ)

其外の文共、哀なる事、なつかしき事のみ多し。


前へ 次へ

表紙へ 年表へ


うき我をさびしがらせよかんこ鳥

 初案は、「憂き我をさびしがらせよ秋の寺」だった。これも、「秋の寺」から「閑古鳥」と変えることで秋から夏に季題が移っている。句もまた鮮明になっているのがすばらしい。ところで、この寺は、三重県長島町の大智院。『奥の細道』の旅を大垣で終え、伊勢神社遷宮に向かう途次、そこでこの句を詠んだ。

 京都の秋は、過去に、娘達と家族旅行で「桂離宮」「修学院離宮」「高台寺」「三千院」「寂光院」「嵯峨野」などへ行ったことがあります。今回はセンチメンタル・ジャーニーではありませんが、同じ京都の秋を、家内と「乾坤無住同行二人」の旅となりました。覚悟はしていたことですが、やはり娘達のいない家族旅行は寂しいものです。
私は笛の名手「仲国」のように、「峯の嵐か、松風か、尋ぬる人の琴の音か」と感じる詩情も持ち合わせはありませんが、嵯峨野の「祇王寺」「滝口寺」等を尋ねると、少し平家物語の世界に浸れることが出来ました。(写真と文:牛久市森田武さん)