長嶋監督解任劇は割烹料理店から始まった

2011.03.29


1980年10月21日、長嶋監督は「男のけじめ」と辞意を表明したが、実際はフロントによる解任だった【拡大】

 木枯らしが舞う寒い日だった。主賓が一番に来ていた。昭和48年、東京・四谷の鮮魚割烹料理店。V9を果たした巨人・川上哲治監督(当時)を囲む内輪だけのささやかな慰労会が開かれていた。

 主賓が今度は奇妙なことを言い出した。

 「いま、ここに長嶋が来るからね。オレがさっき呼んだんだよ」

 ほどなくして、本当に長嶋茂雄がやってきた。ペナントレースのたわいない話がひとしきり終わると突然、川上さんが切り出した。

 「長嶋、君の今のバッティングじゃ3割はもうとても打てんぞ。ここでさっと辞めて、オレの後をやってくれんかね」

 同席していた牧野茂ヘッド、藤田元司投手コーチが長嶋巨人を支える再建プランまで明かして、不世出のスーパースターに初めて引退を迫ったのである。

 ここまで言うと、川上さんはトイレに立った。長嶋は座り直した。正座して帰りを待った。

 「監督、私は青空のような気持ちで静かにバットを置きたいんです。このままではどうしてもその心境になれません。あと1年、もう1年だけ、悔いのない野球人生を送って、そこで静かにバットを置かせていただきたい」

 結局、長嶋の希望が通った。“さよなら長嶋”の列島フィーバーは、その1年後。49年のシーズンが終わると、長嶋は新たに船出する注目の自分のスタッフ名簿を発表した。

 ヘッドコーチ 関根潤三

 投手コーチ 宮田征典

 バッテリーコーチ 淡河弘

 なんとも脆弱なコーチ陣が並んだ。川上さんの再建プランは完全に拒否されていた。最初から長嶋采配に不安を抱いていた川上さんは、牧野、藤田を自ら口説いて長嶋巨人に残るよう要請していただけに、新スタッフ名簿のショックは大きかった。周囲が危惧していた2人の確執が決定的に表面化した瞬間だった。

 川上さんの不安は的中し、1年目、長嶋巨人はチーム史上かつてないみじめな最下位に終わる嵐の船出。2、3年目こそリーグ優勝を果たすも日本シリーズでは阪急の軍門に下って宿命の日本一奪還はならず。4年目はリーグVもかなわず、運命の5年目は最悪の展開。チームは浮上の気配もなく、7月には早々に白旗を揚げていた。

 「もうダメじゃ。長嶋じゃ巨人は日本一にはなれん!」

 怒りで体を震わせた男は、電話を手に取ると、意を決してダイヤルを回した。昭和54年、夏の終わりのことだ。

 「俺だ! 明日東京へ電車で帰る。オレの車を迎えにやるから、それに乗ってきてくれ。後ろの座席に毛布を入れておく。会社(読売新聞社)が近づいたらそれをかぶって誰にもわからんようにな…」

 声の主は静岡・修善寺で療養中だった読売のドン、務台光雄老会長。電話をとった藤田さんは、長嶋解任を発表の2カ月前、ここで知るのである。

 川上再建案に沿って長嶋内閣は総退陣。藤田さんのもとで巨人は復活していった。

 球史を揺るがした長嶋解任の陰には「毛布事件」のようなユーモラスな一コマもちりばめられていたが、すべての始まりは四谷の鮮魚割烹料理店でのやりとりであった。

 ■東 光晴(ひがし・みつはる) 昭和39年、日大文理学部卒。スポーツニッポンを経て報知新聞社に入社。V3から巨人軍と夏の甲子園高校野球を主に担当した。著書に「人間王貞治」(読売新聞社刊)、「プロ野球ユーモア全集」(講談社刊)などがある。

 

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