サティからクルト・ワイルにエノケンも 斎藤晴彦

★クラシックに詞を付けた歌が反響呼ぶ

2011.04.13


斎藤晴彦【拡大】

 ぼくが斎藤さんを初めて見たのは、本人が演劇センター68/69(現劇団黒テント)の芝居に初参加した『鼠小僧次郎吉』三の替わりの公演の1970年だったと思う。六本木の自由劇場だ。このとき、ぼくは大学3年で植草甚一さんの単行本などを出していた義兄小野二郎が関わる晶文社の嘱託だった。その関係で編集者の津野海太郎さんと装丁の平野甲賀さんが所属していたこの劇団の芝居の券を5枚ほど買った覚えがある。斎藤さんは紙猫屋という不思議な名称の役で、ともかく言いようのないおかしさをばらまく興味深いエノケン声の役者だった。

 その後、劇団は黒テントによる移動演劇を始め、『チャンバラ−楽劇天保水滸伝』(山元清多作、佐藤信演出、72年)、『阿部定の犬』(佐藤信・作演出、72年)、『シュールリアリズム宣言』(加藤直作・村松克己演出73年)等の作品を三鷹駅北口のテントで観たが、ぼくらの仲間で交わされるのは「斎藤さんが面白かった」か「斎藤さんにもっとやって欲しかった」と、斎藤フリークの会話だった。75年、有明で観た『キネマと探偵』(佐藤信・作演出)でぼくらは度肝を抜かれた。冒頭、斎藤さんが「チゴイネルワイゼン」の演奏に乗せて日本語の替歌を歌い出したのである。聞けば作詞は斎藤さん。この公演は友人を誘い3回観た。76年には下北沢の本多劇場建設予定地を本多社長に借りて『キネマと怪人』を公演している。ぼくは、2年半在籍した雑誌『宝島』を退社して1年目のフリー、ま、いわば無職に近い状態だった。この年の暮れにタモリの初アルバムが出て、77年にテレビ・デビューしたタモリはたちまちのうちに売れっ子になり、同時に彼の番組を構成することになるぼくも、次第に食えるようになるのである。芝居の後、斎藤さんと話をするようになったのもこの頃からだ。79年に横澤彪さんがプロデュースした、プロ野球が雨の時放映するために作られた雨傘番組『雨に笑えば』に、タモリと研ナオコに加えて斎藤さんと松金よね子と東京乾電池が出演した。これがぼくと斎藤さんの初めての仕事上での接点になった。

 80年代になっても、斎藤さんの唄は芝居でも精彩を放っていた。中でも感心し爆笑したのは♪どうせなら快楽の只中行きたい天国へ/快楽に似たあの蒸し風呂へ/行くぞトルコへ金続く限り……で始まる斎藤さん作詞のモーツァルトの「トルコ行進曲」だ。ちょうど、トルコ風呂の名称が問題になってソープランドと改称された頃だ。何とかこれをテレビに出したくて、85年、タモリの『今夜は最高!』(日本テレビ)に和田アキ子さんと共演してもらった。任侠オペラと題し、クラシックのメドレーに詞を付けた東映やくざ映画のパロディを作り、斎藤さんの替歌を組み込んだのだ。いまでもユーチューブで見られるのが嬉しい。斎藤さんのクラシックに詞を付けた歌は反響を呼び、86年には「ウィリアムテル序曲」や「カルメン」などの曲に合わせて斎藤さんが唄うKDD国際ダイヤル通話のCMがヒット。年末には『音楽の冗談』というクラシックの替歌アルバムが出た。

 斎藤さんと香港に2回、ニューヨークへ2回、NYの帰りにラスヴェガスとハワイへ行っている。ホノルルの書店で斎藤さんはブレヒトの本を買った。「好きなんだよねぇ、ブレヒトが」−斎藤さんの「好きなんだよねぇ」のフレーズは、ブレヒト、ピランデルロから、モーツアルトにサティにマイルスにコルトレーンにシナトラにプレスリーにクルト・ワイルに、そしてエノケン(榎本健一)に捧げられる。(演出家・高平哲郎)

 ■さいとう・はるひこ 役者。舞台役者。1940年7月30日東京湯島天神下生まれ。早稲田大学文学部演劇科卒業。劇団青俳、演劇集団発見の会を経て、71年黒色テント創立に参加。クラシックに自ら詞を付けて以来、歌う仕事が増え『レ・ミゼラブル』を始め数々のミュージカルにも出演。著書に『クラシック音楽自由自在』等がある。

 ■たかひら・てつお 1947年1月3日、64歳、東京生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店、編集者を経てフリーに。以後、テレビの構成や芝居・ミュージカルの翻訳演出等を手掛ける。今月は『小さんひとり千一夜・春のめざめ』(4月19日渋谷区文化センター大和田伝承ホールにて18時30分開演)の監修で忙しい。

 

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