2004/11/21 11:41:33
改:2004/12/01 15:26:22
2004/12/28 :「ネギ畑と風車」(西口さん提供)追加

2005/01/20:山本嘉吉さんの写真追加
2005/02/19 :背景メモ追記、文献(西山、中嶋)などから


石津の風車 記:斎藤吉彦

 かつて、南海本線の湊駅−石津川駅間(堺の海岸線沿い)の車窓から畑地に林立する風車群を楽しむことができた。


ネギ畑と風車
写真提供:西口輝男氏(堺市鳳南町 )
昭和20〜30年ごろ浜寺石津町〜浜寺諏訪森町のネギ畑

写真提供:山本嘉吉氏(科学館友の会) 昭和41年1月末撮影


最後の一基が堺市楠町3丁目に残っているとのうわさを聞き、11月4日に写真を撮りに行った。ところが、残念なことに最近朽ちてしまい跡形もないとのことであった。仕方がないので、服部緑地の日本民家集落博物館に保存されているものを見に行った。それが次の写真である。


風車の回転運動をクランクで上下運動を得る

風車の一回転ごとに手押しポンプのピストンを引き上げる

背景メモ

1.風車誕生の経緯
 次の2説があり、現在調査中
@大正末期、この地方ではため池に井戸水をくみ上げ、いつも満水にしておくのが子どもたちの仕事。大人たちはその水を底抜けタンゴに入れ作物に水をまく。ははねつるべを使って井戸水をくみ上げていたものの、子どもにとってはつらい仕事。当時小学生だった和田忠夫氏もその一人、彼がクレヨンの箱に描かれていたオランダの風車をヒントに発明。数年後にはこの地域に300基を超える風車が林立。
 この内容はNHK「明るい農村」でも放映されたそうである。

A風車は堺市東部で誕生し、西部へ普及した。
 昭和3年、壷野安太郎氏が考案し、字夕雲開(大仙公園内)の水田で実用に供した。1個の風車で約2反の水田を潅漑したので、たちまち字夕雲開10町歩の水田に数十基が林立した。これは固定式であった。回転できる型を作ったのが堺市湊の神代吉三氏の先代で、昭和8年ごろトラスも風車も全て鉄製のものを作った。湊地区では畑潅漑に使用された。

2.明治時代までは綿が栽培されていた(米主綿従)が、アメリカや中国からの輸入綿に押されて、ミツバ、ホウレンソウ、キクナなどの野菜の栽培に。しかし、これらは大量の水が必要。この地域は砂質土壌のため潅水が大変。地下4〜5メートル掘ると豊富な水が出たのでこれを汲み上げて水桶でまいていた。→重労働

3.16世紀に綿作の技術が和泉・河内など畿内に普及。やがて、農家が換金のための木綿織りをはじめる。絹織り職人が綿織りを始めるなどし、19世紀初頭、泉州木綿の年間総生産量100万反、江戸末期には200万反。
→泉州の紡績産

4.風車群は石津の他にも
 堺市湊−石津地区の他に、諏訪湖南、知多半島東浦町、渥美半島伊良湖付近、土浦市付近桜川流域、房総半島館山付近に、1920年代前半から60年代前半に存在した。手押しポンプの出現で、それぞれの地域の地縁技術により開発された。これらの地域の特徴は、撥釣瓶による地下水の揚水潅漑をしていた、海陸風に恵まれている、商業的農業の発達により資本が蓄積されていた、である。

引用文献
1.「大阪の理科ものがたり」大阪府理科教育研究会編、S56
2.西山左近”大阪府堺市付近の風車潅漑について”農業土木研究18,214,1950
3.中嶋峰広:地理学評論57(Ser.A)5 307 1984

謝辞
千葉大学の佐藤建吉先生から文献などの基本的情報をいただきました。ここに謝意を表します。