ホーム > 組織でさがす > 環境生活部 > 県民生活文化課 > 青森県史の質問箱 01

関連分野

更新日付:2008年7月1日 県民生活文化課

青森県史の質問箱 01

青森県の由来や地名について

Q1 青森の地名の由来は何ですか。

A1 近世部会調査研究員の中野渡一耕がお答えします。

 その名のとおり、”青い森”があったからと言われています。青森という地名は、江戸時代前期の1624(寛永元年)年、弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたものです。当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われています(残念ながら、今は残っていません)。

Q2 青森県には”戸(へ)”の付く地名が多いのですが、いくつまでありますか。また、その由来を教えてください。

A2 近世部会調査研究員の中野渡一耕がお答えします。

 色々な説があります。 青森県にある”戸”の付く地名は、三戸町・五戸町(以上、三戸郡)・六戸町・七戸町(以上、上北郡)・八戸市の5つです。ほか、岩手県には一戸町(二戸郡)、二戸市、九戸村(九戸郡)の3つがあります。四戸(しのへ)は現在はありません。なお、一戸から九戸は地元の人の名字にもなっています。こちらは一から九まですべてそろっています。
 平安時代後期の奥州藤原時代に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部(ぬかのぶ)郡が置かれました。さらにそのなかを9つの地区に分けたときに、一戸から九戸の地名が付けられました。この場合の”戸”は”部”、つまり、”○○地区”くらいの意味でしょう。”七戸(しちのへ)”なら”第7地区”という意味になります。ほか、”戸(へ)”の意味については、「牧場の木戸のあった場所」、とか、「蝦夷(えみし)平定の際に残した守備兵の駐屯地〔柵戸(きへ)〕」など、いろいろな説があります。

津軽と南部
Q3 津軽と南部は、お互いに仲がよくないように言われていますが、なぜでしょうか?

A3 近世部会担当の石塚雄士がお答えします。
 
 江戸時代に違う藩だった地域が、明治時代になって一つにまとめられたことに主な要因があると考えられます。
南部地方と津軽地方では、現在でも地域性に様々な違いが見られて興味深いところです。その原因は気候や地形の違いなどいろいろ考えられますが、この2つの地域が江戸時代の約260年間、違う藩の領地だったことも原因の一つとして見逃せないでしょう。
 それぞれの藩主である南部氏と津軽氏の関係は、戦国時代末に津軽為信が南部氏から独立したことから始まり、 幕末の野辺地戦争に至るまで、決して良好とはいえませんでした。
 現在もたまに言われる南部と津軽の対立感情は、もともと地域性の異なっていた2つの地域が、明治維新後の廃藩置県によって、青森県として1つにまとめられたことに根ざしているようです。
 近世から近代へと時代が移るなかで引き起こされた2つの地域間での摩擦が、こういった藩主同士のいきさつと絡まり合って、一種の対立感情のようなものが生じたものと思われます。

関連ページ

この記事についてのお問い合わせ

環境生活部 県民生活文化課 文化・NPO活動支援グループ
電話:017-734-9238  FAX:017-734-8046

この記事をシェアする

  • facebookでシェアする
  • twitterでシェアする
  • LINEでシェアする

フォローする

  • facebookでフォローする
  • twitterでフォローする