2003.11.25 第180号

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日本聖公会管区事務所
162-0805東京都新宿区矢来町65
電話03(5228)3171 FAX03(5228)3175
発行者 総主事 司祭 三鍋 裕

信徒の働きを生かす英国の教会

管区事務所総主事  司祭  ローレンス 三鍋 裕

珍客がありました。チャールス司祭という方が、英国レスター教区から日本の教会との交流について相談するために来られたのです。是非にということで、11年前に中国で急逝された聖使修士会(SSM・通称ケラム)の木俣茂世神父のお墓参りも日程に入っていました。墓前でケラムで修道者を埋葬するときに歌われた歌を歌われました。

ケラムには修道院と、修道会が運営する神学校があり、学生も普段は修道者と同じ生活をしました。厳しい生活でした。暖房の石炭運びも、台所仕事も掃除も、もちろんトイレの床をタワシで磨くのも全部自分たちでします。食事は質素な英国でもさらに質素、院内はもちろん禁酒。外出も自由ではない。そのような生活を共にする中でチャールスは木俣神父を深く尊敬するようになりました。

修道者を志して英国に向かうとき、船はまだ神戸にいるのに、そのお母様の死は知らされませんでした。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とのお父様哲次司祭の信念によりました。お墓参りをご一緒した老主教は「昔の先輩は偉かった」と言っておられましたが、その「昔の先輩たち」も「昔の司祭たちは近寄るのも恐かった」と言っておられました。私なんぞ超低空飛行ですね。

日本に修道院を開設するために帰国しておられた木俣神父に、ケラムの神学校に行きたいと相談したら、「悪いことは言わないから止しなさい。修行も学問も大変で、あなたにはとても無理」とのこと。素直に聞けば良いのに、甘く見て行ってしまったのが失敗。早く卒業してシャバに戻り、まともな食事にありつくには、勉強するしかありませんでした。高下駄をはかせてもらったにしろ、卒業したときに一番喜んでくれたのは木俣神父ことファーザー・モーズィーズでした。

チャールスから、とっくに忘れた英語を思い出しながら最近の英国の教会の様子も聞かせてもらいました。私たちの学生時代と今ではまったく様子が違うようです。昔は、教会でお金の心配なんかしませんでした。献金とは福祉や海外宣教のために捧げるもので、自分たちの教会を支えるなんて考えませんでした。経常費のための献金はありはしましたが微々たるもの、教会全体として過去の遺産を運用して成り立っていましたから。人件費も年金も聖職養成費も心配しませんでした。基金の運用益だけで聖職俸給の半分は賄えたからです。聖職禄なんて言葉もありますし。時代と共に目減りもしたでしょうし、運用の失敗もありましょう。今は年金給付に優先的に資金を回せば残りはほとんどない。(結構な年金ではあります。公的年金と聖職年金を合わせれば現役時代の収入とあまり変わらない。ただし、もともとの給与水準が低いのと退職後の住居が問題なのはあちらも同じみたいですよ。)聖職志願者の数は少し回復してきたけれど、その養成費と聖職になってからの人件費のほうが問題とか。チャールスも細かい数字までは分かりません。しかし暗い話ばかりという訳でもありません。

彼は2人の副牧師と3人で9教会の牧会を担当しています。礼拝出席者の平均は一番多い教会で90人、一番少ない教会で4人、9教会合計で約240人。教区に分担金として納める額が年間1千4百万円。ほんの一例ですが、以前と違って自分たちの教会は過去の遺産ではなく、自分たちの日々の献金で支えるのだという理解への変化でしょう。初めて自立しようとしているとも言えましょうか。聖職は不足といえば不足でしょうが、余り増えては俸給を払いきれないのも正直な状況でもありましょう。レスター教区では有給専任の聖職が160人余り、無給聖職が約40人。でも、これでは足りません。日本以上に活発なのは信徒の働きです。信徒奉事者とは違うようですが、レイ・リーダーとパストラル・アシスタントと呼ばれる人々の働きです。どちらも無報酬。レイ・リーダーは聖餐式での聖杯捧持はもちろん、説教もしますし、葬送式も司式します。病床へご聖体を捧持することも許されています。パストラル・アシスタントは礼拝よりも訪問などが主で、ご聖体を捧持することはないそうです。レスターではレイ・リーダーが約80人、パストラル・アシスタントが約40人、どちらも数が急速に増えているそうです。牧会に必要な基礎的な神学とカウンセリングの教育は受けるそうですが、詳しいことを教えて欲しいものです。彼らはそれなりに教育があり、それぞれの地域の中で生活してきた人々で、地域の共同体を良く理解しているという利点があります。

英国の教会が昔のように経済的に裕福であったほうが良かったろうとは思います。しかし、過去の遺産から聖職はそれなりの俸給を受け、信徒は受身のお客様のままで良かったのでしょうか。いろいろな問題からとはいえ、小さくはなったけれども、大切な教会の働きを経済的にも労力的にも自分たちの捧げ物で支えようとの姿に変わったわけです。日本聖公会は経済的自立の面では先を進んでいます(つまり苦労しています)が、信徒の賜物は十分に生かされているでしょうか。聖職は聖職としての押しつぶされそうなほど重い責任があります。同時に信徒とともに働き、信徒の皆さんが神様から預かっている賜物を引き出し生かすのも聖職の務めではないでしょうか。皆でもう少し踏み込んで考えたいテーマです。思わぬ珍客から与えられた示唆であります。

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