博多ロック編<198>サンハウスと山善
高校生バンド「田舎者」のボーカル、山部善次郎(通称・山善)が「サンハウス」の柴山俊之と初めて会話をしたのは福岡市・天神の日本楽器福岡店だった。この店に行くと柴山がいた。
山善は声をかけるのが怖かった。それでも勇気を振り絞って恐る恐る柴山に近づいた。聞いた。
「ブルース・ハーモニカのいいアルバムはありませんか」
柴山はぶっきらぼうに答えた。
「『サニー・ボーイ・ウィリアムソン2』はどうか」
山善は「田舎者」のギター、坂東嘉秀と一緒だった。嘉秀は坂東6人兄弟の末っ子。長兄はバンド「バイキング」のマネジャーをしていた。「バイキング」の名前を出した。
「柴山さんの表情が変わりました」
柴山はダンスホール時代、「バイキング」の実力を知っていた。「バイキング」の名前を介して柴山と親しくなり、さらに「サンハウス」のメンバーを知ることになる。
「毎日のようにメンバーの人たちの家を訪問し、そこでレコードをあさり、聴かせてもらった」
ロックの根にあるブルースにも開眼する。
× ×
山善にとって「サンハウス」はスターと同時に兄貴であり、教師だった。よく叱られもした。
柴山「山部、語りのところでべらべらしゃべるな。おまえはしゃべりすぎだ」
鮎川誠「(レコードから)アバウトに音を取ってはいかん。音は正確にとれ」
篠山哲雄「山部、歌は最初から崩して歌ったらいかん」
博多ロックの先輩から後輩に向けた、厳しさの中にも愛のあるアドバイスだった。初めて日本語ロックを知るのも「サンハウス」を通してだった。山善が作詞をし、坂東が作曲した。オリジナルへの道も「サンハウス」から導かれた。
1974年の同市・明治生命ホールでのライブ「レッツゴー・フォーク」に「田舎者」は「サンハウス」と共に出演している。日本楽器福岡店が無料配布していた冊子の中の「編集後記」には当時のステージをこう書いている。
〈田舎者の演奏では数人の女の子が踊り出し、サンハウスの時にはお客の半分が踊り出す始末〉
山善が力をつけた78年、徳間音楽から当時のバンド「山善&博多パラダイス」にアルバムリリースの話があり、録音までこぎつけた。
「自分の考えている音楽と違った。気に入らなかった。こんなものは残せな
い」
鮎川誠とシーナが「出した方がいい」と説得したが聞かなかった。山善はリリースを断った。24歳の山善に大きな転機が迫っていた。
=敬称略
(田代俊一郎)
=2014/03/31付 西日本新聞夕刊=