韮山高校の歴史とその周辺 第4話

     江川坦庵の知名度


          桜井祥行(高32)

      
 
 2009年しずおか国民文化祭は、伊豆の国市が掲げたテーマはずばり“江川坦庵”でした。
全国に坦庵公についてどの程度発信できたでしょうか。

 今から30年ほど前の山川出版社の教科書『詳説日本史』には江川坦庵関係の名前はありませんでした。その後本校の卒業生でもあり母校で教鞭をとられた仲田正之先生(高17回卒)先生が、吉川弘文館から1985年に人物叢書『江川坦庵』が刊行されると、改めて坦庵公の評価も高まり、今日の山川出版社の日本史教科書にはゴシック体で江川太郎左衛門(坦庵)と掲載されるまでになりました。
 反射炉やお台場建設は戦後軍事色の払拭で、坦庵公自身の評価も下げられてしまったわけで、ようやく本来の坦庵公の業績が再評価されてきたといえます。
 
さて、坦庵公の知名度ですが、1万円札の福沢諭吉
次のように『福翁自伝』に書いています。

江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭で屹と様付けにして、これもなかなか評判が高い。あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸と聞いて、なにそのくらいのことは誰でも出来るというような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着で敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルトは母これを見て「何の真似か、ソンナことをすると風を引く」と言って、頻りに止めるけれども、トウトウ聴かずに一冬通したことがあるが、これも十五、六歳のころ…

 この福沢諭吉との関係は他にもあります。実は江川家の江戸屋敷が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福沢諭吉に払い下げられて慶応義塾舎となったのです。正門は韮山に運んで今の表門となりました。
                  、
さらに、勝海舟は、『氷川清話』の中で

江川太郎左衛門も、またかなりの人物であつた。その嘉永安政の頃に、海防のために尽力したことは誰も知つて居るだらう。この男は、山の中で成長して、常に狩猟などをして筋骨を練り、明け暮れ武芸に余念がなかつた。が、しかし、人の知らないうちに嗜んで居たと見えて、ある時水戸の屋敷に召されて、烈公から琴を一曲と所望せられたのを、再三辞したけれども、お許しがないから止むを得ず一曲奏でたが、その音悠揚として迫らず、平生武骨なのにも似ないで、いかにも巧妙であつたから、列座そのものが手を拍つて感嘆したといふことだ。

  と、知られざる坦庵公の一面を紹介しています。韮山塾は全国的知名度を誇っていましたし、坦庵公の名も上記のとおり全国レベルのものであったことは間違いありません。
 幕府における役職名は代官、そして勘定吟味役を拝命しておりましたが、坦庵公はこうした地位に恋恋とせず、日本の外政は海防に、内政は産業の発展にそれぞれ心を砕いておりました。

 本校との関わりはあくまで校訓「」をはじめとする、坦庵公の精神を受け継いだ建学精神にあり、たとえ創立者柏木忠俊県令であったとしても、坦庵公学祖として仰ぐことには異論はないかと思います。


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