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2009年しずおか国民文化祭は、伊豆の国市が掲げたテーマはずばり“江川坦庵”でした。 全国に坦庵公についてどの程度発信できたでしょうか。 今から30年ほど前の山川出版社の教科書『詳説日本史』には江川坦庵関係の名前はありませんでした。その後本校の卒業生でもあり母校で教鞭をとられた仲田正之先生(高17回卒)先生が、吉川弘文館から1985年に人物叢書『江川坦庵』が刊行されると、改めて坦庵公の評価も高まり、今日の山川出版社の日本史教科書にはゴシック体で江川太郎左衛門(坦庵)と掲載されるまでになりました。 反射炉やお台場建設は戦後軍事色の払拭で、坦庵公自身の評価も下げられてしまったわけで、ようやく本来の坦庵公の業績が再評価されてきたといえます。
この福沢諭吉との関係は他にもあります。実は江川家の江戸屋敷が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福沢諭吉に払い下げられて慶応義塾舎となったのです。正門は韮山に運んで今の表門となりました。 、
と、知られざる坦庵公の一面を紹介しています。韮山塾は全国的知名度を誇っていましたし、坦庵公の名も上記のとおり全国レベルのものであったことは間違いありません。 幕府における役職名は代官、そして勘定吟味役を拝命しておりましたが、坦庵公はこうした地位に恋恋とせず、日本の外政は海防に、内政は産業の発展にそれぞれ心を砕いておりました。 本校との関わりはあくまで校訓「忍」をはじめとする、坦庵公の精神を受け継いだ建学精神にあり、たとえ創立者が柏木忠俊県令であったとしても、坦庵公を学祖として仰ぐことには異論はないかと思います。 韮山高校の歴史とその周辺 目次 |