大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説
戦災で焼けるまで東照宮があった
1557年(弘治3年)創建の堺市にある名刹、南宗寺。一画に「東照宮 徳川家康墓」と碑銘が刻まれた立派な墓がある。「この墓が建てられている場所は戦災で焼けるまで東照宮があったところです」
同寺を訪れる人を案内する特定非営利活動法人(NPO法人)堺観光ボランティア協会のガイド部長、川上浩さんが説明してくれた。同協会は堺の歴史を前面に出した観光振興に協力している。東照宮跡へ至る石畳の先には、17世紀中ごろに建てられたとみられる徳川家の葵(あおい)の紋が付いた唐門が残る。
「南宗寺史」には「(家康が)大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の槍(やり)に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との伝説が紹介されている。
松下幸之助氏も建立に賛同
家康の墓はこの伝説に沿って1967年(昭和42年)に建てられたものだ。墓の裏側には、賛同者として松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の名前も記されている。
幸之助氏は東京・浅草寺の雷門、大阪・四天王寺の極楽門の再建にも寄進。いずれもこの家康の墓の発起人で、幸之助氏と親交があった三木啓次郎氏の進言による。パナソニック社史室などに尋ねても幸之助氏がこの墓に言及した記録は見つからなかったが、この墓の建立にかかわったのも三木氏との深い関係があったためと思われる。
三木氏は水戸徳川家の家老を先祖に持ち、この墓を建てた理由について「徳川家と縁故があり、心から(家康)公を礼賛する者の一人として墓碑を改めたいとの多年の宿願を果たすべく……」と碑文に残す。
「伝説を裏付けるものがあるんです」
単なる伝説で、こんな大がかりなことをするだろうか。そんな思いを抱いていると「伝説を裏付けるものがまだあるんです」と川上さん。家康の墓の斜め後ろには伝説にも登場する開山堂の跡がある。そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣だった山岡鉄舟の筆という「この無名塔を家康の墓と認める」との内容の碑文が埋め込まれている。
開山堂跡近くの坐雲亭内の板額には1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠、8月18日に家光と、代替わりした両将軍が相次ぎ同寺を訪れた記録が残る。川上さんは「2人の将軍が1カ月ほどの間に南宗寺を訪ねるのは、かなり異例でしょう」と説明する。
ただ、墓を巡る伝説には疑問もある。堺は夏の陣の決戦前に豊臣方に焼き払われた。徳川幕府により街が復興されるなか、南宗寺も元の場所から移転している。伝説があったとされる当時、開山堂はなかったはずだ。また、夏の陣の最後の決戦で真田幸村が家康の本陣を脅かした記録は残るが、槍で突いたとされる後藤又兵衛はその前に討ち死にしたことになっている。
家康の駕籠の写真、浮かぶ新たな謎
季刊誌の「大阪春秋」編集委員で堺の歴史に詳しい中井正弘さんは「焼かれた堺の復興に徳川幕府はすぐに取りかかり、以前の街の規模を上回る商工都市にした。堺の人たちには家康への強い感謝の思いがあったはずで、供養の気持ちがいつしか墓伝説になったと考えられる」とみる。
半信半疑の私に「まだ疑っているようですね」と川上さん。「ではこれを見てください」と取り出したのは、日光東照宮宝物館に収蔵される家康の駕籠の写真。天井には丸い穴が開いている。宝物館に尋ねてみると「(伝説にある)槍による穴ではないと思います。幸村の鉄砲によるとの伝承があります。穴は下まで貫通し、2つありますから」。その時、狭い駕籠に人が乗っていたらどうなったのか。新たな謎が浮かんだ。
(堺支局長 原明彦)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年8月29日付]
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