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冷戦が残した年代決定法〜日経サイエンス2006年3月号より

核実験で放出された炭素が思わぬ効用を発揮

 

 ストックホルムにあるノーベル医学研究所の神経科学者フリーセン(Jonas Frisén)は生身の人体の各部分について,その年齢を調べたいと考えた。脳組織の再生を目指す研究をしているフリーセンにとって,人間の脳が自然に再生しているかどうかは大きなポイントだ。しかし,確かめようがなかった。動物実験なら細胞に標識を付けて追跡できるが,この標識物質は有毒なので,人間への使用は倫理的に許されない。
 だが,1955年以降に生まれた人については,もともと自然に標識がついていることにフリーセンは気づいた。当時は大気圏内での核実験が盛んに行われ,1963年に部分的核実験禁止条約が締結されるまで,大量の炭素14(炭素の同位体)が放出されて地球全体に拡散した。植物がそれを取り込み,その植物を動物が食べ,そのような動植物を人間が食べたため,人間の細胞にも炭素14が取り込まれた。これを追跡すれば,人体組織の年齢がわかるはずだ。

 

DNA中の炭素14を追跡

 フリーセンは米国立ローレンスリバモア研究所のブーフホルツ(Bruce A. Buchholz)とチームを組んだ。ブーフホルツは炭素14に基づいてアルツハイマー病患者の脳組織試料中に見られるプラークの年齢を測定していた。
 しかし,生体組織の年齢測定はずっと複雑になる。細胞にはタンパク質がぎっしり詰まっているが,常に生成・分解を繰り返しているので,細胞の実年齢を知るには細胞が生まれた時に一緒にできて,その後ずっと安定している物質を調べなくてはならない。そこでDNAを単離して測定することにした。
 DNAの生成時に取り込まれた炭素14の量を測定し,大気中の炭素14の量との相関を見る。この方法で調べた結果,人体の多くの部分は,その人自身の年齢よりもはるかに若いことがわかった。例えば30歳代半ばの被験者の腸の細胞は16歳に満たなかったし,30歳代後半の2人の骨格筋は15歳を少し超える程度だった。
 しかし,脳では様子が違った。小脳と後頭皮質の細胞を調べたが,どちらも被験者の年齢とほぼ一致した。つまり,これらの部分はその人の誕生時に形成され,生まれ変わることはほとんどないというわけだ。
 ただし,この発見で脳組織の再生治療への望みが薄くなったと結論づけるのは尚早だとフリーセンは考えている。脳梗塞患者の脳組織を追跡調査し,損傷後のニューロンが再生するかどうかを見極める計画だ。
 また,心筋や膵臓のベータ細胞(インスリンを分泌する細胞)についても調べる予定だ。いずれも再生能力をめぐる議論が盛り上がっており,心臓病や糖尿病の治療につながる可能性が注目されている。

 

法医学の手段にも

 核実験時代に放出された炭素14の量は1965年過ぎから急減し,環境中の濃度は11年ごとに半減している。1990年以降に生まれた人の細胞に含まれる炭素14はごくわずかだ。しかし,核実験時代を体験した組織試料についてなら,この年代決定法はいつまでも使える。
 ブーフホルツは現在,この方法を法医学分野に利用している。冷戦時代に生まれた世代は全人口中でかなり大きな比率を占めているので,「この方法は当分,役に立つ」という。

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