学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「夢のデジタルトレース 平和記念資料館発掘調査の整理作業②」

2018.2.1

 発掘調査の整理作業の一つに図面のトレースがあります。調査現場で描いた図面などを、印刷用のきれいな原稿に書き直す大事な作業です。昔は元になる手書き図面の上に厚いトレーシングペーパーを重ね、0.2mmや0.1mmなど細い製図用のペンで線をなぞっていました。もちろんインクで書きますから、消しゴムで修正なんてできません。ちょっとした失敗でも一から書き直し。数時間かけた図面が最後の最後でパー、なんてことも珍しくない集中力と忍耐力を問われる作業でした。
 ところが、20年ほど前からパソコンの描画ソフトを使った「デジタルトレース」が広まり始め、様子が一変しました。デジタルトレースは書き直しが簡単に出来ますし、一度図化すれば拡大・縮小はもちろん、線の太さの変更や色付けも自由自在。何よりのメリットは元の図面を最大6400%拡大して作業できること。当課でも2005年頃から導入を開始しましたが、年々小さなものが見えにくく、きれいな線も書けなくなったアラフィフのおじさんには、夢のシステムに思えたものです。
 しかし、メリットの裏には必ずデメリットあり。  一日中同じ姿勢でモニターを見つめ続け、動かすのはマウスだけ。またたくまにアラフィフの目はかすみ、首筋と背中はガッチガチ。肩にいたっては、何気ない動きで激痛が走るようになってしまいました。夢は夢でも、悪夢のほうだったのか。世の中上手い話は無いことを身をもって体験中です(><)  

文化財課主任学芸員 荒川正己 /
写真 2台のパソコンと3面のモニターを駆使する当課のIT主任K学芸員。発掘現場では土を削りますが、整理作業では心と体が削られていきます。



「広島平和記念資料館の下には缶詰工場があった」

2017.12.22 

 昨年度行った広島平和記念資料館の発掘調査では、多くの缶類が出てきました。整理作業で観察する中である缶蓋に目がとまりました。その蓋の中央が模様のように盛り上がっていたのです。こびりついている砂や錆びを慎重に取り除くと、下から扇の模様が現れ、商標の刻印が施された缶蓋であることがわかりました。そして扇の商標を使用していた缶詰工場といえば、明治後期から大正期の広島の実業家加藤多市の経営する「加藤多市商店 缶詰工場」だったのです。『日本登録商標大全』には扇に日の丸の商標が掲載されています。これを見た上で、出土した缶蓋を見ると磨り減っていますが日の丸があることがわかります。
 加藤多市商店 缶詰工場は明治28年(1895)に空鞘町で創業します。明治30年(1897)には小町へ、さらに明治31年(1898)には資料館本館の下にあたる材木町97番地に移転しています。多市は大正7年(1918)に亡くなり、大正10年前後のことと考えられますが、工場は実弟で実業家の松浦泰次郎の松浦商店に合併します。松浦商店の缶詰工場は大正10年代には鉄砲町と皆実町だけになっていますので、多市が亡くなって数年で材木町の缶詰工場は閉鎖されたと考えられます。これらのことから、この缶蓋は今から約100年前、明治後期から大正初期のもので、よく残っていたなと思います。
 ちなみに材木町97番地は明治42年(1909)10月に設立された広島瓦斯株式会社(現 広島ガス株式会社)の最初の本社所在地にあたります。広島瓦斯は大阪資本の大林組が中心になって設立されましたが、広島の実業家も関わっており、その一人が加藤多市です。翌月には大手町に本社が移転していますので、設立当初のみの措置として多市の自宅兼工場であるこの地を本社にしたのでしょう。
 缶蓋一つではありますが、戦前の広島の近代産業や現代につながるインフラ事業のエポックシーンが現在の平和記念資料館の下で展開していたことを思い起こさせてくれます。

文化財課主任学芸員 田村規充 

      
胴木 胴木 胴木
    図1 出土した缶蓋       図2 刻印部分の拡大     図3 『日本登録商標大全 第四編』
                                    
(東京書院 明治38年)の一部を
                                    
国立国会図書館ウェブサイトより掲載



「広島で中央競馬?」

2017.12.11

 先日、広島の競馬場について話をする機会があり、競馬場あらためて資料を整理する中で目に留まった内容を紹介します。現在、日本中央競馬会(JRA)が主催する中央競馬は、全国10か所(札幌・函館・福島・新潟・中山・東京・中京・京都・阪神・小倉)の競馬場で開催されていますが、そこに広島も入っていたかもしれないという話です。
 大正12年(1923)に「競馬法」が制定され、全国11の競馬倶楽部(札幌・函館・福島・新潟・中山・東京・横浜・京都・阪神・小倉・宮崎)に馬券の発売を伴う競馬の開催が認められました。これがいわゆる「公認競馬」のはじまりであり、戦後の「国営競馬」時代を経て、現在の「中央競馬」へとつながります。広島においても、明治末期から広島競馬会、広島馬匹奨励競馬会等いくつかのグループが政財界の有力者をまきこんで公認競馬会設立に動いていましたが、結局広島での公認競馬開催は実現しませんでした。
 ところが、大正14年(1925)発行の雑誌『九州馬事月報』の記事では、宮崎競馬倶楽部の広島移転の話題が取りあげられています。移転予定地は佐伯郡廿日市町(現廿日市市)海岸の埋立地で、対岸に厳島を望み、広島からは鉄道で15分、地理的にも東の阪神競馬場と西の小倉競馬場の中間地点にあり、「風光の明媚と気候の適応なる四季何れを問わず挙行するに至りては殆んど理想的競馬場たるを疑わず」とうたわれています。
 宮崎競馬の経営不振をみて真っ先に移転先として手を上げた広島でしたが、その後熊本、別府、長崎、名古屋など他都市も誘致に名乗りをあげました。しかし、いずれの都市も十分な資金が確保できず、一部の行き過ぎた招致活動も問題となり、結局宮崎競馬の移転はなくなりました。もし、このとき広島移転が実現していたなら、その後の広島の発展にも大きな影響があったかもしれません。

文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:福山競馬場のスタンド風景<平成22年(2010)撮影>
                    ※福山競馬場は平成25年(2013)に廃止となりました。




「ヴィスタ」のはなし(一昔前のコンピュータのOSのことではありません)

2017.11.21

 ヴィスタとは「見通し景」などと訳されます。直行する道(視軸)の先に、目立つ、あるいは大きな建物や山などのランドマーク(アイストップ)があり、 遠近感をともなって全体的に調和を持たせた統一感ある景観を意味します。本来都市工学や地理学などの守備範囲でしょうから私などまったく専門外なのですが、近ごろ気になっていることを述べてみます。
 ヴィスタは、世界中で事例を見ることができますが、日本では例えば東京駅や国会議事堂前に伸びる直線道からそれらを望む景観などがわかりやすいかと思います。広島では何といっても広島平和記念公園の平和記念資料館 から中央参道、慰霊碑、原爆ドームという直線的な景観がよく知られています(写真左)。もちろんそれらは意識的になされているわけで、それぞれのまちを特徴付ける要素ともなっています。そしてその事例はかつての 城下町、広島にもありました。
 いまではあまり目立たなくなってしまいましたが、鯉城通りの一本西、紙屋町と大手町との間を通る南北道(仮に大手道としておきます)は、広島城の大手門(正門)に当たる「一丁目口御門」へ至る重要な通り(=町)で した。そしてその大手道から一丁目口御門を経た視軸の先にあったのが城のシンボル、天守なのです(写真右)。ただ、一丁目口御門を立派な櫓門として整備したのは築城者毛利輝元の次の城主、福島正則と考えられており、 築城当時の様子はよくわからないのですが、少なくとも町屋の並ぶメインストリートから天守を見晴るかすヴィスタは作られていたと考えてよいと思います。門が整備されてからは視界がさえぎられたかもしれませんが、 それでも門の高さを、仮に現在復元されている二の丸表御門と同じぐらい(約10m)とすると、おそらく現在の本通との交差点あたりより南では天守の一部を望めたのではないかと思います。門を介した新しいヴィスタが 作られたのではないでしょうか。
 と、ここまでのお話は、お城好きな方なら「そんなこと知っとるわい」と言われるかもしれませんが、このことはもう少し広がりを見せるかな、と考えています。ただ、長くなるので続きはまた後日。

文化財課 主任学芸員 大室謙二

平和絵図



「コースターの新デザインを考える」

2017.11.9

 文化財課には「古代の布づくり」という体験メニューがあります。古代から布の素材として使われてきた麻のひもを使い、 簡易の織機(しょっき)で10㎝角の平織(ひらおり)(タテ糸とヨコ糸を1本ずつ交互に浮き沈みさせて交差させる基本的な織り方)のコースターを作ります(写真①A)。
 ある日、いつもいろいろなアイデアを提案してくださるボランティアのTさんから、もっと違うデザインも作れないだろうか?とお話がありました。1枚のコースターの製作時間はおよそ1時間。 体験メニューは限られた時間内で行うので、あまり複雑なデザインにすることはできません。そこで、糸の使い方を工夫して、手軽に新デザインができないか試作してみることにしました。
 まずはヨコ糸の色を変えるパターン。Tさんが最初にチャレンジしたのは、ヨコ糸を2色にする方法です。色の変わり目の糸の処理に少々コツがいりますが、メリハリのあるデザインになりました(写真①B)。 ヨコ糸を2色にするもう1つのパターンは、通常タテ糸に1本交差させるヨコ糸を色の違う2本にする方法です。2色のヨコ糸が交互に並びぐっとおしゃれな印象になりました(写真①C)。
 次は縦糸の色を変えるパターン。最初に配色を考えてタテ糸を織機にセットしたら、後はいつも通り織っていきます(写真②)。タテ糸2色にヨコ糸1色の場合(写真①D,E)、タテ糸2色にヨコ糸2色の場合(写真①F)と、 様々なアレンジができそうです。
 今回試作したものを体験メニューに取り入れるには、もう少し準備が必要ですが、どんなデザインにしようかと試行錯誤したり、でき上がりを想像してわくわくしたりする気持ちは、古代の人も同じだったかもしれませんね。
文化財課学芸員 田原みちる

コースター1コースター2
        写真①                  写真②
A:基本デザイン(タテ糸1色、ヨコ糸1色)   タテ糸2色、ヨコ糸1色で織る様子
B、C:タテ糸1色、ヨコ糸2色
D、E:タテ糸2色、ヨコ糸1色
F:タテ糸2色、ヨコ糸2色

コースター3






写真③
カラフルなデザインに挑戦中のTさん



「勾玉」

2017.10.19

 先日、広島市三滝少年自然の家で小学4年生~6年生の児童を対象に勾玉「古代キャンプin三滝」を行いました。古代キャンプでは毎年、古代のものづくりとして埴輪型のミニフィギュアや縄文風のペンダントなどを製作しています。 今年度は勾玉づくりに挑戦してもらったのですが、石を削るのはなかなか根気のいる作業で子どもたちはヘトヘトになりながらも一生懸命作っていました。
 勾玉には不思議な力が宿るといわれ、魔よけや厄除けといったお守りの代わりや権力を示すものとして身につけられていました。勾玉は見てのとおり、「曲がった形の玉(=宝石)」なので勾玉(曲玉)と呼ばれています。 なぜ曲がった形をしているのかというと、はっきりとした理由はわかっていません。しかし、胎児の形をまねた芳カ谷とか、月の形を模したのではないかといわれています。
 広島市内の遺跡からも勾玉は発見されており、安佐南区や安佐北区の遺跡から碧玉製やガラス製などの勾玉が出土しています。
 勾玉キットはインターネットで購入できたり、勾玉づくり体験を行っている施設もあるので、まだ作ったことがない方はぜひ挑戦してみてください。

文化財課学芸員 日原絵理 / 写真上:私が製作した勾玉(左端は再生琥珀製、残りは滑石製) 写真下:芳カ谷(よしがたに)遺跡(安佐南区祇園町)で出土した碧玉製の勾玉




「自転車に橋は大敵」

2017.9.15

 自転車通勤を再開して4ヶ月、随分と調子が戻ってきました。
 快適な自転車通勤にとって登り坂は大敵です。広島は橋が多いので敵だらけなわけですが、その分橋の周辺以外はほぼ平坦・・・なはずなのに、自転車で走っていると意外にアップダウンを感じるのです。徒歩なら気にならない、自動車なら気付く前に通り過ぎる、自転車だからこそ体感できる些細な変化ですが、貧脚な私にとっては大問題。特に気になるのが駅前通り。国道2号線の北、じぞう通りが合流する竹屋町3番交差点付近にさしかかると、妙にペダルが重い。(右図:赤丸)
 そこで地理院地図※1 で細かな標高を調べてみました。すると、駅前通りの大半は海抜0.8~1.0mなのですが、竹屋町3番交差点付近の南北約100mの範囲だけが急に盛り上がって、最高所はなんと海抜2.2m!そりゃあ1速落とさなきゃならないわけです。でも、何でここだけ高いのでしょう?
 川の町と呼ばれる広島ですが、治水や都市開発の影響で、姿を消した川も少なくありません。そんな川の一つに平田屋川があります。広島城築城時に造られた運河で、当初は建設資材を、その後は様々な物資の運搬に使われていましたが、徐々に埋め立てられ1950年代に完全に姿を消しました。現在の並木通りやじぞう通り、広島大学跡地(現東千田公園)の東側道路はその跡地です。この平田屋川と駅前通りが交差するのが、問題の竹屋町3番交差点付近になるわけです。
  実はこの場所、もともと富士見橋※2 という名の橋が架かっていました。1947年に撮影された航空写真を見ると、自動車が余裕ですれ違える当時としては非常に幅の広い橋だったことがうかがえます。(写真:中央が富士見橋で、その上下に続く黒い線は埋め立て前の平田屋川。1947年米軍撮影。)
この航空写真を現在の地図と重ねると、駅前通りの問題の場所付近、中央分離帯より西側がほぼ一致するではありませんか! はたして、富士見橋はどうなったのか?昭和30年代に撮影された写真を見ると、平田屋川の埋め立て完了よりも、駅前通りの工事のほうが先行していた様子がうかがえます。とするならば、わざわざ橋を取り壊すために道路を封鎖したとは考えにくい。おそらく富士見橋は撤去されず埋め殺しにされたのではないでしょうか。ひらべったい蒲鉾形に盛り上がった現在の地形も,橋の形を残していると考えればつじつまが合うと思うのですが。
 それにしても、姿を消したにもかかわらず快適な通勤の足を引っ張るとは、やはり橋は貧脚の大敵です。
           文化財課主任学芸員 荒川正己

※1 国土地理院がWEB上で提供している地図情報。古い航空写真も閲覧できて結構楽しいです。
※2 江戸時代には鷹野橋と呼ばれていました。現在タカノ橋商店街に名を残すのは西塔川(現鯉城通り)に
   架かっていた別の橋です。どちらの橋も、このあたりに広島藩の鷹狩場があったことに由来します。


「年代測定」

2017.9.8 

 発掘調査では科学分析などの最新の技術を使います。現在、平和記念資料館発掘調査の整理作業を行っていますが、先日、出土したものの年代を調べるため、科学分析の専門家による資料採取(サンプリング)がありました。
 平和記念資料館の発掘調査では、調査範囲の各所で石垣が確認されました。このうち、調査地の北側で確認した堀の石垣の下からは、湿地などの弱い地盤の上に石垣を築く時に石垣が沈み込まないようにするための「胴木(どうぎ)」という木材が出土しました。この石垣がいつ頃造られたものなのかが、旧材木町の土地の使われ方を知る上で重要なため、胴木の年代測定を行うことになりました。炭素の同位体から年代を測定するC14年代測定という方法と、年輪の幅からさらに年代を絞り込むウィグルマッチングという方法を使います。年輪5個(5年)ごとにピンを打って間隔を記録し、消毒したカミソリで各部分から丁寧に資料を取ってゆきます。採種した資料は1gにもみたない少量ですが、これを分析することで年代がわかるのです。数ヵ月後には分析結果が出ます。さて、いつ頃の年代と出るのでしょうか。

文化財課学芸員 桾木敬太 

胴木 胴木
    石垣の下から見つかった胴木          サンプリングの様子



「夏の風物詩、甲子園」

2017.8.24

 今年も猛暑の中、全国高校野球選手権大会(通称、夏の甲子園)が開催されました。広島からは広陵高等学校が出場し、準優勝しましたね。そこで、今回は「甲子園と広島」に関する豆知識をご紹介します。
その1:全国高校野球選手権大会で最初のホームランを放ったのは広島の選手である。
 全国高校野球選手権大会※1は1915年(大正4年)8月18日、野球豊中グラウンド(現在の大阪府豊中市にあった)で初開催されました。第1回大会には10地区10代表が参加し、山陽地区からは広島中学校(現在の広島国泰寺高等学校)が参加しました。 広島中学校は開幕戦に登場し、鳥取中学校(現在の鳥取西高等学校)と対戦。最終回に大会初となるホームランを含め4点を入れたものの、残念ながら7対14で敗れてしまいました。
その2:甲子園球場で初めて優勝したのは広島商業学校(現在の県立広島商業高等学校)である。
 全国高校野球選手権大会の第1回、2回大会は豊中グラウンドで、第3回から9回までは鳴尾球場(現在の兵庫県西宮市にあった)で開催されていました。しかし、観客が増加したため1924年(大正13年)の第10回大会からは約5万人が収容できる 阪神甲子園球場※2で開催されることになりました。
 カープの初代監督も務めた石本秀一氏率いる広島商業学校は決勝に進み、松本商業学校(現在の松商学園高等学校)と対戦。3対0で勝利し、記念すべき大会で初優勝を遂げました。
その3:応援歌「宮島さん」は明治期に誕生していた。
 カープの試合を観ていると耳にする「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」という歌、通称「宮島さん」は1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、この時代に地御前村(現在の廿日市市 地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖です。その後、広島高等師範学校(現在の広島大学)や広島商業学校の応援歌に採りいれられ、広島代表のチームが甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじをカチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして 「いつも○○ 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」と応援しています。宮島さんがカープの応援歌として採りいれられたのは比較的最近のことで、1988年(昭和63年)に広島商業高等学校が6度目の全国制覇を果たしたことにあやかり、1989年(平成元年)から 使用されはじめました。
※1:当時は、全国中等学校優勝野球大会と呼ばれていた。野球2
※2:1924年8月1日に完成。当初の名称は、甲子園大運動場。「甲子園」は縁起の良い「甲子(きのえね)」の年にちなんで名づけられた。

文化財課学芸員 日原絵理 / 写真上:第1回大会の広島中学校対鳥取中学校、試合前の挨拶 写真下:第10回大会で優勝した広島商業学校の選手達
どちらの写真も国立国会図書館蔵『全国中等学校優勝野球大会史』より




「下駄」

2017.8.23

 先日、史跡広島城跡でフィールドワーク「広島城下駄 歴史と虫をまるかじり」を実施した際に、広島城関連遺跡から出土した遺物をいくつか紹介しました。そのうちのひとつがこの下駄です。下駄はその形状から男物と思われますが、広島城北側の外堀にあたる場所から出土しました。
 広島市域においては、江戸時代初期から高宮郡の諸木村、末光村、玖村、岩上村(いずれも現安佐北区落合)一帯を中心に下駄づくりが盛んに行われました。明治時代には、落合地域で生産された下駄は「玖村下駄」の名で知られるようになります。やがて八木村(現安佐南区八木)や旧広島市内でも下駄の生産が盛んとなり、明治末期から大正時代に最盛期を迎えました。しかし、下駄戦後になると、人々の社会生活が変化したため下駄の生産量は減少し、広島市域での下駄づくりは衰退していきました。
 さて、下駄の表面をよく観察してみると、足指のあとが残っており、実際に下駄を使っていた人の息遣いが伝わってくるようです。はたして、この下駄は外堀に捨てられたのか、はたまた誤って落としたものか、そんなことを考えてしまいます。

文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真上:下駄(広島城外堀跡城北駅北交差点地点出土)
                 写真下:下駄に残る足指のあと


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