二 新教育の基本方針

 戦争末期の学校教育は停止されるかまたは実質的にはその機能を失っていた。学生・生徒は軍需生産、食糧増産、防空防衛などもっぱら戦争に必要な労務と教育訓練に動員され、都市の子どもは校舎の焼失や空襲を避難するため「学童疎開」をさせられていた。このような状態で終戦を迎えた文部省はただちに教育の戦時体制を解除してこれを平時の状態にもどすことに着手した。すなわち、八月十六日学徒動員の解除について通達し、二十八日にはおそくも九月中旬から授業を再開するよう指示し、九月二十六日には疎開学童のすみやかな復帰について通達するなどの措置をとった。

新日本建設の教育方針

 終戦後文部省がはじめて戦後教育の基本方針を明らかにしたのは昭和二十年九月十五日に発表した「新日本建設の教育方針」である。これは占領教育政策の具体的な方針や指令が示される以前の、したがって総司令部がなんら関与しなかった日本側の教育方針として注目すべきものである。その要旨は次のようである。

(一)新教育の方針

 新事態に即応する教育方針の確立について立案中であるが、今後の教育方針としては、国体の護持を基本とし、軍国的思想および施策を払しょくし、平和国家の建設を目標に掲げ、国民の教養の向上、科学的思考力のかん養、平和愛好の信念の養成などを教育の重点目標とする。

(二)教育の体勢

 教育の戦時体制から平時体制への復帰、学校における軍事教育の全廃および戦争直結の研究所等を平和的なものに改変する。

(三)教科書

 教科書は新教育方針に即応して根本的に改訂されるが、さしあたり訂正削除す尺き部分を指示する。

(四)教職員に対する措置

 教育者は新事態に即応する教育方針を体して教育に当たることが肝要で、教職員の再教育計画を策定中である。

(五)学徒に対する措置

 学生の学力不足を補うための措置をとる方針である。また一部につき転学・転科を認める方針で具体案を考えている。陸海軍学校の生徒および卒業生で希望する者は文部省所管の学校へ入学させる。

(六)科学教育

 功利的打算によらずに真理探求に根ざす科学的思考や科学常識を基盤として科学教育を振興する。

(七)社会教育

 国民道義の高揚と国民教育の向上を新日本建設の根底として重視し、そのため、成人教育、勤労者教育、家庭教育等社会教育の全般について振興を図り、また国民文化の興隆について具体案を計画中である。

(八)青少年団体

 学徒隊の解散に伴い青少年の共励組織がなくなったので中央の統制によらず原則として郷土を中心とする青少年の自発的な団体として新たに青少年団体を育成する。

(九)宗教

 国民の宗教的情操と信仰心を養い新日本建設に資するとともに宗教による国際親善と世界平和を図る。

(十)体育

 戦時中の疲労を考慮して衛生養護に力点をおいて体位の回復向上につとめ、勤労と教育の調整に重点をおく食糧増産、戦災地復旧等の作業を実施し、明朗な運動競技を奨励し純正なスポーツを復活し、および運動競技による国際親善を図る。

(十一)文部省機構の改革

 以上の諸方策を実施するため、すでに学徒動員局を廃止し、体育局、科学教育局を新設したがさらに第二次改革を考慮している。

 このような方針と対策をもって、文部省は教育面の終戦処理にあたる一方、新教育の推進を図った。十月十五・十六の両日教員養成諸学校長および地方視学官を中央に招き、続いて各都道府県ごとに国民学校長、青年学校長を対象とする講習会を開催して新教育方針の普及徹底に努めた。この中央・地方の講習を通じ、文部省は新教育は個性の完成を目標とすべきものであり、そのために自由を尊重し、画一的な教育方法を打破し、各学校および教師の自主的・自発的な創意くふうによるべきこと、さらに科学的教養の深い、道義心の強い、品格ある個性の完成を強調している。

管理政策と教育行政についての総司令部指令

 しかし終戦後の措置として、特にきびしかったものは軍国主義的、極端な国家主義的な思想および教育の排除であって、これを端的に示したものは、昭和二十年十月二十二日総司令部の「日本教育制度の管理」に関する指令およびこれに引き続き同年末までに出された三つの指令である。

 第一の「日本教育制度の管理」に関する指令は、教育内容、教育関係者および教科目・教材に関する三事項からなっている。まず教育内容については、1)軍国主義および極端な国家主義的思想の普及を禁止し、軍事教育の学科および教練を廃止すること、2)議会政治、国際平和、個人の権威、集会・言論・信教の自由等基本的人権の思想と合致する考え方を教えおよびその実践を確立するよう奨励すること。次に、教育関係者については、1)職業軍人、軍国主義者、極端な国家主義者および占領政策に積極的に反対する者は罷免すること、2)自由主義および反軍国主義的な思想、活動のため解職されたものはその資格を復活させ、かつ優先的に復職させること。また、教科目・教材については、1)現在の教科目、教科書、教師用参考書および教材の一時的使用は認めるが、軍国主義、極端な国家主義的な部分は削除すること、2)教育があり、平和的で責任を重んずる公民の育成を目ざす教科目、教科書、教師用参考書および教材をすみやかに用意すること、3)教育制度はすみやかに再建するべきであるが、設備等ふじゅうぶんな場合には初等教育および教員養成を優先させること。以上この指令に示された教職員の適格審査と追放および教育内容の削除改訂は、当時のわが国教育界に対するきわめてきびしい命令であったが、さらにこれを厳格に実施させるために次に述べる第二から第四までの指令が発せられた。

 第二の「教員及び教育関係者の調査、除外、認可」に関する指令は、同年十月三十日に発せられた。これは第一の指令中の教育関係者に関する事項の実施についてさらに詳細な内容を示したものである。第三の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」に関する指令は、同年十二月十五日に発せられた。これは国家神道・神社神道の思想および信仰が軍国主義的および極端な国家主義的思想を鼓舞し、日本国民を戦争に誘導するために大きく利用されたとの見地から、政府がこれを保護、支援することを禁止し、神道による教育を学校から排除することを指令するものである。次いで第四の「修身、日本歴史及び地理の停止」に関する指令が同年十二月三十一日に発せられた。これは指令全体を貫く軍国主義的および極端な国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、特に修身、日本歴史および地理のすべての授業をただちに停止し、総司令部の許可あるまでは再開しないという内容である。それと同時に三科目の教科書、教師用書の回収、代行教育計画実施案および新教科書の改訂案の提出を指示している。先に文部省独自の立場で発表した「新日本建設の教育方針」とこの国指令を比べるとき、占領政策がいかにわが国の軍国主義的および極端な国家主義的な思想と教育の払しょくに徹底していたかがうかがえる。そこで、四つの指令についてその実施の状況をみることとする。

指令の実施状況

 第一は、いわゆる教職追放である。第一および第二の指令をうけて昭和二十一年五月その実施に必要な法令が整備され、教職の適格審査が本格的に開始された。不適格者の排除は、審査会の審査によって判定される者と審査によらず一定の基準・条件に該当するものとして自動的に排除される者との二種類の方式がとられた。かくて審査は進められ、二十二年十月末までに約六五万人が審査され、うち二、六二三人が不適格者と判定され、他に二、七一七人が審査によらず不適格該当者として自動的に排除された。なお、適格審査を受けることを潔しとせず自ら教育界を去った者も少なくなかった。第二は、教科目・教科書等に関する第一および第四の指令の実施である。教科書の取り扱いについては、文部省はこれらの指令の発せられる以前にすでに「新日本建設の教育方針」で訂正削除の方針を明らかにし、次いで九月二十日には、省略削除または取り扱い上注意すべき教材の規準として、1)国防軍備を強調し、2)戦意高揚を図り、3)国際の和親を妨げ、4)終戦に伴う現実と遊離しまたは児童・生徒の生活体験と離れた教材等を指摘し、またその具体例を示した。修身、日本歴史、地理の授業の即時停止とその教科書の回収を命じた第四の指令は日本側には突然であり、ことに膨大な量の教科書の回収は当時の輸送事情に照らし難事業であった。しかし文部省は、二十一年一月には指令の実施について通達を発し、これらの授業を即時停止するとともに教科書の回収に努力した。他方、新しい指導計画の作成と新教科書の編集に当たった。かくて、地理については二十一年六月二十九日、日本歴史については十月十二日の覚書により、文部省が編集し総司令部の認可を経た教科書のみを使用するという条件でこれらの授業の再開が許可された。しかし、修身は遂に再開されなかったが、注目されるのは公民科の登場であった。戦後は民主社会における国民育成の観点から文部省においては早くから公民教育を重視し、二十年十一月には公民教育刷新委員会を設けて審議し、十二月には公民教育の刷新改善について答申した。その内容は公民教育の目標、学校教育における公民教育および社会教育における公民教育の三項からなっているが、特に注目されるのは従来の修身は公民教育と総合し、新しく公民科を確立するべきであるとしている点である。この答申は公表されなかったが、文部省は修身の授業再開の困難な事情から、総司令部との折衝の結果、二十一年五月「公民教育実施に関する件」を発表して道徳教育の空白をうめようとした。しかし、このための教科または科目もまた時間も特設されず、学校教育全体のなかで公民的生活指導を図るものとされた。したがって教科書は刊行されなかったが同年八月から十月にかけて「公民教師用書」が発行された。この公民教師用書で注目されることは、のちに誕生する社会科の性格がすでにかなり鮮明に示されていることである。二十二年新学制の成立とともに「社会科」が新設され、地理、歴史とともに公民教育もこのなかに吸収されることとなった。第三の神道に関する指令の実施については、文部省はいち早く十二月二十二日通達を発したが、その内容は、学校における1)神道の教義の弘(こう)布はその方法・様式のいかんを問わず禁止する、2)神社参拝、神道関係の祭式、儀式等の挙行、その後援を禁止する、3)神社、神棚(だな)、鳥居、しめなわ等は撤去し、御真影奉安殿、英霊室または郷土室等についても神道的象徴を除去すること、などであった。

 このように四つの指令は、軍国主義的、極端な国家主義的な思想と教育に直接、間接にかかわりのある教育者、科目、教科書、教材その他刊行物、施設、設備、行事等のいっさいを学校教育の場から排除したもので、占領政策のきびしさを示すとともに新しい教育の発足のための地盤の荒ごなしとなったのである。なお、このほか、前記四つの指令に関連する禁止または廃止の措置としては、終戦後まもなく八月二十四日に学徒軍事教育、戦時体練および学校防空関係の訓令はすべて廃止され、十月三日には銃剣道・教練を、十一月六日には武道が禁止された。また、「新日本建設の教育方針」で示された課題のなかで前記四指令と重複するものは指令の実施のなかに吸収される結果となったが、これら以外の事項の実施およびこの当時にとられた諸措置は次のようである。まず、学徒については、八月二十八日復員学徒の卒業・復学について通達され、九月五日には陸海軍諸学校出身者および在学者の文部省所管学校への転・入学を認めることとし、十月十九日には外地引き揚げの学生・生徒についても同様の取り扱いをとることとされた。社会教育関係では、文部省機構の第二次改革において十月十五日、学校教育局と並んで社会教育局が新設され、戦後の社会教育の振興について相次いで具体的計画が進められた。特に民主社会の建設と関連して公民教育が重視されたが、すでに二十年十月には婦人に参政権を認めることと男女とも満二十歳で選挙権が与えられることが閣議決定をみており、近く行なわれる予定の総選挙に対処して国民の政治思想を高めることが急務と考えられたためであった。

女子教育の振興

 この時期の措置として注目すべきものに女子教育の振興がある。昭和二十年十月新内閣の成立に際し、総司令部の指示の一つに婦人の解放と男女同権が含まれていた。これは政治面では同年十二月に成立した新選挙法において婦人の参政権として実現されたが、教育面においても十二月四日閣議了解された「女子教育刷新要綱」にその方策が示された。それによると、男女の教育の機会均等、教育内容の平準化、男女の相互尊重を基本方針とし、具体的には女子に対して高等教育機関を開放し、女子中等学校の教育内容を男子中等学校と同程度とし、および大学における男女共学を実施することとされた。かくて、二十一年度から大学の門は男子とともに専門学校、高等女学校高等科等の女子卒業生にも開かれ、また女子専門学校の新設、学科増設等が優先的に認められた。

米国教育使節団報告

 終戦に伴い戦時教育体制から平常体制への切り替えと軍国主義的および極端な国家主義的な思想および教育の払しょくを主眼とする戦後処理の諸措置が、きびしい占領下において急速かつ精力的に行なわれてきた。一方やや断片的ではあったが、新しい教育への前進の努力もそれなりに払われていたが、何といっても戦後の教育改革を積極的・包括的に方向づけたものは二十一年三月来日した米国教育使節団の勧告である。使節団の派遣は日本に民主的な教育制度を確立するための具体的方策を求めるため総司令部から米本国に要請したものである。かくて、ジョージ・D・ストッダードを団長とする著名な教育専門家二七人から成る使節団は三月初め来日した。使節団の来日に先だち総司令部は、日本政府に対して使節団に協力する日本側教育家の委員会を構成することを要請するとともに使節団の研究問題として、1)日本における民主主義教育、2)日本の再教育の心理的側面、3)日本の教育制度の行政的再編成、4)日本の復興における高等教育の四項目を示した。また、総司令部は使節団のために日本の教育の歴史、現状および総司令部の見解を述べた「日本の教育」をまとめ、その他多くの関係資料を用意した。使節団は到着後、連日の会合に日本側委員を加え、また関西地方や実際の教育を視察するなど精カ的に活動し、調査、検討の結果をまとめて三月末総司令部に報告した。これが「第一次米国教育使節団報告書」である。総司令部は同年四月七日これを発表するとともに、これに覚書を付し、報告書の趣旨を全面的に承認し、今後の日本の教育改革の路線をここにおく意向を表明した。米国教育使節団報告書は、「前がき」、「序論」に続いて、1)日本の教育の目的および内容、2)国語の改革、3)初等・中等学校の教育行政、4)教授法と教師の教育、5)成人教育、6)高等教育の六章から成り、全体として日本の過去の教育の問題点を指摘しつつこれに代わるべき民主的な教育の理念、教育方法、教育制度を明らかにしている。民主的な教育の基本は、個人の価値と尊厳を認めることであり、教育制度は各人の能力と適性に応じて教育の機会を与えるよう組織すべきであって、教育の内容・方法および教科書の画一化をさけ、教育における教師の自由を認めるべきことを述べている。このような基本理念の上に、新しい学校制度として六・三・三制と、特に六・三の義務制とその無月謝、男女共学を勧告している。高等教育については必ずしも四年制大学に統一化することは勧告せず、高等教育の門戸開放とその拡大を主張し、また、大学の自治尊重と高等教育へ一般教育を導入することを述べている。教員養成については従来の形式的教育を批判し、新たに四年制課程の大学段階の教員養成を勧告している。初等・中等教育の教育行政については、中央集権的制度を改め、また内務行政から独立させ、新たに公選による民主的な教育委員会を都道府県、市町村に設け、これに、従来中央行政官庁に属していた人事や教育に関する行政権限を行使させる地方分権的制度の採用を強く勧告している。社会教育については、民主主義国家における成人教育の重要性を強調し、PTA(父母と教師の会)、学校開放、図書館その他社会教育施設の役割を重視するとともに成人教育の新しい手段・方法の意義を述べている。国語の改革については、教育改革にとって基本的であり、緊急であるとして、漢字の制限、かなの採用、ローマ字の採用の三つを国字改良案としてあげ、国語改革に着手するよう勧告している。以上が米国教育使節団報告書のごく概要であるが、短期間に分担執筆されたためか、章により内容に精粗の差があり、また具体的な提案もあれば考え方を述べたものや抽象的表現の勧告もあるなど、全体として必ずしもそのまま改革案に連なるものではないが、しかし、従来のわが国の教育上の問題点を鋭く指摘し、批判し、民主主義、自由主義の立場から教育のあり方についてその考え方を懇切に述べている点において、わが国の教育改革の指針となったものである。

新教育指針

 米国教育使節団報告書に次いで、わが国の新教育推進に大きな役割を果たしたものは昭和二十一年五月に文部省が発表した教師のための手引書「新教育指針」である。その発行は使節団報告書の発表後であるが、編集は二十年秋から企画され、総司令部の指導のもとに幾度も書き改めたもので、表現も平易で常用漢字の範囲内で書かれていることも国語改革と関連して注目される。「新教育指針」は二部から成り、第一部は前後二編で、前編は理論を、後編は実際を述べている。前編は新日本建設の根本問題として、1)日本の現状と国民の反省、2)軍国主義および極端な国家主義の除去、3)人間性、人格、個性の尊重、4)科学的水準および哲学的・宗教的教養の向上、5)民主主義の徹底、6)平和的文化国家の建設と教育者の使命の六章から成り、後編は新日本教育の重点として、1)個性尊重の教育、2)公民教育の振興、3)女子教育の向上、4)科学的教養の普及、5)体力の増進、5)芸能文化の振興、7)勤労教育の革新の七章から構成されている。各章の末尾には「研究協議題目」がつけられており、教師たちがこれによって討議し、また自分で研究するための資料とされている。第二部新教育の方法においては、1)教材の選び方、2)教材の取り扱い方、3)討議法などについて述べている。全体を貫く基本理念は、個性の完成、人間尊重の教育理念であって、「新教育指針」も米国教育使節団報告書も同一思想の上に立っている。「新教育指針」は戦後の新教育のあり方について模索していた当時の教育界に対して文字どおり新教育の指針として大きな役割を果たすとともに、二十二年から発足する新学制による教育の準備はこのようにして実質的に進められたのである。

教育刷新委員会

 米国教育使節団に協力するため設けられた日本側教育家の委員会は、使節団の帰国によってその任務を終了し解散したが、発足当初から、日本の教育改革について文部省に建議すべき常置委員会となるべきことが覚書で示されていた。昭和二十一年八月内閣に教育刷新委員会が設けられたが、これは実質的には前記委員会の改組拡充されたもので、三八人の委員中前記委員会の委員であったものが二〇人含まれている。

 教育刷新委員会は同年九月七日第一回総会を開催した。席上、吉田内閣総理大臣代理の幣原国務大臣は今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあったと指摘し、明治維新に倍する悪条件下で第二の維新を遂行すべき今日、その根本は教育の刷新であり、本委員会を内閣に設けたのは国政の優先的努力を教育問題に集結するためであると力説した。また田中文相は、本委員会成立の由来が総司令部の覚書によること、教育の各分野の代表的権威者を網羅していることおよび官僚的要素を含んでいないことの三点をその特色としてあげ、委員会の自主的な審議検討を要望した。次に、山崎文部次官から「現下教育上緊急に解決を要する諸重要問題」について説明を行ない、1)青年学校、2)義務教育年限、3)教員養成制度、4)教員の待遇、5)教職員の身分保障、6)教育内容、7)国語改革、8)教授方法、9)教育行政、10)教育財政、11)公民教育、12)体育保健、13)科学教育、14)その他の重要事項にわたって根本的検討を加えるべき問題点を明らかにした。かくて教育刷新委員会は、敗戦による荒廃と占領下という未曽有(みぞう)のきびしい条件のなかで、新生日本の基盤を築く教育改革の具体案を作り出す重責をになうこととなった。委員会の審議は総会において自由討議を重ねて議題を定めこれを特別委員会に付託し、特別委員会は審議の結果を随時総会に中間報告しその意見を聞いて再び審議し、原案を総会に提出し、その討議によって結論を得るという方法をとり、また時には総会において直接決議に至りあるいは事態に応じて声明を発することもあった。自主的審議を建て前とする委員会は文部省および総司令部との連絡調整を図るため、委員会、文部省、総司令部おのおの三人の委員で構成する連絡調整委員会を設け定期的に会合して連絡調整の任に当たった。委員会は同年十二月二十七日、1)教育の理念および教育基本法に関すること、2)学制に関すること、3)私立学校に関すること、4)教育行政に関することの四つの事項を第一回に建議し、以後二十六年十一月「中央教育審議会について」の建議を最終にその任務を終了するまで、特別委員会を設けること二一、総会を開催すること一四二回、建議事項は三五件に及んだ。これらの建議は、種々の事情による例外は別としてすべて戦後教育改革の基本となる法令に具体化され新教育の基盤を築いたのである。(建議事項一覧については資料編参照)

日本国憲法、教育基本法の制定と教育勅語の取り扱い

 戦後の民主的教育体制の確立および教育改革の実現にとって最も基本的な意義をもつものは「日本国憲法」の制定であり、これに続く「教育基本法」の制定である。憲法改正の動きは昭和二十年の秋以来いろいろの経緯をたどり、遂に二十一年の第九十回帝国議会に「帝国憲法改正案」として提出され、審議の結果一部修正の上可決、「日本国憲法」として十一月三日に公布され、翌二十二年五月三日から施行された。旧憲法には教育に関する条項はなかったが、新憲法においては国の基本に関する定めの一つとして教育に関する事項が取り上げられ、これに関する規定が主として第三章の「国民の権利及び義務」の中に含まれたのであって、これらの規定は直接間接に教育に強い関連をもち、かつその後の教育関係立法の基礎となったのである。特に第二十六条は「1)すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2)すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と規定し、国民の教育を受ける権利を国民の基本権の一つとして認め、さらに義務教育の根拠を憲法に定めることとなった。従来教育に関する国の定めは、天皇大権に属する独立命令たる勅令によることとされてきたが、国民主権の思想に立つ新憲法の制定により、教育に関する定めは憲法の理念およびその規定に基づき法律によって定められることとなった。教育立法の勅令主義から法律主義への大きな転換を画したのである。

 この立場に立った最初の立法は二十二年三月に制定した「教育基本法」である。教育に関する基本的な理念および諸原則を法律をもって定めようとする意向は、国会における憲法審議の過程においてすでに田中文相から表明されており、また、教育刷新委員会の第二回総会においても田中文相からじゅうぶん説明された。同委員会はこの構想を認めて第一議題として取り上げ、慎重審議の結果同年十二月の第一回建議において「教育基本法」の要綱として建議したのである。教育基本法の特性は、教育に関する基本的な理念および原則を国民代表によって構成する国会において法律という形式で定めたこと、憲法の理念をふまえて教育の理念を宣言するものとして異例な前文を付していることおよび今後制定するべき各種の教育法の理念と原則を規定することの三点で実質的に教育に関する基本法の性質をもつことである。その構成は、前文および十一条から成る。前文には、新しい憲法の理念の実現は根本において教育の力に待つべきことおよび「日本国憲法の精神」に則りこの法律を制定したことを述べている。第一条教育の目的および第二条教育の方針はすでに「米国教育使節団報告書」、「新教育指針」および教育刷新委員会の建議に示されている新しい教育の基本的な考え方を述べたものである。以下第三条教育の機会均等、第四条義務教育、第五条男女共学、第六条学校教育、第七条社会教育、第八条政治教育、第九条宗教教育、第十条教育行政についてそれぞれその考え方と原則を規定し、特に第十一条補則において教育基本法に掲げる以上の原則的諸条項を具体的に実施する場合には別に法令が定められるべきことを規定し、この法律が基本法であることを明らかにしている。その後、学校教育法をはじめ多くの教育関係の法律をこれらの条項の具体化のために制定した。

 なお、教育基本法の制定をめぐり教育勅語の取り扱いが問題となった。終戦処理のためにもろもろの措置がとられていくなかで、特に軍国主義的・極端な国家主義的な思想と教育の徹底的な払しょくが行なわれる一方新しい民主主義の理念や諸原則は模索の段階で、それまで教育や国民道徳をささえていた理念や価値に動揺をきたしていた。このような事態のなかで、たとえば米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会のように新しい時代に即応する詔書(新教育勅語)の発布を要望する声もあったが、前田、安倍、田中の各文相は教育勅語の内容についてはその意義を認めつつもその取り扱いについては慎重な態度を持してきた。二十一年の「年頭の詔書」は、天皇の「神格否定」の詔書として一般に受け取られた。また、議会における憲法改正の審議においても、さらに教育刷新委員会の教育基本法構想の審議においても教育勅語の取り扱いが問題とされた。そこで文部省は二十一年十月「勅語及び詔書の取扱について」通達を発し、教育勅語をもってわが国教育の唯一の淵(えん)源とする従来の考えを去って、これとともに教育の渕源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等に求めること、式日等に教育勅語を拝読する慣例をやめること、その保管や取り扱いに当たって神格化しないことを明らかにし、教育勅語の審議および取り扱いについてのそれまでの議論に終止符が打たれた。その後二十三年新憲法下の国会において衆・参両院においてそれぞれ教育勅語の排除ないし失効確認の決議がなされたので同年六月文部省も「教育勅語等の取扱いについて」を通達し、重ねてその趣旨を明らかにした。

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