口田村のミステリーあれこれ
 
 
○ 大正の山津浪の惨状
  大正15年(1926年)に発生した、口田村を襲った松笠山の山津波に関して 口田村史には次のような記録が残されている。
  大正15年9月10日に発生した一の谷川(矢口川)と小田岩坪川の氾濫と山崩 れは、「同日の天候は何となく不安の念起こりしが、遂に雨模様となり11日午前 1時頃より降雨強烈となり、同5時頃最も甚しかりしが、矢口一が谷川、小田岩坪 川共、山崩れに連れて大山津浪となり水魔亂舞して惨状を極めたり。」と記録され  さらに「矢口一が谷は、丈餘の水魔躍りて、恰も奔馬の馳くる如く圓福寺の県道 30間を呑み、尚鳥越橋(県道)を墜落せしめ、并に矢口用水井堰10か所を流失 せしめたり。」と記され、警備にあたっていた消防団員の西田勘一氏と土井傳五郎 氏の2名が、荒瀬虎二郎宅前の県道の崩壊により濁流に流され、土井傳五郎氏が横 川橋の下で13日に、西田勘一氏は17日に猿猴川の明治橋付近でそれぞれ遺体で 発見された記録されております。
  また、小田岩坪川については「松笠山の山崩れに連れて、大山津波を起こし、松 の大樹、巌石等押し流し、下流の田畑藪地等は土砂、岩石、大木の為に目も當てら れぬ惨状を呈し、就中中野粂次郎、岩坪敬一の両家は夫れが為埋没倒壊し、岩坪敬 一の雇人仁井光雄は屋根の下敷となりて無惨にも最後を遂げたり。
  其他、永田隆之、田川豊吉、片山房吉の3戸は、床下一抔に土砂侵入したるも幸 いに埋没の難を遁れたり。」と記され当時の模様について「口田村内、安佐郡を一 大センセイションを巻き起こし秋なり、口田村郵便局前の県道三次街道は大豪水の ために崩壊し、消防組員西田勘一氏、土井傳五郎氏の両名の命を取り去った。」と 当時の新聞にも掲載され報道されています。
  災害は忘れた頃にやってくるといわれていますが、昭和63年(1988年)7 月に発生した広島県西北部の集中豪雨は、中国山地を中心に山崩れや浸水被害など により死者14名、被災者637世帯に及ぶ大きな災害となり、被災者の救助に自 衛隊が救援に出動した。
  このとき松笠山の麓においても、土石流災害が発生し、流出した土砂や岩石に交 じって枯れた松の大木が上方から流れ出て民家を直撃する事故が発生した。
  幸いこのときには、家族には被害がなかったのですが流出した松の大木は、民家 の一階部分を突き抜けて、民家は倒壊を免れたものの大破する大きな被害が発生し ています。
 
○ 明治の大火
  口田村史の災害に関する記述のなかに、風水害、干ばつ、地震などの災害の記録 が数多く掲載されていますが、明治35年(1902年)には「大火」があったこ とが記述されています。
  その内容については、ふれられていないため詳細は不明であすが、当時の口田村 は藁葺き屋根が多くあったこと、住宅が現在のように密集していなかったことなど 考えると記録に残る大火について、かなりの広範囲にわたっての火災と考えられま す。
○ 小田定用水の取水口と五重の塔
  友竹瀬尻山の突端に「トウノダン」と言われたところがあった、との記録があり ます。友竹瀬尻山とは当時の矢口部落会が中心に、東野村などの入会権のある山で すが、この地は太田川をせき止め小田定用水の取水口があった場所であります。
  安藝國安北郡北ノ庄と言われていた頃の庄屋丸子市郎兵衛により、小田の庄内の 灌漑用水の確保のためにと、太田川に井堰を築くことを当時の庄屋丸子市郎兵衛さ んが提案し、その子市兵衛さんが父の志を継ぎこの大業をなし遂げるために命をか けたと言われる小田定用水の取水口があったところですが、口田村史にはその取水 口を設けたその時のことについて「若し、事成らすはと斬罪される日、自分の首を 曝すへく首棚を建設す。」と弘住神社の社前にその首棚をつくり工事に着手したと 記されています。
  この太田川に井堰が築かれたあたりが「トウノダン」と言われところがあります が、矢口部落所有の友竹瀬尻山について、この山中には「塔の段と申す地あり、五 重塔跡在り。何寺の申受は相知不申言々(郡中国郡志)宮島の五重の塔が此處に建 てありしものなりと古老は言へり」と口田村史には記されているところから、この 地名がついていたものとかんがえられます。
○ 小田定用水の秘密
  友竹瀬尻山の麓にその取水口があった小田定用水でありますが、矢口川(一が谷 川)と交差するところでは、その川底の下を潜り、弘住神社横から小田地区へと流 されていて、現在は弘住神社横から太田川の水をポンプアップして、矢口地区では 供用していませんが、なぜ矢口川から取水せず遠く友竹瀬尻山の麓に取水口を求め たものか、この太田川をせき止めることは難工事であったようで「毎日數十隻の河 舟を雇ひ計畫所に投石すること久しきも投石は水上に波紋を亂すのみ。」と記され ております。
  この難工事を命をかけて完成させたことについて、恐らく、小田定用水は隣の戸
 
 坂地区の農家まで供用されていたとの記録もありますので、矢口川の水量では足り なかったのではないかと推論されますが、矢口川の川底の下に用水路を設け、また 遠く「トウノダン」から水を引くことについては、かなりの高低差があり、当時の 土木工事の水準を知る上で貴重な研究課題となるのではないでしょうか。
  また、現在の友竹水門付近では、秋にはこの小田定用水の水を抜くために樋門が 造られ、小田定用水に一定量以上の水が流れ込まないように溢れた水か太田川に還 元されるようになったところもありました。
○ 小田の土手と「胡麻の種」の謎
 高陽町史には、玖村の水田とこの小田定用水の造作について「玖の円正寺の前の田は、むかしは水はけのよい良田であった。
 寛文のころ、小田から太田川に堰を築き田へ水を引きたい、と承諾をもとめてきた、玖では相談した結果、小田で堰をつくったからといって別に差しさわりはあるまいということで、承諾の返事をしたのであった。ところが小田に土手ができてみると玖の田は水はけの悪い田にかわってしまった。」との記録がありますが、当時太田川にはほとんど川土手がなく大水のたびに氾濫していたのでありますが、この時、小田に作られた土手は「馬が小便ばりゃ小田の土手は切れる切れてなるまい胡麻の種」と言われているように、太田川の氾濫のたびに崩れてしまう大変貧弱なものであった。
 その土手で隔てられている小田地区には、水田が少なくゴマやアワしか作れない土地であり、堤防の決壊によって翌年の植えつけようゴマやアワの種さえ不自由する状態であったことから、土手の決壊によってゴマの種が流されないようにとの言
 い伝えとして、このように呼ばれていたのかも知れない。
○ 薦口之水
  口田村史のなかに「薦口之水小田村爲苗代水乞得之掘新水道也矢口村除用水之時 可取之雖然不斷左全不可取之爲後年刻石證爲己」(寛文二甲寅稔 岩田長右衛門) とあり、小田地区の水田に水を引くために矢口地区に新しく水源となる用水路がつ くられたものと考えられますが、寛文2年(1662年)に完成したものとみられ ます「薦口之水」(こものぐちのみず)は、小田定用水の完成したといわれる明暦 3年(1657年)からは5年の遅れがあります。
  この「薦口之水」と呼ばれる用水路の取水口は、矢口川にかかる矢口橋の下にあ る2か所の2か所取水口のうち、西側の取水口が言われている場所ではないかと推 察されています、この取水口から取り込んだ水は「鳥越え池」に溜められて田んぼ に流されていたものと考えられます。
 
○ 弘住の灯台と東野の渡しの道標
  弘住神社の境内に「弘住の灯台」と言われる石づくりの灯籠があります、この灯 籠はかって「弘住の渡し場」と呼ばれていた近くに設置されていたのですが、太田 川の河川改修工事に伴い現在地に移設されたものであります。
  何時ごろ、どのような目的で太田川岸に設置されたものか明らかではありません が、古くは可部のあたりまで海運が通じていたとの説もあり、太田川を行き来する 舟の道しるべであったのかも知れません。
  また、弘住神社の氏子さんが川を隔てた東野、古市あたりまで広がっていますの で、船を利用して神社にお参りする氏子さんの安全のためにと建てられたものかわ かりませんが、川にある灯台は大変めずらしいものとされています。
  太田川を行き来するためには、矢口の渡し、とこの弘住の渡しのほか東野の渡し の3か所が口田村にはありました。
  なかでも、東野の渡しは旧山陽道を知るための重要な手掛かりになると考えられ る場所の一つでもありますが、この東野渡しと三次街道を示す石標がその近くに建 てられて現在も残されています
○ 弘住の草競馬場跡
  八幡宮としての小田弘住神社に関する古事に、「當社は往古より、北ノ庄、小田 村、矢口村、古市中筋村、東野村の五ケ村の氏神に御座候、鎮座の義何程に相成候 哉、舊記兵亂の節紛失仕候と傳申候。御祭日は往古より8月14日、15日神受祭 禮執行仕候。御幸の御旅所は矢口村新宮神社に而8月7日御旅所に而神受御座候。 御幸の節神主官位の装束を着馬上に而本供連御幸の供致奉候。氏子も御供其後還御 の節も同前其後馬場に而養父馬在之夫より御湯立神受舞執行御座候。」とあり、明 治30年(1897年)頃まで、この場所で草競馬がお祭りの余興として行われて いたとの記録があります。
  現在も弘住神社の境内の西側の端には、その観覧席と見られる石段の跡が残され ておりますが、このような草競馬がおこなわれていたところには、中深川の西塚に も馬場があったといわれており、亀崎神社の祭礼の行事には競馬が奉納されていた との説もあります。
○ 二級瀧と「龍水の池」
  口田村大字矢口奥山路の傍に「二級瀧」があるといわれています。この二級の滝 とは「雄瀧一丈。雌瀧三丈。崖巌に懸り美觀を呈す。」と口田村史には記録されて いて勇壮なしぶきを散らしながら水が流れる雄瀧と滑らかな1枚岩の上を静かに流 れ下る雌瀧であるといわれ、その所在については矢口川の上流にかかる一が谷橋付
 
 近から東側に延びている谷川にあります、現地はまむしが非常に多くいてまむし谷 とも呼ばれているところであります。
  また、松笠山の松笠観音の境内には弘法太師自らが掘られたと言われる「龍水の 池」がありました、四百四病に効ありと伝えられているほか、雪が降っても積もら ない、冬でも凍らないといわれていた箇所があったと伝えられていますが、現在は 水が枯れていて「護摩道場」として使用されていて見ることができず、その側に掘 られている井戸のラドンを含む水を求めてお参りする人がたくさんあります。
○ 口田の湧き水
  小田の岩海のお地蔵堂にも「幸次という人夢の中でお地蔵さんのお告げとして清 水の湧き出るところを掘ればお地蔵さんがいる。このお地蔵さんを祀ってくれれば 願いごと必ずかなえてつかわす」と伝えられているところがあります、今はその清 水の湧き出たといわれる跡は見当りません。
  矢口にも「おんばんさん」と呼ばれていた清水の湧き出ていたところがありまし た。この場所は現在、梅園団地への入り口の道路の拡張により、その痕跡を見るこ とも出来なくなっています。
  この「おんばんさん」の名前については、はっきりした記録はありませんが、黄 幡神を祀る神社が全国各地にあって「黄幡神社」と呼ばれておりますが、昔この地 に黄幡神社と呼ばれるお社があって、「黄幡社」(おおばんしゃ)なまって「おん ばんさん」と呼ばれるようになったのではないかと考えられます。
  このあたりの谷は、湿地になっていて沢山の「まむし」が生息していたため、古 来よりこの地は「まむし谷」と呼ばれていましたが、現在は梅園団地に通じる道路 ができて、山の上には沢山の住宅が建てられています。
○ 夜山の飛螢
  「口田村大字矢口に在り。仲夏の侯螢飛ぶ様面白し。」と口田村史には記されて いて、ここ口田村でも沢山のホタルが飛び交っていた時代もあったことが窺えます が、「夜山の峠」「友竹川」一帯はこの地に沢山の住宅が建てられるまではホタル が沢山生息していた場所であります。
  現在は安佐北区内でも有数の商用地となっていて、昔の面影は何処にも見いだす ことができなくなり、ホタルが生息していた「友竹川」や「絵坂川」、ため池では 「あこや池」や「はすが池」がありましたが、いずれも大きな団地の造成により今 は見ることができなくなっています。
  この「はすが池」の名をとって、このあたりの団地を「はすが丘」と名付けられ ていますが、この地名に僅かにその昔を忍ぶことができるのみとなっています。
 
○ 厳島彌山の遠望
  口田村からもその昔には、日本三景の一つ安芸の宮島のある厳島が遠望できたの ではないかと思われ、口田村史には「小田杉崎神社附近よりすると、矢口月野瀬神 社附近より眺望殊によし。」と記されています。
  現在でも松笠山や二つ城山の山頂に立てば、瀬戸内海を隔てて厳島が遠望できま すが、この低地にある杉崎山や月野瀬神社からも遠望できたことは想像を絶する思 いがします。
○ 将軍の松
  国の史跡指定をうけている「中小田古墳群」のなかでも、卑弥呼の鏡が出土した 第1号古墳の側には大きな松の木が立ち、松笠山の麓の住宅地からも見上げること ができ、中小田古墳群のシンボルともなっていた松の木でした、現在は松くい虫の 被害で枯れ木となっていて昔の面影を忍ぶことはできませんが、この松の木がその 昔「将軍の松」と呼ばれていたものであります。
○ 観音大杉・観音大松
  松笠観音の境内には「観音大杉」と呼ばれる巨樹が記録されています、「一丈五 尺、十五間、三百餘年。伝説古来観音大杉と稱へ居り、先年故ありて賣られたる大 杉(周囲二丈樹高二十間、樹齢三百餘年、價格百七十五圓四十五錢五厘)と姉妹樹 なり。」とあって、当時に写されたと思われる写真には2本の巨大な杉の木が並ん で立っていたように見えますが、この観音大杉も平成3年(1991年)9月の台 風19号により、隣接していた「いぬまきの大木」と共に倒れて今はなくなくなり ました、倒れた当時の観音大杉の幹回りは52メートルもありました。
  このほか、松笠観音には「観音大松」(一丈三尺、十八間、三百餘年。)があっ て、この付近には大松並立していたとの記録もあります。
  現在は、この大松も切り倒され残った松は数本に過ぎず、広島市の天然記念物に 指定された昭和59年(1984年)には、この大松も松食い虫の被害で枯れてし まったため、枯れ木として記述されています。
  また、過去には「和尚松」といわれていた松の大木もあったようですが、この松 の木も伐採され売られることとなっていたが、この松は和尚さんのお墓の花として 植えられていたもので、その松の木を伐採した木挽二人が共に怪我をしたため、こ の松の木の買い手は現れなかったといわれています。
○ 鎮守の大椎
  小田平野神社の平野古墳の上には、鎮守の大椎と呼ばれる大きな「あらかし」の 木があります、このあらかしの木は根元から数本に枝分かれをして、口田村史には
 
 「約一畝歩を掩ふ、そのそばには樹齢二百餘年を保つ大藤蔓が大蛇のように巻きつ き、藤の花の咲くころは長さ一尺五〜六寸の花がこの椎の木の全樹に咲くように見 える」と記録されています。
  このほか弘住神社には「八幡の大椎」と「八幡の大松」がまた、矢口月野瀬神社 には「椎の木」の大木があり、矢口新宮神社には「いちょう」の大木があって、そ れぞれご神木として大切にされていましたが、この大木も平成3年の台風の被害で 倒れてしまった木もあります。
  弘住神社には、倒れた「八幡の大椎」に匹敵する大木が残っていますが、この木 もその側を通る道路の車の排気ガスの影響をうけて弱ってきて、平成11年の台風 により幹の上部が折れてしまった。
○ 經塚の松
  「矢口村に在り、牛馬の病に小石に經を書き此塚に埋もれば應あり」と藝藩通志 に記されているとの記録が残されているのですが、その所在については不明であり ます。地域の古老の話によりますと、二ツ城山の麓の一が谷に「せんにん塚」があ り小石が高く積み上げられているといわれていて、この「せんにん塚」と「經塚の 松」と呼ばれている小石を積み上げられている場所は同じものかも知れませんがは っきりとしたことは分かりません。
○ 日清戦争の記念樹(棗の木)
  矢口教蓮寺前の川(矢口川)に一本の棗(なつめ)の木があります、この棗の木 は、明治28年(1895年)日清戦争が終結し講和条約が締結されたことを記念 し、当時の清国から苗木を持ち帰り記念樹として植えられたものと言われておりま す、当時は数本の棗の苗木が植えつけられたと言われていますが、現在残っている 「棗の木」はその時に植樹された木の実から新しく芽をだした二世であるとといわ れ、現在は1本のみ残っております。
○ 口田村の巨岩
  口田村史には、矢口村に長刀岩、五間岩、イホ岩、船岩、赤石岩、鳥帽子岩が存 在すると記され、小田村には八畳岩、船岩と鳥帽子岩のあることが記されています が、船岩と鳥帽子岩については矢口村、小田村の双方に存在することから同一の岩 と見られています。
  松笠山の頂上から尾根づたいに北の方角に進むと、沢山の大きな岩を見ることが できます。その中で代表的な岩は、「八畳岩」と呼ばれて積み重なっている大きな 岩と思います、この岩の上に立つと太田川を挟んで西方向に視野が広がり「八畳岩 展望台」と呼ばれております。
 
  この八畳岩展望台から尾根づたいに中国電力の変電所に向かって下ると、大きな 舟の形をした岩が目に入りますこの岩が「船岩」と呼ばれる岩で、小田村と矢口村 を分ける尾根上にあるためこのように記述されているのかも知れません。
  二ケ城山の頂上の直下には、天狗岩と呼ばれる巨大な岩があって、山頂を目の前 にした急坂の登り口にあたり、この山への登山者の一番の難所となっています。
  そのほか、沢山の岩がありますが、その特徴など詳しい記録がありませんので名 前と該当する岩がどれなのか分かりません。
○ 山城・古戦場跡など
  東区の馬木、安佐北区の矢口、岩上の三村にまたがっている二ツ城山ですが、こ の山頂付近には「二ッケ山城」があったといわれています。
  この「二ッケ山城」はまたの名を「豆が城」とも呼ばれていたとのこと、また矢 口村には「友武城」「池田城」があったと口田村史には記されているのですが、そ の所在地を示すものは何も残されておりません。
  小田村には「幾志山城」「狐城」「伊豫陣原」などの名前が残されております、 幾志山城跡とは杉崎山から西方に向かったところのJR芸備線側の小高い丘のよう な場所ですが、山頂にかけて竹藪となっており僅かに残る石積みが城跡を思わせる 程度であります。
  小田狐城跡は、松笠山の中腹にある中小田古墳群のほぼ中央の一段と小高くなっ た2号墳〜4号墳があるあたりが、その山城の跡と見られていて「岸山狐城」と呼 ばれております。
  戦国の時代、武田の勢力と大内の勢力が戦った「松笠山の合戦跡」ともいわれて いて、大永7年(1527年)5月から7月にかけて、大内義興の勢は武田・尼子 氏の勢力に向かい戸坂や玖村にまで攻め込んだが、松笠山で合戦がおこなわれたの はこの年の5月13日と言われておりますが、この「岸山狐城」に陣をとったのが どちらの勢力であったか定かではありません。
  享禄元年(1528年)に大内義興が死去し、攻撃は一時中断され、再び本格的 な攻勢を始めたのは、天文8年(1539年)義興の子義隆が広島湾一帯で武田方 の佐東川内水軍と戦いと言われており、この戦いは「戸坂合戦」として伝えられ、 大勢の武士が参戦していることを知らせるため「多数のわらじで地上を叩いて音を だした」「多数のわらじを川に流した」などの言い伝えもあり、戸坂のこの地には 「千足」と言う地名も残っております。
  このほか、伊豫陣原と呼ばれるところは、「伊豫人某、武田氏を攻め来たりて此 に合戦す」と旧安佐郡史に記録されているだけで、伊豫の人とは誰なのか、何時こ
 
 の地で武田の軍勢と戦ったのかはっきりしません。
○ 鳥越池の五つの瓶とため池
  矢口村のため池には「柳ケ谷」「加唐」「道川」「阿須賀原」「秋岡」「鏡出」 「大久保」「阿古屋」「草谷」「蓮が池」などがありました。
  小田村には「鳥越」「梶面」「大歳谷」「隠谷」などの池があったとの記録が残 されています。
  このように多くのため池があるのは、田んぼに水を引くことが主要な目的で造ら れたものと考えられますが、その多くは住宅団地の造成により姿を消してしまいま したが、その中の一つ口田小学校用地となって埋め立てられた「鳥越池」には、口 田村史に「小田鳥越池の真ん中に五つの瓶が埋めてあると稱へらる。」と記されて おりますが、何時の頃、誰が、何のために埋めたものが定かではありません。
  昭和20年(1945年)8月の第二次世界大戦が日本軍の敗戦により終結した のですが、当時口田国民学校に駐屯していた旧日本軍の関係者が持っていた軍刀な ども、この池の中に埋められたとの説もあります。
  しかし、終戦という世の中が混乱していた時であったため、そのことの真偽のほ どはわかりません。東区の菰口と口田の境界になっている「一が谷」のため池は口 田村史には記載されていません、このことは比較的新しい時期に矢口川の治水を目 的に造られたものと考えられます。
○ 小田の石切り場
  小田松笠山麓に石(御影石)の名産ありて石工多し、と口田村史には記されてお ります。
○ 藝備鐵道の開通と矢口駅、小田停留所の設置
  明治45年(1912年)6月、藝備鐵道線を施設するとの議論がまとまり、口 田村に停車場を設置しようとする意見が沸騰し、停車場用地の提供と金銭の拠出を した、と口田村史には記されていますが、大正4年(1915年)6月4日に開通 したとなっています。
  大正13年(1924年)頃、広島駅まで延長されたといわれそれまでは、現在 の広島駅よりずっと東の方に停車していたとのこと。
  昭和4年(1929年)にガソリン車になり、その頃「小田停留場」が設置され たといわれ、当時の広島駅と三次駅の間にあった駅は、矢賀、中山、石ケ原、戸坂 小田、矢口、玖村、下深川、中深川、狩留家、白木山口、中三田、彌谷、三田、吉 永、志和口、井原市、長田、向原、戸島、吉田口、甲立、川立、志和地、青河、三 次、十日市の各地名が記されています。
 
  小田停留場には、ガソリン車のみが停車していたようですが、このガソリン車は 戦争が激しくなり、燃料のガソリンがなくなったことから、終戦前には動かなくな り小田停留所は廃止されました。
  ガソリン車以外では、蒸気機関車(C−11型機関車)が客車や貨物車を牽引し て走っていたようでありますが、このC−11型機関車は炭水車が小さくて十分な 燃料と水が積めないことから、途中の志和口駅で水と燃料を補給しないと三次まで 走れないようでありました。
  その後、乗客が増加してからはC−11型蒸気機関車は、C−57型の蒸気機関 車にかわりました。
  また、安芸矢口駅からは太田川で採取した川砂を積み込んでいたようですが、そ の川砂は山陽本線の瀬野駅から八本松駅までの急坂を上る列車の車輪の滑り止めに 使用されるもので、この川砂を採取、運搬するため、太田川の真ん中には川砂を貯 めるために人口の島がつくられ、巻き上がった砂が下流に溜まる工夫がしてあり、 その砂を運搬するトロッコが川の中から矢口駅まで走っていました。
○ 木炭バスの思い出
  昭和の初め頃の交通に関しては詳細な記録はありませんが、地域のお年寄りのお 話しによると、昭和10年頃(1934〜35年)には矢口村から牛田、白島を経 由して広島市八丁堀(京口門)まで「吉野のバス」が走っていたとか、矢口から八 丁堀までのバス賃は8銭であったとのこと。
  昭和16年(1941年)12月には第二次世界大戦に日本国が参戦をしたので すが、この頃からバスを走らす燃料にもこと欠く状態となり、バスの背中には大き なガスを発生するボイラーを付けて走る「木炭バス」の時代となりました。
  昭和20年(1945年)の終戦の当時には、そのバスも廃止されてなくなって いましたが、この吉野のバスの発着場と車庫が現在の中矢口の旧道の中央付近にあ りました。
  これより前、大正時代の口田村の交通事情について、口田村史には「荷馬車数台 続くときあり、多くは薪、肥料、米、雑穀なれど酒樽も少なからず、なお自動車、 自転車の往復もある。轟々たる列車の響き、悲壮なる汽笛の音間断なく聞ゆ」〔大 正13年(1924年)5月〕と記述されており、この頃には既に自動車の往来が あったことが窺えます。
  昭和25年(1950年)には、「広島郊外バス株式会社(後に広島交通株式会 社と改称)」が設立され、可部上市を起点に広島駅・紙屋町まで運行を開始しまし た。その後、広島合同バス(後に国鉄バスに改称、現在JRバス)が広島駅、紙屋町
 
 を起点に芸備線沿いに白木、向原を経由して三次大歳町まで運行を開始しておりま す。
  広島交通株式会社が、このほどまとめた同社の50周年の記念誌によると、当時 のバス賃は1キロメートル2円50銭であったといわれていますが、矢口から紙屋 町までは距離に換算して25円であったと記憶しております。
  この当時の道は、舗装がしてなく天気の日には砂ぼこりが舞い上がり、雨めの降 った後はぬかるみ道で、でこぼこ道となっていました。
  このことから、雨上がりのこのでこぼこ道のことを当時のバスの車掌さんは「エ クボ道」といってお客さんに案内していました。
○ 口田村役場の変遷と村長さん
  郡中国郡志によれば、文政3年(1820年)頃の村役人には、矢口村庄屋庄兵 衛、組頭丈造、庄屋清三郎、組頭治良右衛門とあり、小田村庄屋増平、組頭仲兵衛 と記されています。
  明治初年(1868年)からは、村制施行までの戸長の名前に山村松之助、金丸 文之助、松本武左衛門、増田與三左衛門のが記録されています。
  明治の初め頃には、小田村の役場は字西久保、松本宅に、矢口村役場は字中道、 増田宅にあったと記録されています。
  大小区制の廃止以後は、小田村役場は字松ケ迫に、矢口村は字菖蒲迫にあったと 記録が残されています、その後は教蓮寺境内に、字高田谷口愛治宅にと移り、明治 27年(1894年)には字金信、荒瀬宅に移ったと記されております。
  明治33年(1900年)には、再び字菖蒲迫に戻り楠原忠助宅に置かれ、明治 38年(1905年)頃に字松ケ迫に新設された、と記録されております。
  古い口田村の地図によると、「松ケ迫」という地名は口田小学校を中心としたあ たりになり、現在の口田幼稚園のあるあたりと考えてよいと思います。
  また、菖蒲迫は口田小学校前の山の東側あたりで、矢口川にそったあたりになり ますが、楠原さんの自宅が役場であったとすると矢口の旧道の中心地付近と考えら れ、村政執行時よりの歴代村長は松本武左衛門、増田與三左衛門、田中太一郎の皆 さんが村長を歴任したとありますが、口田村役場が字松ケ迫に新設された当時の村 長は田中太一郎(1897〜1913)、山野定治(1914〜今日に及ぶ)と記 されており、口田村史が刊行された昭和8年(1933年)当時の村長さんは、山 野定治さんであったことが窺えます。
   以後の村長さんについては、はっきりとした資料の確認ができませんが、山野定  治さんのあと、河内豊さんではないかと考えられます。
 
   河内豊さんは、広島に投下された原子爆弾により亡くなられ、当時の村役場の助  役であった中田實蔵さんが、その年の10月に村長に就任したとの記録があります  が、昭和21年(1946年)1月に施行された「公職追放令」という法律によっ  て、その法律が施行される前の昭和20年(1945年)12月28日付で村長の  職を解任されました。
  (口田村になってからの歴代の村長)
    初代村長 松本 武左衛門(明治22年矢口村と小田村の合併により誕生)
    二代村長 増田 與三左衛門
    三代村長 田中 太一郎
    四代村長 山野 定治
    五代村長 河内  豊(原爆により行方不明となった)
    六代村長 中田 實蔵(公職追放令により最短記録の村長)
    七代村長 保田 達磨
    八代村長 川本 才一(公選最初の村長)
    九代村長 村本 里律
     (高陽町合併) 町長 山村  弘
 
   公職追放令という法律は、公共性のある職務に特定の人物が従事することを禁止  する法律で、日本では戦後の民主化政策の一つとして、昭和21年(1946年)  1月にGHQの覚書に基づき、議員、公務員その他政界、財界、言論界の指導的地  位から軍国主義者、国家主義者など約20万人の人が公職などにつくことを禁止さ  れました。
   昭和20年(1945年)8月6日、広島に投下された原子爆弾により行方不明  となった河内豊村長にかわり、当時助役であった中田實蔵が同年10月19日付で  村長に就任し、原子爆弾の被爆者の収容、救援などのほか、終戦時の村役場の行政  に携わったのであるが、この法律の適用をうけることとなり同年12月28日付で  退任した。
   口田村役場の改築の時期(昭和19年頃)については、はっきりした記録があり  ませんが、戦時中の建物疎開により、広島市内で取り壊された建物が口田に持ちか  えられ、口田村役場として改築され2階建の事務所となりましたが、当時は道路よ  り奥まったところにあった村役場でしたが、玄関部分が道路に面したところまで拡
 張されました。
  口田の駐在所も、当時は役場の隣にありましたが、その後この駐在所は現在の口
 
 田ふれあいセンターのある場所に移転し、口田村役場は昭和30年(1955年) 3月31日をもって口田村は周辺の落合村、深川村、狩小川村と一緒になって高陽 町に統合され廃止されました。
  その後、この村役場の跡地は「口田幼稚園」の用地として利用されております。