尾張地名考に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神と あるは七社明神を言うなり」とあり、神社に祀られている神鏡に元慶8年(884) の銘があるところからこのころの創建と考えられる。

尾張志に「熱田七社神を祀る故に社号を七社と言う。応永32年(1425) に吉田治郎右衛門守重社殿修造(棟札あり)す。境内に縦横26尺の塚あり。 そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」と記され ている。この岩は日本武尊腰掛岩と伝えられ、塚(古墳と考えられる)と共に 現 存している。

この神社境内は太古より古木繁り清浄な神域であった。吉田社家の祖岩塚城主 吉田守重は足利尊氏の一族であり。尾張之守足利高経の祖父宗家の兄の系〔大系 図による)であり、この岩塚および隣邑を領有していたが、武威盛んで民を愛 し経神の志厚く常に国家の太平を祈り(尾張雑記)応永32年(1425)にこ の神域にあった七社を勧請し祀った。熱田神宮、八剱宮、大幸田神社、日割御子 神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社、の七社である。

境内末社の内、白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社はかっては 村内に別に社地を有し鎮座していたが享保19年(1734)に当社境内に遷 座された。

現在七所社の祭礼として行われている「きねこさ祭り」は御田祭りとも言われ、 もとは御田神社の祭礼であったものが七所社に受け継がれ連綿として続けられてい るものである。この祭りでは、昔は吉田神官に四位の束帯を差許され(文化3年 裁許状)、その後当社神官は従五位下に叙せられた(天保12年2月宣旨)。