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オリジナル連載 (2006年10月31日掲載)

時事新報史

第9回:『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜 
 

























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 本連載で扱う内容は、自ずと『時事』論説(ここでは社説と漫言を合わせた意味で呼ぶ)の内容が多くなるが、この論説については昨今ずいぶん議論がある。論説と福沢の関係をどう見るか、という話である。

 『福沢諭吉全集』には多くの『時事』論説が収録されており、執筆者は全て「我輩」と自称している。全集をひもといた研究者はこれらを当然福沢の書いた文章と考え、「我輩=福沢」と考えてきた。しかし、福沢でない「我輩」が混じっているのではないか、すなわち他の人が書いた福沢の思想とは無関係の論説が全集に混じっているのではないか、という問題提起がなされ、近年議論の的となっているのだ。

 このような議論が熱を帯びた経緯は複雑だ。ごくごく単純化すればこの議論は、『時事』論説を根拠として福沢を、アジア侵略主義の権化とか、天皇崇拝主義者とか、差別主義者などとする一部の批判の盛り上がりに反論を試みようというところから発している。こういった観点から『時事』論説を再検討した研究者が行き当たった問題、それが全集収録論説の執筆者認定の作業がずさんなのではないかという点なのである。

 現在最も新しい『福沢諭吉全集』全21巻は実に9巻が『時事』論説によって占められているが、福沢生前の論説全てが収録されているわけではなく、福沢執筆と認定されたものだけが収録されている。では誰がどのように認定したのか。この点について、現行全集の編者・富田正文氏は次のように説明している。

「時事新報」の社説は一切無署名で、他の社説記者の起草に係るものでもすべて福沢の加筆刪正(さんせい)を経て発表されたもので、漫言や社説以外の論説もほとんど無署名または変名であるから、新聞の紙面からその執筆者を推定判別することは、今日の我々ではよくなし得ない。大正昭和版正続福沢全集の編纂者石河幹明(いしかわ・みきあき)は、終始福沢の側近にあって社説のことを担当していたので、右のような判別はこの人でなければ他になし得る者はないといってよいであろう。大正版全集の「時事論集」は、石河が時事新報社にあったとき、自分の社説執筆の参考にするため、福沢執筆の主要な社説や漫言を写し取って分類整理して座右に備えておいたものを、そのまま収録したものであった。昭和版続全集の「時事論集」は、やはり石河が、大正版全集に洩れたものを、創刊以来の「時事新報」を読み直して一々判別して採録したものである。本全集では全く右の石河の判別に従って私意を加えず、わずかにその後に原稿の発見によって福沢の執筆と立証し得たものを追加したに過ぎない。」(『福沢諭吉全集』第9巻、「後記」)
福澤が全文を執筆した論説原稿
 現行の全集が出来るまでに、福沢の全集は3回編まれている。第1回は福沢生前の明治31年のもので「明治版」と呼ばれる(『福沢全集』と題し全5巻)。これは時事論説を収録していない。続いて「大正版」(『福沢全集』と題し全10巻)、そして「昭和版」(『続福沢全集』と題し全7冊)と呼ばれるものが出ており、時事新報記者として長く福沢と行動をともにし、福沢没後の『時事』を主筆として支えた門下生・石河幹明が編纂に当たった。富田が書いているとおり、全集編纂のとき石河一人の手によって、全論説の中から福沢執筆のものだけが「判別」され、全集に収録されたのである。

 この経緯は、知れば知るほど確かに厳密さを欠く話であり、近年の実証的歴史研究の流れの中ではとても無批判ではありえない。何しろ、数十年前に書かれた無数の文章から福沢の書いたものだけを選び出すという作業が一人の記憶を頼りに密室で行われ、それが全集の約半分を占めているということになるのである。富田も触れているように、全集に収録されていない論説の福沢直筆原稿が発見されることは少なくないので、それが高度な精度を有する作業でなかったことは明らかであるし、また石河が記者となる明治18年以前の社説も、彼の認定作業で選ばれていることも、精度に疑問を抱かせる。

 それでは、石河による「判別」に疑問があるとして、この問題をどうするべきなのだろうか。ここで登場したのが、論説執筆者を推定し直す、という新たな執筆者認定論である。この議論の先鞭を付けたのは、比較言語学者で『中江兆民全集』の編纂で無署名論説の選定を経験した井田進也氏である。同氏は、論説の文中に使用されている語彙や送り仮名、当て字に個人差があることに着目し、独自の執筆者認定法を提唱した。筆者が明確にわかっている記事を参考に各記者の筆癖を抽出し、それを無署名論説と照合し、誰が起草した記事か、また福沢の加筆がどの程度入っているかを5段階で判定するというものである。A評価は福沢が全文執筆したもの、Eは福沢の筆が全く入っていない、というわけだ。この議論は、平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(文春新書)で敷衍(ふえん)されて広く世に知られることとなった。

 井田氏や平山氏は、この認定法で検証すると、従来福沢批判で用いられていた『時事』論説は、ほとんど他の記者が起筆したものであるという。混入している論説の多くは石河起筆のもので、水戸出身の彼の論説は国権主義的色彩が強く、この影響で福沢の思想が歪んで理解されるようになってしまったというのだ。

 この議論の盛り上がりによって、全集の盲点が多くの研究者に議論されることとなったのは、大きな意義があったといえよう。しかし、この認定方法は、また多くの問題を抱えているように思われる。たとえば、社説を起草していた記者がいつ何人いたかは正確に分かっていない。有名な記者は署名記事が存在して語彙比較が出来るとしても、無名の記者や短期間しか在籍しなかった記者が多く存在する。そういった記者の起草論説は福沢と語彙が似ているかも知れないし似ていないかも知れない。また、この認定法では文章の全体的な傾向を評価できるかもしれないが、検証できる語彙は文章の中での分布に粗密が生じるはずなので、「ここの部分は福沢が書いた」、といったことを断言できるほどの精度を持ちうる話とはなりえない。一見客観的な認定結果も、その精度は検証不能なのである。さらに、植字工が正確に原稿を写さなかったり、校正係が表記や送り仮名のゆれを統一した可能性もあるだろう。記者の気分や偶然による綴りの変化、福沢が起草記者の筆癖を知っていて戯れに加筆でもそれを真似た可能性、福沢の加筆修正を経てさらに別の記者が修正や清書をした可能性など、いくらでも例外を想像でき、しかもそれらはありそうな話である。最近ではこの議論に対して、再反論を試みる福沢批判も発表されているが、それは井田氏らの認定結果を誤りとして別の認定結果を提示するもので、事ここに至れば執筆者認定論は水掛け論になってしまったといわざるを得ないだろう。

 それでは結局、『時事』論説をどう読むべきなのだろうか?…と、ここで今回は紙幅が尽きたので次回筆者なりの卑見を述べてみたい。



資料
・井田進也「福沢諭吉『時事新報』論説の真贋」(『図書』、平成8年6月)、「福沢諭吉『時事新報』論説の再認定」(『思想』891号、平成10年9月)、「二〇〇一年の福沢諭吉:清仏戦争期『時事新報』論説の再認定」(『福沢諭吉年鑑』17巻、平成13年3月)、「烟霧の中の「脱亜論」―福沢をして福沢を語らしめよ」(『福沢手帖』109号、平成13年6月)等、同氏によって多くの論考が発表されている。また『歴史とテクスト』(光芒社、平成13年)に認定法とその有効性についても論じられている。
・平山洋『福沢諭吉の真実』(文芸春秋、平成16年)。

画像

・ 福沢が全文執筆した論説原稿(慶應義塾福沢研究センター蔵)。上端の記名は植字工の担当を示すものと思われる。

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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