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2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓

都司 嘉宣(東京大学地震研究所 助教授)

2005年8月4日

特異な巨大地震

 去年の12月26日、インドネシア北端のスマトラ島沖で大きな地震が起きました。時がたつにつれて、今まで見たこともないような、とんでもないことが起きたことが分かってきました。最終的には、30万人の人が主に津波によって亡くなったということです。大正12年9月1日の関東大震災の死者が10万人ですから、その3倍の人が亡くなったのです。

 当然、国際的な調査団を組織して現地に行かねばなりません。現地といっても、人が死んだところは、インドネシア、タイ、インドと、非常に広範囲にわたっています。いちばん被害が大きかった、インドネシアのスマトラ島の北部のバンダ・アチェという都市のようすを見てきました。

 この地震の、津波からみたマグニチュードは9.0とされました。安政の東海地震のマグニチュードが8.4、昭和19年の東南海地震が7.9でした。昭和の東南海地震よりマグニチュードが1.1大きいということは、およそ50倍の大きさです。そして、安政東海地震の8.4よりも0.6大きいですから8倍、つまり東海地震が八つ一ぺんに起きたくらいの、途方もない大きな地震だったのです。

 地球全体として、マグニチュードが9を超えたような出来事とは、一体どのくらい起きているのでしょうか。古い時代は、機械観測がちゃんと行われていなかったので、ひとつの方法として津波の規模から正味のマグニチュードを推定してみます。19世紀では、1837年バルディビア(チリ)、1841年カムチャツカ、1868年アリカ(チリ)、1877年イキケ(チリ)の4回がマグニチュード9.0を超えます。20世紀になると1946年アリューシャン、1952年カムチャツカ、1957年アリューシャン、1960年チリ、1964年アラスカの5回です。地球全体としては、1世紀に4〜5回の出来事ですが、チリ、南米、あるいはアラスカ、アリューシャン、カムチャツカという北のほうと、環太平洋のどこかで起きたものに限られていたわけです。

 注意したいのは、20世紀は、1946年のアリューシャン、6年後のカムチャツカ、その5年後がアリューシャン、その3年後がチリ、その4年後がアラスカと、わずか18年の間に立て続けに起こっています。1世紀に4〜5回といっても、20年に1回、等間隔に起きるのではなく、1発起きたら立て続けに起きるような傾向があります。

 今回のスマトラ・インドネシアの9.0を見ますと、今まで起きていた太平洋ではなく、全然違うインド洋で起きたという点で一つ特異です。これが、立て続けに起きる地震のトップバッターになるかどうかは分かりませんが、やや不安ではあります。

バンダ・アチェの津波被害

 国際調査団は、インドネシアの首都のジャカルタで、日本、アメリカ、インドネシア、フランス各国からの研究者計17人を束ねて私が団長を務め、スマトラ島北端に位置するバンダ・アチェ市という最大被災地に入りました。成田を出たのが1月17日、帰ってきたのが2月1日です。

 スマトラ島は日本の本州の倍ほどの大きな島です。この島に、アチェ州という、九州の1.4倍くらいの面積の州があって、その北端にバンダ・アチェの都市があります(図表1)。人口は25万人ですから、日本の地方の県の県庁所在地ぐらいの、かなり大きな都市です。ここで、およそ7万人、人口の4分の1の人が、津波で亡くなりました。震源はスマトラ島の西海岸側にあったので、西海岸で大きな津波被害が起きています。

 我々の調査はこのあたりのまちに限られました。というのは、アチェ州全体はゲリラの支配地で、インドネシアから独立したがっています。一歩まちを外れると、独立解放組織、ゲリラの支配するところです。そういう政治的な危険を伴ったところの調査だったわけです。

 バンダ・アチェでは、西側の海岸を重点的に調査しました。バンダ・アチェから西海岸を200kmほど南へ行くと、ムラボーという第二のまちがあります。この間に五十幾つ川が流れていて、それらに架けられた橋が全部落ちています。裏道を通って行くこともできません。ゲリラがいたり、車が使えなかったり、伝染病が起きていたり、困難な調査でした。死者が7万人もいたわけですから、人間の死体があちこちにごろごろしています。そして気温が40度で、腐敗が早くて強いにおいがするのです。ハエやカが立ち込め、この世の地獄のような光景でした。

 今回起きた場所というのは、大きな地震が起こること自体は歴史的には珍しくはなく、この周辺で津波を伴う大きな地震は起きています(右図)。この場所は、列島弧南側で、インド、オーストラリアのプレートがこの下へ沈み込む場所に当たります。プレートの境目で地層がずれて生じた地震です。本震が起きて北のほうへ余震域が延びていって、ニコバル諸島、アンダマン諸島というインド領の諸島の北の端まで広がりました。1100kmが震源域であったわけです。1100kmというと東京から札幌までです。東海地震は駿河湾のいちばん奥から紀伊半島の熊野沖まで大体300kmですから、1100kmというとその3〜4倍の長さです。

 この大地震が発生した直後に、断層面を4枚仮定して、6m水平方向にずれて、それによって津波が起こされたとして、どこが津波が高くなるかという計算が行われました。その結果、スマトラ島のいちばん北部の西側が7〜9m、タイのプーケットやカウラックが11〜13m、アンダマン島も10mぐらいと思っていました。しかし、実際は30mだったのです。

射流の津波

 次の図はバンダ・アチェの市街図です。この図の東西、南北はおよそ10km×10kmです。青のラインが津波の限界線で、これより陸のほうには津波は入っていません。赤のラインが家屋流出限界で、海岸からここまでの家がほぼ全部、流出しました。赤と青のラインの間は、家は何とか保っているけれども浸水したということです。衛星写真や我々の実地調査の結果によると、赤の線からちょっと海へ行くと家はほとんど1軒も残っていなくて、この線から陸へ入るとほとんど残っています。この境目が極めてシャープです。まちの真ん中にまちのシンボルとなっている大モスク(回教の教会)があります。このモスクの上に上がることができました。そこから海のほうを見ると、5km先に海岸線が見えます。モスクから通り三筋ほどは家が無事で、そこから向こうが歯抜けのようになっていました。1kmくらい先から向こうは何も残っていないのです。


図(KOMPAS紙による)

 下の写真は津波の被害に遭った海岸のごく近くのようすです。1軒も家が残っていません。決して粗末な家ではなくて、けっこうりっぱな鉄筋が入ったコンクリートの家だったのです。それが跡形もなくなっています。このあたりの住民はほとんど100%亡くなりました。ところが、モスクに隣接する商店街は、海水は人間の背丈くらいまで来ているのですが、建物は何ともないように見えます。



 ある場所までは家が1軒も残っておらず、人も100%近く死んでしまっているのに、あるところから陸側は、家は全く流されておらず、ただ浸水しただけです。その限界が極めてはっきりしているのは、私はこういうことではないかと解釈しています。流れには射流と常流という区別があるということです。水の深さをD、重力加速度をgとすると、「g×D」の平方根が波の進む速さになります。津波による海の水のスピードが、これよりも遅いときは穏やかな常流、速いと凶暴な射流になります。津波が沖から海岸に近づいてくるとき、波の山のところは水の厚さDが大きいので、ちょっと速いのです。谷のところは、Dが小さいためにちょっと遅いのです。このまま進んでいくと、山が速いのでどんどん前につんのめっていって、前の谷に迫っていきます。波の前の勾配が次第に急になっていき、上から水が落ちているわけで、ちょうどナイアガラの滝のようなものができ上がります。このような津波が海岸から陸に入って来ると,自由落下した流速の大きい水によって射流が形成されます.そしてあるところで渦巻きを生じて、そこから内陸側は穏やかな常流の状態になる。さらに時がたつと後ろの波が中に入ってきて、ついには全体が厚い水の層に覆われてしまう。それで、ある場所から海側は射流を経験し、ある場所から陸側は射流を経験していないということになります。

 どうも、家が全部流された場所と、無事な場所は、この限界線が決めたのではないかという気がしているのです。これが正しいかどうかは、実験をやらなければいけないので、実験装置を使ってやや大規模な実験が行われるということです。もしこのような機構が本当ならば、今までの、陸に上がってきた津波の数値計算は、理論的にかなり見直さなければならないことになります。

巨大津波の対策はない

 スマトラ島の北の端の西側にラコンガという村があります。ほとんど何も残っていません。丘の後ろにある家だけが残って、この家の2階の床が浸水したので、海水の浸水限界の標高が12mであることが分かりました。木の痕跡などで津波の高さを測って表すと、バンダ・アチェの市街のほうは最高12.2m、西海岸のほうは25〜30mを超えています。すごい津波だったわけです。

 このように、非常に恐ろしい巨大な津波が来たら、津波対策なんて話にならないのです。例えば、日本の近くでこの津波が起きる。ここに集落がある。どうやったら助かるのか。どうやっても助からないのです。自然災害の中には、こういう恐ろしい災害がある、津波がそうなのだということが改めて分かります。例えば、10年ほど前の阪神淡路大震災のとき、神戸市の、いちばん大きな被害が出た震度7の灘区、三宮などでも100人のうちの約5人、約5%の人が亡くなっただけです。ところが津波は、100人全部が死んでしまいます。地震の災害より津波の災害のほうがよほど怖いということがよく分かります。

 インドネシアのあとタイに行きました。タイの調査は、地震が起きたのが12月26日、秋田大学の松富先生は、3日後にはすでに現地に入って調査されました。そのときはプーケットとカオラックという外国人のよく訪れる観光地の調査をされて、プーケットの保養地で5mぐらい、カオラックで10mぐらいの津波だったということが分かりました。その後、2か月ほどたって我々が入って、ミャンマーの国境まで測定したら、外国人が入らない集落でいちばん大きな被害が起きた場所はバンナムキンという場所で、10mを超えているのです。いちばん津波が高くなった場所で、20mぐらいまで来たということが分かりました。

日本の巨大地震

 次の疑問は、日本周辺で同じようなことが果たして起きるのかということです。実は、起きるのです。あるいは、起きたことがあるのです。

 右図は日本周辺のプレートのようすです。南海のトラフがあって、南側からフィリピン海のプレートが毎年4cmずつ下に潜り込んで、紀伊半島・四国の下に入っていっています。それに伴って、南海の地震、東海の地震が起きています。その起き具合ですが、昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海地震と、2年隔てて起きています。また、幕末期の安政元年(1854年)11月4日に安政の東海地震が起きて、次の5日に南海地震が起きています。宝永地震(1707年)は東海地震と南海地震が同時に起きています。さらに古くは明応地震(1498年)という、東海地震があって南海地震がないと思われていた例があります。安政東海地震というのは熊野沖と駿河湾内の二つが動いたということが、石橋説として認められています。

 こういう地震が古くから起きていたということを確かめるために、三重県の尾鷲市にある大池という池を調べました。道路がなくて人間は近寄れないのですが、この池の底の地層を採ってみると、外の海から運ばれてきた薄い砂の層が見られたのです。炭素14法によって、その中に含まれている魚やさんごの化石の死んだ年代を出してみると、今から1270年前、西暦695〜772年ころに起きた津波が1個、見つかりました。日本書紀に684年に白鳳の南海地震・東海地震があったことが書かれていますので、多分この津波だろうと思います。あとは平安時代の1件、そして鎌倉時代の1件が見つかったのです。さらに先史時代、今から1800年ぐらい前の西暦200年ころ、西暦0年前後、そしてBC500年ころにも津波があったことが見つかりました。こうしてみると、東海地震というのは、いちばん古くは2500年前のものがあったことが裏づけられました。

 東海地震・南海地震は連動して起こるというのですが、近畿地方の内陸部で起きた中小の地震を取ってみると、右図のような絵ができます。南海地震の40年ぐらい前から内陸部で地震が起き始める。そしてそのあと南海地震という親分が出てくる。10年ほどたつと最後の子分(広義の余震)が発生、そのあとは地震の全くない40〜50年という時期が来ます。安政地震のときも、南海地震が起きる30年ほど前から子分の地震が起き始めて、親分が来て、その後、平穏な時期が来る。宝永地震の40年前から子分が現れ、このあと10年ほどで最後の子分が現れて、あとは平穏な時期が来る。慶長も同じです。さらに、はるか古くは平安時代の初めの仁和の五畿七道地震(887年)でも、やはり同様です。

 そうすると、兵庫県南部地震、阪神・淡路の地震は、どうやら子分の先頭バッターだったようです。今までの法則から、子分の先頭バッターが現れて、30〜40年後、2030年ころに次の東海地震・南海地震が来るのではないかと読めます。素直に考えて、そのころ来ると考えるのが自然ではないかと私は思っています。

 実は慶長の南海地震からさかのぼること8年、慶長元年の伏見・桃山の地震というのがありました。これが子分だとすると案外でかくて、滋賀県から和歌山県まで震度6なのです。阪神・淡路大震災の面積の2倍半〜3倍半くらいあります。こういうことも起きていたのです。

 さっき東海地震・南海地震はペアで起きると言いました。ところが、1498年の明応地震では東海地震だけでした。しかし、地質学をやっていらっしゃる産業技術総合研究所の寒川旭さんが、高知県の中村に1500年ごろの液状化の跡があると言うのです。ペアがいないはずの相手に、液状化の跡が見つかりました。そうするとこれにも相手の南海地震がいたのではないかということがいわれました。

 実は南海地震の津波というのは中国・上海でも記録されています。安政も宝永も、清朝中国の記録にあります。明応の東海地震は8月25日ですが、その71日前の明応元年6月11日に、京都や奈良のお坊さんによる、「大きな強い地震があった。(ただ、被害はなかった)」という記録があります。この日、明の弘治という年号の6月11日に上海(当時嘉定県)で、「川の水があふれ、ことごとく震え、長いこと収まらなかった」と書いてあります。ということは、これは南海地震なわけです。つまり、明応地震も、それに対する南海地震があり、その津波は上海に達しているわけです。明応地震もペアがいた、しかも、この明応の地震は南海が先で71日後に東海が起きている地震だったのです。

日本の巨大地震は2000年に3回

 最後に、宝永地震がどえらいやつだったという話です。宝永地震(1707年)は東海と南海が同時に起きる複合海溝型の地震だったのです。四国と紀伊半島の津波の高さを取ると、昭和21年のいちばん高いところは紀伊半島先端の串本町で、6m近くです。高知県の須崎でもやはり5.5mぐらいです。この辺がいちばん高いです。それが安政南海地震(1854年)になると、いちばん高いのは和歌山県の由良、広川町のあたりで9mぐらい、高知県で7〜8mです。つまり、昭和21年は小さくて、安政はそれより大きいのです。ところが宝永となると巨大なのです。24.4m、15m、12m、12mといった数字です。これは東海と南海が合わせて一ぺんに起きた、どえらい南海地震だったのです。

 そうすると、こういうことになります。東海地震は、安政を標準サイズとすると大体300km、南海地震の標準サイズはおよそ400km、ずれの量が東海が6m、南海が8mとすると大体津波のようすを説明できます。これが複合して起きると、長さ700kmの宝永地震になります。長さがただ足し算で大きくなるだけではなくて、ずれの量も例えば12mというように大きくなります。したがって、二つを足したものよりさらに大きな地震になります。これがどうやら、2004年のインドネシア地震にかろうじて匹敵する地震であろうと思われます。

 そのどえらい地震は、一体、何年に1回の割合で起こるのか。それに答えてくれるのが、室戸岬の海岸段丘の隆起です。広島大学の前杢英明先生の研究によると,ふだんは室戸岬は、1年間に7mmずつ沈下しています。100年もたつと70cm沈下するわけです。ところが、宝永地震(1707年)のとき、この室戸岬は2.5mぐらい上がったことが分かっています。そうすると、1年に7mmずつ元に戻っていっても、戻りきらずに段丘が残ります。つまり、室戸岬には宝永地震の段丘が残っているのです。室戸岬には、段丘が幾つか見られます。いちばん下の段丘は今から300年くらい前にできたらしい、2番めの段丘は今から800年ぐらい前の平安時代の終わりにできたらしい、3段めの段丘は奈良時代と平安時代の間ぐらいにできたらしい、その前は2000年を越える前にできたらしい。当然のことながら、いちばん下の段丘は300年前ですから、どえらい地震である宝永地震でできたのです。ということは、ほかの段丘を作り出したのもやはり、宝永地震と同じ、どえらい地震だったことになります。100年に1回南海地震が起きるとすると、2000年のうちに20回起きて、そのうち3回がどえらい地震であり、インドネシアの地震に匹敵する大きな南海地震ということになります。

 ですから、日本列島の近くで、インドネシアのあの地震のようなことが起こるのかというと、起きる可能性、あるいは起きた可能性があるのです。トランプが20枚あって、そのうち3枚がジョーカーです。引いてみてジョーカーである確率は20分の3くらいです。次の南海地震は2030年ぐらいで、それがジョーカーかどうかは分からないということです。


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