幕末維新の第一線を駆け抜け、
総てを見た男の文書2200余通。
あらゆる維新史料中の白眉!
木戸孝允文書全8巻+別巻1
日本史籍協会編
分売不可
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下記はすべてパンフレットより抜粋
無断転載不可
維新激動の第一線を貫いた人間ドラマ
■『木戸孝允文書』全8冊は昭和4年から6年にかけて日本史籍協会が、『木戸孝允遺文集』は昭和17年に泰山房から出版された、幕末維新史研究会に不可欠の史料集として知られています。戦後、復刻版も出ましたがたちまち売り切れ、現在では入手困難となり再復刻が望まれていました。

■長州人のもつ特性として、よく言われるのが書き魔、手紙魔であること。吉田松陰も高杉晋作もたくさんの手紙を残していますが、桂小五郎こと木戸孝允にはとてもかないません。『木戸孝允文書』『木戸孝允遺文集』計9冊に収められた、木戸が書いた手紙はなんと2千2百余通にも上ります。この点において木戸は、まさに長州人の中の長州人ということになりましょう。

■むろん、驚かされるのは手紙の点数だけではありません。黒船来航から西南戦争まで、木戸孝允が幕末維新激動の第一線で活躍する中で書かれた手紙ですから、内容も重大事に関することが多く興味は尽きません。特に木戸は、手紙や日記の中に心情を記すタイプだったようですから、行間から人間ドラマが浮かび上がってきます。もちろん、ひとりの人物の軌跡のみならず、外圧による覚醒した日本が、数々の苦難を経ながら近代国家へと脱皮してゆく様が、木戸の目を通じて雄弁に語られていると言っていいでしょう。

■木戸の手紙の宛て先は、松陰・晋作・周布政之助・来島又兵衛・久坂義助・坂本龍馬・勝海舟・広沢兵助・前原一誠・伊藤博文・井上馨・大村益次郎・山田顕義・岩倉具視・大久保利通・三条実美・黒田清隆などなど、幕末維新の主役たちの名がずらりと並んでいます。目次を見るだけで、歴史好きなら胸の高鳴りを覚えずにはいられません。

■さらに驚かされるのは、これら膨大な木戸の史料を収集し、編纂した妻木忠太という山口県出身の歴史家のあくなき情熱です。平成8年に小社で復刻した『松菊木戸公伝』を編纂する課程で妻木が集めたのが『木戸孝允文書』八冊に収められた史料群。その仕事が終了した後もなお、妻木は木戸にかんする史料収集の努力を怠らず、昭和17年には補遺にあたる『木戸孝允遺文集』を出版するのです。飛行機も新幹線もコピー機もない時代、なぜこれほどまでの大仕事が可能だったのか。これは現代の研究者に妻木が送る、激励の工ールかもしれません。
『木戸孝允文書』を推薦する

国立歴史民俗博物館長 宮地正人

木戸孝允は総てを見た人であった。彼は、吉田松陰のように、国家が国家たりうるための魂とは何かを、自らの生命をかけて弟子達に自覚させえた教育者ではなかった。久坂玄瑞の如き、回瀾条議をひっさげ、長州全藩のみならず満場の公家堂上をも魅了し、かつ論破し去った雄弁家でもなかった。そして、高杉晋作のように、窮地から脱却し、局面を一気に逆転させるべく、乾坤一擲の闘いを断行し得た革命家でもなかった。

 だが木戸は、これら三親友の本質を理解し、支持し協力する、しなやかな柔軟性をもっていた。また、藩内のみならず諸藩士にも多くの親しい友人を獲得しうるだけの、豊かな人間性と深い教養を有していた。長州藩の外交家たらざるを得なくなるのは当然のことである。そして、なによりもまず、政治と政局を見通すその聡明さは群を抜いていた。禁門の変後の元治の国難において、国司、益田、福原の三将と中村道太郎等の四参謀が斬首され、藩政担当者等が次々と刑死する中で、ひとり木戸は帰国せず、出石の地に潜居しながら、長州と幕府の動向を凝視しつづけた。木戸の卓越した理性と合理主義は、無意味で残酷な処刑から彼を救った。と同時に、第二次征長の役の重圧下におかれた長州藩を救出することにもなったのである。徹底した洋式軍制改革の指導者として、敵を孤立化させ味方と共感者を増加させる全国的視野をもった政治戦略の構想者として、更に維新変革の根軸となった薩長盟約締結の長州側代表者として、木戸は縦横無尽に活躍することとなる。そして皮肉なことに、木戸が、高杉指導下の君命に抗した諸隊反乱に全く関与しなかったことが、藩の代表者となる上での藩内の心理的障碍をとりのぞくことにもなったのである。

 四境の闘いから王政復古にかけての長州藩は、日本全国の国民的輿望を一身に集める雄藩となった。木戸はその代表者だった。「皇国の大名分大条理」を踏まえ、「万国に渉り不可恥の基」を確立することが彼の焦眉の課題となった。

 しかし、王政復古から戊辰戦争・箱館戦争にかけての全国的争乱は、各地における民衆・豪農商・草莽層を政治舞台に押しあげる起爆剤となった。土着的でおのおのの地域に根ざしたさまざまな国家構想が湧出してきた。「諸隊の顔色も始終見つめられもいたし不申」との木戸の慶応三年末のつぶやきは、客観的には、この時期の統一国家形成をめぐる鋭い路線闘争の出現を指摘するものであった。東京への再幸、版籍奉還、征韓論の提起等は、政治のイニシアチブを掌握しつづけようとする合理主義政治家木戸孝允の必死の試みに外ならなかった。このコースを保障すべく、「人民従来の束縛を解き各自由の権をとらせ」ることも、その政治戦略の中に組み込まれ始める。だが現実におこったことは、大村の暗殺、脱隊騒動、そして広沢の暗殺であった。官界は「半は聾盲世界」、反対派は「我藩で申候得ば五六年前の光景、宇内の形勢」に無知なる者、「天下悪物の標準と相成り」薩土両藩と提携しての廃藩置県を断行せざるを得なくなる理由である。

 しかし、一安心もつかのま、木戸が産み出した創世期国家は、総てのものを国家の論理に飲み込み始める。歯止めの無い自己運動が始動する。「なま開化」「粉飾の開化」との木戸の激しい非難をよそに、伊藤、山県迄が大久保路線に編入されていく。木戸の絶望感は深まり、病状は悪化する。そして、「軍さ気取」の「行政上の改革」の行き着く先が、盟友西郷を擁した薩摩士族の大反乱だった。「王政たる趣旨未た毫も人心に徹し不申」と述懐した三ヶ月後、木戸は苦悩の中に病没する。

 木戸は総てを見た人であった。ぺリー来航の嘉永六年から、西南戦争の明治十年まで、直面したあらゆる時期と段階において、彼はその政治家としての卓越した能力と聡明さをもって、全力を尽して、つきつけられる課題と闘った。『木戸孝允文書』は、政治家木戸孝允の履歴を調べる上でのみ必要となるのではない。木戸が格闘せざるを得なかった幕末維新期の全課題がそこにはおのずから如実に反映されているからこそ、必読史料となるのである。『木戸孝允文書』を推薦する所以である。

幕末維新を担ったキーパーソンの史料集

北海道大学名誉教授 田中彰
歴史上の人物をめぐる基礎史料は、おおよそ三つに分けられる。
 第一は、本人の日記類である。 
 第二は、その人物が発した手紙、あるいは意見書などの文書(記録)類である。
 第三は、他の人々から本人あての書簡類で、一般に関係文書といわれる。
 つまり、「日記」と「文書」と「関係文書」ということになる。

 大久保利通の場合は、この三つとも一応公刊されているが、木戸孝允は「日記」「文書」(本復刻版)はあるが、「関係文書」はまだ刊行されていない。いずれは出されると仄聞している。
 ところで、この二人の人物像は対照的だ。大隈重信の言を借りると、木戸は正直・誠実、雄弁、奇才縦横で、歌を詠み、遊ぶことも騒ぐことも好きで、陽気だったという。大久保利通は辛抱強く、感情をおさえる。他人の言をよく聞き、決断と意志の人だったのだ。だから、寡黙、無骨無粋といわれる。
 かつて「心理学的歴史分析の試み」としてパーソナリティを分析したアルバート・クレイグ米ハーバード大学名誉教授は、この木戸と大久保が、幕末で暗殺されていたら、誰が西郷隆盛を扱いえたか、薩長の協力はどうだっただろうか、また、いわゆる征韓論分裂は果してどうなったかなど、次々に疑問を投げかけている。この三人は幕末維新のキーパーソンだったのだ。

 さて、本復刻版は、右の木戸孝允の「文書」である。『木戸孝允文書』八冊は、戦前の日本史籍協会叢書(戦後東京大学出版会から復刻刊行)の中に収められ、これまで多くの人々が明治維新史に関する必携の史料集の一つとされてきたものである。

 この叢書の中には『木戸孝允日記』も収められている。『木戸孝允遺文集』は、この『文書』や『日記』に載せられていなかった「尺牘〔手紙〕建言書自叙俗謡日記備忘録等を綜合して編纂し」たものである(引用は同書「諸言」、〔  〕は筆者の注)

 これは『文書』同様妻木忠太氏の編になる(一九四二年〈昭和十七年〉八月、泰山房刊)定価四円)。敗戦後、長いあいだ陽の当たることはなかったが、一九八二年〈昭和五十七年〉七月、続日本史籍協会叢書(第五期)の一冊として復刻された。小西四郎氏の「解説」が付され、そこには妻木氏の簡単な経歴なども書かれている。
 右の『木戸孝允文書』および『木戸孝允遺文集』が、諸般の要請に応じてこの度あらためて復刻の版を重ねることになった。 この機会に、本復刻版によって木戸孝允という幕末維新を担った人物像にふれ、いまや世界史のなかで注目されえる明治維新史への関心がいちだんと深まり、かつ広がることを願ってやまない。
桂小五郎の手紙

一坂太郎
桂小五郎と木戸孝允、言うまでもなく同一人物なのだが、日本人がそれぞれの名に抱いているイメージはずいぶん違う。桂小五郎はかつてのチャンバラ映画のヒーロー、木戸孝允は明治政府の元勲といったところか。これは桂もしくは木戸という人物が、幕末維新の長丁場を柔軟に、そして幅広く活動した証しではないかと思う。

大衆に人気があったのは、幕府という巨大な権力に立ち向かう剣の達人桂の方だ。牛原虚彦監督「維新の曲」(昭和十七年、大映)では市川右太衛門、同監督「剣風練兵舘」(昭和19年、大映)では阪東妻三郎、萩原遼監督「新選組」(昭和27年、東映)では大友柳太郎といった時代劇の大御所たちが、銀幕の中で若き日の桂を演じている。吉田松陰よりも、高杉晋作よりもはるかに、桂は長州を代表する幕末の人物として、認知された時代があったようだ。

尊王援夷運動に東奔西走した桂小五郎時代の手紙530余通は、『木戸孝允文書』全八冊のうちの最初の二冊に収められている。嘉永5年(1852)9月の江戸遊学の許可願いから、慶応三年(1867)12月の王政復古までの約15年間、時代背景も併せ考えて読むと、さらに興味つきないものがある。

桂はその若さに似合わぬほど冷静沈着、理性の人なのだが、熱誠の人でもある。手紙の中には「天下日に切迫、真に皇国未曾有の御最大時、幕府御安危之決定に一介の草葬と難累世御明徳…」「神州之為め必死尽力之外無之…」といった言葉が並ぶ。気分の高揚を押さえられぬまま、漢詩を添える場合もある。

また、新しいものにも積極的に関心を示したようで、万延元年(1860)には「私兼々ケベエール。カラベイン。根付時計墾望に御座候故、横浜に心安き同心通ず御座候。先だって此の段申し遣し候所、小判差し越し候は ゝ極内々にて拾両のものを五両にて求め差し上げ申すべく段呉々申し越し候に付、是非求め候積もり御座候」と来島又兵衛に知らせている。役者顔まけの美男子だった桂が、ハイカラな「根付時計」をさりげなく懐から取り出す仕草が目に浮かぶ。

尊王撰夷運動が激化した文久2年(1862)から3年前半にかけて、桂は京都を根城に、長州藩の顔として活躍した。まさに絶頂期で、『木戸孝允文書』第一冊にもこの間の手紙百数十通が収められており、その活発な政治活動を彷佛とさせる。「昨朝已来三条卿と学習院え度々被呼出候には随分草臥れ申候」(周布政之助あて)、「今日弾大夫上杉御旅館へ被参、余程隙取申候いかゝ之都合に有之候哉」(久坂義助あて)といった調子だ。ただし残念なのは、藩内の人物にあてた手紙が大半を占めていること。桂はこの時期、外交官として朝廷、幕府、諸藩とあらゆる方面の人物と渡り合ったはずだ。そうした藩外の人物にあてた手紙が『木戸孝允文書』には意外と収められていない。それは史料収集した時代の限界だったのかも知れない。

桂は近代的な、合理主義的な頭脳を備えていたと評される。だからつまらぬ意地を張って戦うことを嫌い、形勢不利と見るや敵に後ろを向けてでも、さっさと逃げた。元治元年(1864)7月、禁門の変で敗れた後、京都を脱出し、現在の兵庫県北部に一年近く潜伏したことはよく知られる。いわゆる「逃げの小五郎」だ。この間に世話になった広戸兄弟に書いた手紙の末尾に「おもふほどおもひがひなひうきよかな」とか、「かりそめのゆめときへたきこ・ちかな」とか歌が添えてあり、強靭な精神力の持ち主であるはずの彼もまた、行く末が見えぬ不安のどん底で、現代人のように苦悩していたことがうかがえる。

このように『木戸孝允文書』は黒船来航から西南戦争まで、ひとつの時代を政治の最前線で駆け抜けた一人の人物の生の声を通じて眺めることが出来る。七十年以上も昔の出版物ながら、日本の近代化を知る貴重な史料集として読み継がれてゆくことは間違いない。