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〈記憶をつくるもの〉

独り歩きする「脱亜論」

■中国・朝鮮への「絶交宣言」

 「脱亜論」は、明治18(1885)年3月16日付の日刊紙「時事新報」の1面に掲載された社説の題である。特別にこの日何かがあったわけではなく、当時の日刊紙の多くは、社説を1面に載せるスタイルをとっていた。

 無署名だったが、筆者は福沢諭吉。今ならば主筆兼論説主幹というところか。分量は2000字余り。別巻も加えて22巻ある「福沢諭吉全集」では、3ページが割かれているだけの短い文章だ。

 要はこんな内容である。

 ▽西洋文明は「はしか」の流行のようなもので、防ぐ方法はない。日本は文明化を受け入れ、アジアの中で新機軸を打ち出した。その主義は「脱亜」である。

 ▽日本にとって不幸なのは、近隣の中国、朝鮮という国家が近代化を拒否しており、西洋文明が迫ってくる中で昔のまま変わらず、国家の独立を維持する方法を持っていないことだ。

 ▽両国が明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ数年以内に「亡国」となり、西洋諸国に分割されてしまうだろう。

 ▽今の中国、朝鮮は日本の助けにはならない。むしろ西洋からは3カ国が地理的に近いため、日本も中国や朝鮮と同じように見られてしまう。それは「日本国の一大不幸」だ。

 ▽中国や朝鮮が西洋文明を受け入れるのを待って、一緒にアジアを振興させるという余裕はない。むしろその仲間から離れ、西洋列強と一緒に動こう。中国、朝鮮は近隣国だからといって特別扱いをする必要はない。

 そして最後の部分はこう結んでいる。「悪友を親しむ者はともに悪名を免るべからず。われは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」。悪い友達と仲良くすると悪い評判が立ってしまうから、もうサヨナラだよ、という「絶交宣言」なのである。

■当時は評判にならず

 ではこの社説、どのようにして生まれたのか。

 前年の12月、朝鮮の近代化を目指す金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)ら親日派がソウルでクーデターを決行。日本軍の支援を受けて一時は王宮を占拠し、反対派を粛清した。ところが3日目には清軍に鎮圧され、クーデターは失敗した。日本の公使館も焼失。日本人の死者も出た。

 この大事件を日本の新聞が競って報じる中、時事新報の紙面は特に熱を帯びた。福沢は金玉均らと親交を結び、活動支援のために慶応義塾の門下生を朝鮮に送り出していた。「脱亜論」は、親日派のクーデター失敗に対する失望を背景に書かれたのだ。

 しかし、掲載当時は、さほど評判にはならなかったようだ。

 時事新報の歴史に詳しい武蔵野学院大の都倉武之講師によると、同紙は当時、創刊3年で7000部余りまで部数が急増。インテリ層が対象の新聞としてはトップクラスに成長していた。朝鮮に関する報道でさらに信頼を高めたが、「脱亜論」が単独で注目された形跡はない。福沢も以後は「脱亜論」に一度も触れず、脱亜という言葉も使わなかったという。都倉さんは「時事新報社内でも引用されたことはなく、その存在は忘れられていた」とみる。

■侵略の論理で戦後に復活

 忘れられた「脱亜論」が、再発見されたのは第2次大戦後だった。

 その過程を詳しく追った静岡県立大の平山洋・助教によると、最初に引用されたのは1951年。歴史学者の遠山茂樹が書いた「日清戦争と福沢諭吉」という論文だったという。

 福沢諭吉の外交論が見直される中で、中国・朝鮮への強硬姿勢を示す「脱亜論」が研究の対象になり、それにつれ知名度が上がった。1983年には山川出版社の高校日本史教科書にも取り上げられた。

 中国や韓国でも、「脱亜論」はじわりと広がる。ソウル大国際問題研究所の姜相圭(カン・サンギュ)研究員によると、韓国で研究論文への「脱亜論」の引用例が見られるようになったのは1970年以降だという。80年代に日本の歴史教科書問題が起きると「脱亜論」は日本の侵略の論理として改めてクローズアップされた。現在は高校世界史教科書にも引用されている。中国でも2003年、江蘇省などで大学入試の問題に用いられている。

 日本語のネット空間でも「脱亜論」という言葉は飛び交っている。靖国参拝などがきっかけで起きた近隣外交でのあつれきをめぐって、あるいは東アジア共同体づくりをめぐる論争の中で、中国や韓国への強硬姿勢を求める意見の中で挙げられているケースが目につく。

 都倉さんは「脱亜という言葉が福沢から離れて独り歩きしている。アジアとの関係で、自分の考えを権威づけたり、補強したりするときに都合良く使われてしまっている」と話す。

(吉沢龍彦)

キーワード:福沢諭吉
 沢諭吉(1835〜1901年) 近代日本を代表する啓蒙(けいもう)思想家。中津藩の下級武士の家に生まれ、緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。江戸に出て英語を学び、1860年に咸臨丸で渡米。幕府遣欧使節や遣米使節にも随行した。もともと藩の命令で開いた塾を68年に慶応義塾と改め、これが現在の慶応大となった。
 政府の要職につくことはなく、言論・教育界で活躍した。「西洋事情」をはじめ多くの著作を出し、「天は人の上に人を造らず」と書き出した「学問のすゝめ」は明治時代初めの大ベストセラーになった。82年には日刊紙、時事新報を創刊した。同紙は福沢の死後も1936年まで存続。第2次大戦後も一時復刊した。

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