ムツェンスク郡のマクベス夫人

LEDI MAKBET MCENSKOVO UEZDA

レスコーフ Nikolai Semyonovich Leskov

神西清訳




毒くわば皿
  ――ことわざ――
[#改ページ]

      ※(ローマ数字1、1-13-21)

 ひょっくり出会ったその時から、たとえ長の年つきが流れたにしても、思いだすたんびに鳩尾みぞおちのへんがドキリとせずにはいられないような――そんな人物に、われわれの地方では時たまお目にかかることがある。商人の妻女のカテリーナ・リヴォーヴナ・イズマイロヴァも、まさしくそうした人物の一人だ。これは、いつぞや怖るべき惨劇をもちあげて、それからこっち土地の貴族連中から、誰やらの減らず口をそのままに、ムツェンスク郡のマクベス夫人と呼びならわされている女である。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、いわゆる美人じゃなかったけれど、見た目の感じのじつにいい女だった。まだ二十四の誕生日には手のとどかぬ年頃で、小柄ながらもすらりと伸びのいい、まるできれいに磨きあげた大理石のような頸すじをした、肩つきのむっちりとまあるい、胸のふくらみのきりりとしまった、薄手の鼻すじのよくとおった、黒い眼のくりくりした、抜け出るように色白な秀でたひたいつきをした、おまけにもう一つ、漆黒の――いやそれこそみどりの黒髪とでも言いたいような髪の毛をした、――ざっとまあそうした女である。
 クールスク県のトゥスカリという所から、この土地の商人イズマイロフのところへ貰われて来たのだったが、べつにこの男に惚れたわけでも、何かほかに見どころがあったわけでもなかった。ただイズマイロフが貰いたいと言うから、嫁に来たまでのことで、なにぶん貧乏人の娘であってみれば、婿がねの選り好みをするわけにも行かなかったのである。イズマイロフの店といえば、われわれの町でもまずちゅうどころで、極上のメリケン粉を商ない、郡部にある大きな製粉所を一つ賃貸しにしてその手に握り、なおその上に郊外にはなかなか実入りのいい果物ばたけもある、市内には立派な貸家の一つもある、といった身上しんしょだった。商家としてはまずもって裕福な方である。おまけに家族が至って小人数で。舅のボリース・チモフェーイチ・イズマイロフはもう八十ちかい老人、だいぶ前からやもめになっている。息子のジノーヴィー・ボリースィチは、つまりカテリーナ・リヴォーヴナの亭主で、これまた五十を越した年配。それに当のカテリーナ・リヴォーヴナと、たったこの三人だけである。ジノーヴィー・ボリースィチに嫁いでそろそろ五年になるが、カテリーナ・リヴォーヴナには子供がなかった。ジノーヴィー・ボリースィチも、はじめの細君と二十年ほど連れ添ったあげくに、やもめになってカテリーナ・リヴォーヴナを迎えた次第だったが、やっぱり子供がなかった。せめて後添いからでも、屋号と資本の跡をとる子を授かれることだろうと、彼は考えもし期待もしたのだったが、カテリーナ・リヴォーヴナとのあいだにもやはり、子宝は授からなかったのである。
 子供のないということが、ジノーヴィー・ボリースィチには一方ならぬ悩みの種だった。いや、ジノーヴィー・ボリースィチだけではない。ボリース・チモフェーイチ老人にしても、いや当のカテリーナ・リヴォーヴナに至るまでが、口惜しくて口惜しくてならなかったのである。まず第一には、高い塀をめぐらし、鎖をはなした番犬どもに守られたこの用心堅固な商人の居城に、明け暮れ日をおくる侘びしさが、ふさぎの虫をこの商人の若妻の胸にうえつけたばかりか、時にはそれが狂乱の一歩手前にまでこうじることも、一度や二度ではなかったのだ。そんな時、ああ赤ん坊がほしい、ねんねこ唄をうたってやる赤ん坊がほしい――と思いつめる彼女の胸のなかは、神様だってご存じあるまいというものである。それにまたもう一つ、『なんだってわたしは、なんだってわたしは嫁になんぞ来たんだろう。生まずのくせに、なんだって臆面もなく、男一匹の運勢の邪魔だてをしに来たんだろう!』という、われとわが身を咎める内心の声が、二六時ちゅう耳について離れず、ほとほとうんざりしてしまったのだ。さながらその声は、良人にたいしても舅にたいしても、いやそればかりか彼らの曇りない商家の血統にたいしてまで、彼女が何か犯罪をおかしたのだぞと、責めたてているようにひびいた。
 何不足ない裕福の身の上だったとはいえ、舅の家におけるカテリーナ・リヴォーヴナの明け暮れは、世にも辛気くさいものであった。よそへお客に行くことも滅多になかったし、よしんば時たま商人仲間のつきあいで良人と連れだって馬車に乗って出かけるにしても、嬉しい気持は一切しなかった。世間の目は相変らずきびしく、彼女が椅子にかける物ごしから、部屋へ通る歩きつき、椅子を立つ身ぶりに至るまで、一挙一動細大もらさず見張っている。ところがカテリーナ・リヴォーヴナは、あいにく気性のはげしい女だった。おまけに、娘時代を貧乏のうちに送った彼女は、何ごともざっくばらんにぱっぱとやってのける癖がついていた。言われれば二つ返事で、すぐさまバケツ両手に川へ駈けだす。シュミーズ一枚のあられもない姿で、堤のかげで水浴びもする。木戸ごしにヒマワリのからを、通りすがりの若い衆めがけてぶつけもする。そんな育ちの彼女にとって、ここは全く別世界だった。舅と良人は朝はやく床をはなれて、六時にはお茶をたらふく飲んで、すぐさま仕事へ出かけてしまう。のこる彼女は日がな一日ぽつねんとして、部屋から部屋へうろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って一人ですごす。どこを見ても小ざっぱりと清潔だ。どこもかしこもシンとして人っ子ひとりいはしない。みあかしは聖像の前でちらちらと燃え、家じゅうどこにも、生きものの気配ひとつ、人間の声ひとつしない。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、人っ気のない部屋から部屋へ、さんざ歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったあげく、退屈のあまりあくびが出て、やがて梯子段をのぼって夫婦の寝間へあがって行く。天井の高い、狭い中二階に、ベッドが二つ並べてあるのだ。そこでも暫く腰をおろして、穀倉の前で雇い人たちが麻の目方をかけたり、メリケン粉を袋へ入れたりしている有様を、眺めるともなく眺めているうち、――またしてもあくびの出るのが、彼女には却って嬉しかった。これ幸いとものの小一時間ほど、うとうとと昼寝をして、さて目がさめれば――またしても相も変らぬ退屈さだ。例のロシヤの味気なさ、商家の昼の辛気くささで、いっそ首でもくくった方がましだと、下世話にもいうあれである。カテリーナ・イヴォーヴナは読書の趣味がなかったし、それにだいいち本というしろものが、キーエフ聖者伝一冊のほかには、家じゅうどこを捜したって見つからない始末なのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナが、裕福な舅の家で、不愛想な良人につれそって、五年という年つきを送った明け暮れは、ざっと以上のようなわびしいものだった。かといって誰一人、そうした彼女のわびしさに、些かたりとも注意を向ける者のなかったことも、これまた浮世のならいにはちがいなかった。

      ※(ローマ数字2、1-13-22)

 カテリーナ・リヴォーヴナが嫁に来て六度目の春のこと、イズマイロフ家の持っている製粉所の堤が決潰した。折も折、まるでわざと狙ったように、製粉所は仕事で満腹のていだったし、おまけに決潰の個所が案外に大きくて、修理もなかなかはかが行かなかった。水かさは、空っぽになった放水溝の土台をさえ下※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る始末で、その水かさを手っとり早く上げようと色々苦心はしてみたが、いつかな成功しなかった。ジノーヴィー・ボリースィチは近隣の在所の人手をのこらず製粉所へ駆りだして、自分も夜ひるわかたず現場に附きっきりだった。町の方の仕事はすっかり老人ひとりで切り盛りすることになって、カテリーナ・リヴォーヴナは来る日も来る日も日がな一日、独りぼっちの味気なさをかこつことになった。はじめのうち彼女には、良人のいないのがいささか手持ぶさたに思われたけど、やがて結句その方がましなような気がしてきた。ひとりの方が気楽になったのである。もともと大して恋しいほどの相手ではなし、おまけに良人が留守なら留守で、とにかく御目付け役が一人がた減ろうというものである。
 ある日カテリーナ・リヴォーヴナは、例の屋根裏の小窓のそばに陣どって、これといって物を考えるでもなく、さかんにあくびを連発していたが、やがての果てにあくびをするのが吾ながら恥ずかしくなった。おもてはなんとも言えぬ上天気だった。ぽかぽかして、明るくって、陽気で、――庭の緑いろに塗った柵のすきからは、小鳥が嬉々として枝から枝へ樹から樹へ、とび移っているすがたが見てとられた。
『ほんとに、なんだってまあこう、あくびばかし出るんだろうねえ?』と、カテリーナ・リヴォーヴナは考えた。――『ええ、いっそ思いきっておみこしを上げて、中庭をひと歩きしてみるか、それとも庭の方へでも行ってみるとしよう。』
 そこでカテリーナ・リヴォーヴナは、花模様のついた緞子の古外套をひっかけると、おもてへ出ていった。
 そとはさんさんと明るい日ざしで、深ぶかと胸いっぱい息がつけた。穀倉の前の差掛さしかけのところで、いかにも面白そうな笑い声がしている。
「何がそんなに面白いのさ?」とカテリーナ・リヴォーヴナは、舅の使っている番頭衆に問いかけた。
「なにしろお内儀かみさん、ぴんぴん生きた牝豚の目方をはかろうって言うんでございますよ、はい、エカテリーナ・イリヴォーヴナ」(訳者註。リヴォーヴナの頭にイを添えたのは一種馬鹿丁寧な下品な呼び方)と、年寄りの番頭がいんぎんに答えた。
「牝豚って、一体なんのことなの?」
「つまりこうでさあ、アクシーニヤという牝豚のことなんでさ。やっこさん、めでたく息子のヴァシーリイを産み落としたのはいいが、おいらを洗礼祝いにんでくれなかったんでねえ」と、悪びれぬ陽気な調子で、一人の若い衆が説明した。それは鼻っ柱のつよそうな、きれいな顔をした男で、漆のように黒ぐろとした渦まき髪と、やっと生えかけたちょび髯が、その顔をふちどっている。
 するとその時、秤杆はかりざおへ吊るさげたメリケン樽のなかから、おさんどんのアクシーニヤの血色のいいハチきれそうな豚づらが、ぬうっとのぞいた。
「ええ、忌々しいよ、のっぺり面の極道者めらが!」と、おさんどんは口汚なく罵りながら、なんとか鉄のさおにとっつかまって、ぐらぐらする樽から脱け出そうと懸命だった。
「夕飯前でも結構三十五貫と出たぜ。これで大籠いっぱい乾草を平らげようもんなら、分銅の方が追っつかねえや!」と、またもや美男の若い衆が口上を述べて、樽をぐいとかしげざま、片隅に積んであったかますのうえへ、おさんどんをどさりと抛りだした。
 おさんどんは冗談はんぶん悪口雑言をならべながら、みだれた髪や衣裳をつくろいはじめた。
「ねえちょいと、わたしはどのくらい掛かるかしら?」とカテリーナ・リヴォーヴナは茶目気をだして、縄につかまると、ひょいと台の上へとび乗った。
「十四貫八百」とおなじ美男の若い衆セルゲイは、分銅を皿へ投げこんで、そう報告すると、――「へ、呆れたもんだ!」
「何をお前さん呆れたんだい?」
「だって、おかみさんが十五貫もあるなんてさ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ。あっしは、こう思うんですがね、――よしんばまる一んち、おかみさんを両手でっこしていろって言われたところで、どだいもう苦になるどころか、ただもうぞくぞく嬉しいばかりだろうってね。」
「ひどいよ、まるでわたしが人間じゃないみたいにさ、ええ? そのくせ、いざっこしてみたところが、やっぱしへとへとになったってね」と、絶えて久しくそんな軽口を耳にせずにいたカテリーナ・リヴォーヴナは、ぽっと耳の根を紅らめながらひとまずそうやり返したが、と同時にむらむらっと、思いっきり陽気な無駄口をたたいてみたい、冗談口の限りをつくしてみたいと、そんな慾望が湧いたのである。
「とんでもねえ! この世の極楽だというアラビヤくんだりまでだって、立派に抱いて行ってお目にかけまさあ」とセルゲイは、こっちも負けず言い返した。
「お前さんの考えは、なあ若えの、どうやらまっとうじゃねえぜ」と、粉を袋へ移していた小百姓が言った、――「おいらにさ、なんの目方がかかるもんかね? 目方のかかるのは、第一おいらの肉体からだかよ? おいらのからだはな、なあ若えの、秤にかけりゃ一匁だって掛かることじゃねえ。腕っぷしだよ、目方がかかるなあ、俺らの腕っぷしだよ――からだなんぞじゃねえ!」
「そう言や、わたしも娘のころは、これでもとても腕っぷしが強かったものよ」と、またしても自分を制しきれなくなったカテリーナ・リヴォーヴナが言った。――「男にだってめったに負けなかったほどだわ。」
「へえ、そういうことなら一つ、お手をちょいと拝借と行きやしょうかね」と、美男の若い衆が言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナはちょっとたじろいだが、とどのつまり手を差しだした。
「だめよ、指環をとらなくちゃ、痛いじゃないの!」と、セルゲイが力まかせに彼女の手を握りしめたとき、カテリーナ・リヴォーヴナは悲鳴をあげて、あいている方の手で男の胸へお突きを喰らわせた。
 若者はお内儀の手をはなすと、お突きを喰らったはずみで、たじたじと二あしほど横っ飛びにすっ飛んだ。
「そら見たことかい、それでやっとお前さんにも、女の底力がわかったというもんさ!」と、例の小百姓が頓狂なをあげた。
「いんや、なかなかそうでねえ。今度はひとつ、組打ちと行きやしょう」とセルゲイは、渦まき髪をさっと後ろへさばきながら、真向からいどみかかった。
「いいともさ、さあかかっておいでな」と、つい面白くなったカテリーナ・リヴォーヴナは答えて、両の肘をもちあげた。
 セルゲイは若いお内儀に組みつくと、相手のむっちりと盛りあがった胸を、じぶんの赤いルバーシカへ押しつけた。カテリーナ・リヴォーヴナは、わずかに両肩を一揺りゆすり上げようとしたばかりで、セルゲイにまんまとゆかから釣りあげられ、暫くはそのまま両手でぎゅっと抱きしめられたあげく、引っくり返しの枡の上にふわりとおろされた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、得意の腕っぷしを使おうにも、そのひまが結局なかったのだ。赤いどころか、それこそまっ赤になった彼女は、そのまま枡に腰かけて、肩からずれ落ちた外套を引きつくろうと、そっと穀倉から出ていった。いっぽうセルゲイは、威勢のいい咳払いを一つして、こう呼ばわったのである。――
「やいみんな、この間抜野郎め! ぽかんとしてずに、さっさと粉を入れるんだ、うっかり量り込まずにな。塵もつもれば山となる、って言わあ。」
 今しがたの事なんか、けろりと忘れたような顔だった。
「あれで中々の女たらしなんでございますよ、あのセリョーシカのやつ!」と、よちよちカテリーナ・リヴォーヴナの後ろからついて行きながら、おさんどんのアクシーニヤは説明するのだった。「あの騙児かたりめ、上背うわぜいといい、おめんといい、男っぷりといい、――ちょいと水際だっておりますからねえ。この女と見当をつけるが早いか、あの極道者、あっという間にもう蕩しこんで、ものにして、果ては身をあやまらせてしまうんですよ。おまけにもう、根が大の浮気もんでしてね、移り気も移り気、――昨日は東、今日は西って調子なんでございますよ!」
「でどうなの、アクシーニヤ……あの……」と、彼女の前に立って歩きながら、若いおかみさんが言った、――「お前さんの子は生きてるかい?」
「生きとりますよ、おかみさん、生きとりますよ――どうして中々! 憎まれっ子、世にはばかるって、この事でございますよ。」
「いったい誰の胤なのさ?」
「いえなに! つまりまあ、ててなし児でございますよ――こうして大勢の男衆にまじっていますもんで――父なし児でございますよ。」
「うちへ来てから長いのかい、あの若い衆?」
「誰でございます? あのセルゲイのことでございますか?」
「そう。」
「おっつけ一月になりましょう。それまでは、コンチョーノフさんの店におりましたが、旦那に追んだされたんでございますよ」――と、そこでアクシーニヤは声をおとして、こう言い添えた、――「世間の噂じゃ、なんでも当のおかみさんと、出来あっていたとやら申しますよ。……いやはやもう、とんだ極道もんでございますよ、大それた奴でございますよ。」

      ※(ローマ数字3、1-13-23)

 なまぬるい、牛乳のような薄ら明りが、町の上にかかっていた。ジノーヴィー・ボリースィチは、まだ堤防工事から帰ってこなかった。舅のボリース・チモフェーイチも留守だった。古い友達のところへ、名の日の祝いに招ばれていって、夜食は待たずに済ましてくれと言い残したのである。カテリーナ・リヴォーヴナは退屈まぎれに、早目に夕飯をすますと、例の屋根裏の小窓を押しひらき、窓の柱によりかかったまま、ヒマワリの種子を噛んでいた。店の者たちは台所で夜食をすますと、寝場所をもとめて中庭を思い思いに散っていった。車小屋の軒さきを借りる者もある、穀倉をめざす者もある、香ばしい乾草置場へよじ登っていく者もある。一ばん後から台所を出てきたのはセルゲイだった。彼はしばらく中庭をぶらついてから、番犬の鎖を順ぐりに解いてやり、ややしばし口笛を吹いていたが、やがてカテリーナ・リヴォーヴナの窓の下にさしかかると、ひょいと彼女の方をふり仰いで、丁寧におじぎをした。
「今晩は」と、小声でカテリーナ・リヴォーヴナは、屋根裏から声をかけたが、それなり中庭は、まるで無人境のようにひっそりしてしまった。
「奥さん!」――ものの二ふんもしたかと思うとき、掛金かけがねのかかったカテリーナ・リヴォーヴナの部屋の戸の向うで、誰やら言った者がある。
「だれ?」――思わずぎょっとして、カテリーナ・リヴォーヴナはきいた。
「いや、怪しいもんじゃありません。わっしです、セルゲイです」と、番頭が答えた。
「何か用なの、セルゲイ?」
「ちょいとお耳を拝借したいことがあるんです、カテリーナ・リヴォーヴナ。なあに、ほんのつまらない事なんですが、ちょいとそのお願いの筋があるもんでして。ほんの一分ほど、お目通りをねがえませんか。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは掛金をはずして、セルゲイを入れてやった。
「なんなのさ?」と彼女はきいて、そのまま小窓の方へ離れていった。
「じつはその、カテリーナ・イリヴォーヴナ、お願いというのは、何かちょいと読むような本が、お手もとにないでしょうか。退屈で淋しくって、まったくやりきれないんで。」
「わたしんとこにゃ、セルゲイ、あいにく本なんか一冊もないよ。わたしが第一、読まないもんでね」と、カテリーナ・リヴォーヴナは答えた。
「じっさい淋しいんでねえ」と、セルゲイは訴えるように言う。
「何がそう淋しいんだい!」
「まあ察しておくんなさい、どうして淋しがらずにいられましょう。ご覧のとおり若い身ぞらでさ、しかもここの暮らしと来た日にゃ、どっか修道院か何かにぶち込まれたも同然じゃありませんか。おまけに身の行く先でわかっていることといったら、いずれお墓の下で横になるその日まで、どうやらこうして話相手もない境涯のままで、一生を棒にふることになるらしい――ということだけですしねえ。時にや自棄っぱちにもなりますよ。」
「どうして嫁さんを貰わないのさ?」
「嫁をもらうなんて、奥さん、そう易々と言えるこってすかね? 一たい誰が嫁に来てくれるというんです? あっしはご覧のとおりの小者です。まさか旦那のお嬢さんが来てくれるはずもなし、そうかといって、何せ金がないもんであっしども仲間と来た日にゃみんな、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、奥さんも先刻ご存じのとおり、無教育ものばかりでさあ。そうした家の娘っ子に、ほんとの愛というものを弁えろと言ったところで、どだい無理というもんじゃありませんか! どうです奥さん、これであの連中とお金持との間には、どれほど物の考えように隔たりがあるかということが、お分りでしょうな。早い話が現にあなただっても、こう申しちゃなんですが、じぶんの気持を分ってくれる人間であってくれさえすりゃ、たとえそれがどこのどいつであろうとも、ただもうその男一人に身も心もささげて、明け暮れ慰めもし励ましもしてやろうものをと、そんな気持でいらっしゃるに違いないんだ。ところがどうです、実際はこうしてこの家で、籠の鳥みたいに囲われてらっしゃるじゃありませんか。」
「そう、あたしだって淋しいわ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは思わず口をすべらした。
「まったくこんな暮らしじゃ、奥さん、淋しがるなって言われたって淋しがらずにゃいられませんよ! これじゃたとい、よく世間の奥さんがたがなさるように、よしんばほかに誰かいい人があったにしたところで、一目逢うことだって出来やしませんものねえ。」
「え、なんだって?……そんなことじゃないわ。あたしの言うのはね、ただこれでややさんが出来さえすりゃ、それだけでもう気が晴ればれするだろうと思うのさ。」
「ですけどね奥さん、こいだけは申し上げときますがね、赤ちゃんが出来るにしたって、ただのほほんとしてたって駄目なんで、やっぱし何か種がなくちゃ始まりません。ねえ奥さん、こうしてもう長の年つき旦那がたのとこで暮らして、商家のお内儀ないぎというものの明け暮れがどんなものかということも、さんざん見あきるくらい見てきていながら、それでもやっぱしお互い何か胸に思いあたることはないもんでしょうかね? こんな唄がありましたっけ――『心の友がないままに、ふさぎの虫にとり憑かれ』ってね。ところで奥さん、このふさぎの虫っていう奴が、こう申しちゃなんですが、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、じつはほかならぬこのあっしの胸にしたたかこたえましてね、いっそもうあっしは、匕首でもってぐさりとこの胸からそいつを切りとって、ひと思いにあんたのそのおみ足へ、叩きつけてやりたいと思うほどなんです。そうしたらもうその途端に、百層倍もこの胸のなかが軽くなることでしょうにねえ……」
 セルゲイの声はわななきはじめた。
「何さ、そのお前さんの胸のなかだの何だのっていうのは一体? あたしにゃそんなこと、面白くも痒くもありゃしないよ。もういいから、さっさとあっちへおいでな……」
「いいえ、お願いです、奥さん」とセルゲイは総身をわなわなと震わせながら、カテリーナ・リヴォーヴナの方へ一あし踏み出しながら言った。――「あっしは知っています、この眼で見ています、いやそれどころか、はっきりこの胸に感じもし、しみじみお察しもしているんです――あんたの境涯も、あっしに劣らず辛いものだということをね。ね、いいですか、今こそ」と彼は、全くかすれきったせいせい声で、――「今こそ、成るも成らぬも、万事あんたの手の振りよう一つなんですぜ、あんたの首の振りよう一つなんですぜ。」
「何を言いだすんだい? なにをさ? 一たい何しに来たというの? あたし、窓から身を投げるわよ」――とカテリーナ・リヴォーヴナは、名状すべからざる恐怖の、むかつくような厭らしい魔力が、ぐいぐい上からしかかってくるのを感じながら、そう言い放つと、さっと窓かまちに片手をかけた。
「おっとどっこい、お前さんのその命はな、おいらにとっちゃ掛替えのねえ代物なんだぜ! なんで身投げなんかするんだい?」と、馴れ馴れしい口調でセルゲイはささやくと、若いお内儀を窓から引っぱなして、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「あっ! あっ! 放して」と、小声でカテリーナ・リヴォーヴナはうめくのだったが、雨とふるセルゲイの燃えるような接吻のもとにだんだん気力が失せて、われにもあらず男のがっしりしたからだに、ひしと身を寄せかけるのだった。
 セルゲイはおかみさんを、まるで赤ん坊のように軽々と両手でもちあげると、小暗い片隅へはいこんでいった。
 部屋には沈黙がおとずれた。わずかにそれをみだすものといったら、カテリーナ・リヴォーヴナの寝台の枕もとに掛けてある良人の懐中時計が、律儀に秒をきざむ音だけだった。だがこれも、べつだん邪魔にはならなかった。
「もう帰りな」と、半時間ほどしてからカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイの顔は見ずに、小鏡の前で自分の髪のみだれを直しながら言った。
「へえ、なんだっていんまじぶん、こっから出ていけるもんかね」と、さも色男然とした声で、セルゲイが言い返した。
「舅さんが戸をすっかり閉めちまうわよ。」
「いやどうもお前さん、可愛らしいことを言うもんだね! 一たいその年まで、どこのお大名とばかりつきあって、女のところへ通う道はただもう戸口しきゃないなんていう、お上品なものの考え方をするんだい? おいらなんざ、お前さんとこへ来るにしろ帰るにしろ、どこにだって戸口はあらあな」――と若者は答えて、差掛を支えている柱の列を、ずうっと一わたり指さしてみせた。

      ※(ローマ数字4、1-13-24)

 ジノーヴィー・ボリースィチは、それからまだ一週間ほど家をあけていたので、そのあいだじゅうお内儀かみさんは、夜ごと宵ごと、すっかり明けはなれる時刻まで、セルゲイと乳くりあっていた。
 その夜ごとに、ジノーヴィー・ボリースィチの寝間では、舅さんの穴倉からこっそり持ちだした酒も飲み放題なら、舌のとろけそうな甘いものも食べ放題、おかみさんのまるでお砂糖みたいな口にはキスし放題、ふかふかした枕のうえには渦をまくみどりの黒髪がみだれ放題、という体たらくだった。だがしかし、道はかならずしも常に坦々たる街道ばかりとは限らない。川どめもあれば崖くずれもある。
 ある夜ボリース・チモフェーイチは寝そびれてしまった。そこで老人は、まだら染めの更紗のルバーシカ姿で、森閑とした家のなかを、あてもなくうろついた。窓へ寄って外をながめる。また次の窓へ寄ってみる。そのうち、ふと見ると、嫁女の部屋の窓の下を柱づたいに、こっそりあたりを憚りながら、若い衆セルゲイの赤シャツがおりてくる。さてこそ珍事! ボリース・チモフェーイチはおもてへ躍りだしざま、若い衆の両足をしっかと捉まえた。相手はくるりと振りむいて、力まかせ横びんたを喰らわそうと身がまえたが、荒だてては事面倒と思いかえした。
「きりきり白状するんだ」と、ボリース・チモフェーイチは言った、「てめえ、どこへ行ってきくさった、ここな大ぬすっとめが?」
「どこさ行ってきようが来まいが」と、セルゲイはいけしゃあしゃあと、「旦那、あっしはもうそこにいやしませんや、ねえボリース・チモフェーイチ」と切って返す。
「嫁女のところに泊りおったのか?」
「さあねえ、旦那。泊った場所なら、それもあっしは確かに知っちゃおりますがね。ところで、これは念のため申しあげときますがね、ボリース・チモフェーイチ、いいですかい、――一たん引っくら返った水は、元へ戻りゃしませんとさ。まあ一つ、先祖代々のノレンに疵のつかないように、せいぜい御用心を願いやすぜ。さてそこで、あっしをどうなさるおつもりかね? どうしたらおなかの虫が収まるんですかい?」
「ええ、この毒へびめが、鞭を五百も喰らわせてやろうわい」とボリース・チモフェーイチ。
「こっちの越度おちどだ――どうなりと存分に願いやしょう」と、若者はあっさり折れて出て、「さあ、どこへなりとお伴しますぜ。そして好きなだけ、あっしの血をすすりなさるがいいさ。」
 ボリース・チモフェーイチは、セルゲイを自分の小さな石倉へ引っぱっていって、革むちでもって、自分がへとへとになるまで打ちすえた。セルゲイは呻きごえ一つ立てなかったが、その代り自分のルバーシカの片袖を半分ほど、歯でぼろぼろに咬みしだいてしまった。
 ずく鉄みたいにまっ赤に腫れあがった背中が、なんとか元どおりに直るまでのあいだ、ボリース・チモフェーイチはセルゲイに石倉に放ったらかしておいた。素焼きの壺に水をちょっぴり入れて当てがい、大きな錠前をがちゃりとおろすと、すぐさま息子を迎えに人を出した。
 ところが昔ながらのわがロシヤの国では、村道づたいに二十五里も馬車を走らせるとなると、きょうだってそう手っとり早くはいかない。でカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイなしでは最早これ以上一刻のがまんもならないところまで来てしまった。彼女のうちなる女性は、一たん目ざめたとなると忽ち一人前に伸び育ってしまい、身も世もあらぬその思いつめようは、いくらわが身のこととはいえ、とうてい宥めもすかしもできる段ではなかったのだ。彼女はセルゲイの居場所を嗅ぎつけると、鉄の扉ごしに男とことばをかわし、すぐその足で鍵をさがしにかかった。それもいきなり、『おとっつぁん、セルゲイをゆるしてやって』と、舅にぶつかって行ったものである。
 聞くなり老人は、唇までまっ蒼になってしまった。よしんば道ならぬことを今度しでかしたとはいえ、それまで永の月日を従順な嫁女であった女が、よもやそんなあられもない鉄面皮さを発揮しようとは、思いもよらないことだったのだ。
「よくもいけ図々しく、そんなことが言えたもんだな」と、彼はカテリーナ・リヴォーヴナを面罵しはじめた。
「ゆるしてやって」と、こちらはいつかなひるまずに、「良心にかけて、これだけは誓います、――わたしたちの間には、うしろ暗いことはまだこれっぽっちもなかったんです。」
「うしろ暗いことは」と老人、「なかっただと!――そういう舌のさきから、ぎりぎり歯がみをしよるわい。――じゃあ一つお尋ね申すが、いったいお前たちは毎晩毎晩、あそこで何をしていたというんだ? 亭主の枕の詰物を、打ち直しでもしてやってたのかい?」
 だがこっちは、ゆるしてやって、ゆるしてやって、の一点ばりだった。
「よおし、そういうことなら」と、ボリース・チモフェーイチは言った、――「こうしようじゃないか。おっつけ亭主が帰って来ようが、その上でわしら二人の四本の手でもって、お前さんという天晴れ貞女を、馬小屋で思いっきり叩きすえさせて貰おうじゃないか。一方あっちのやくざ野郎は、あすにも早速、牢へ送りつけるとしようて。」
 そうボリース・チモフェーイチは、一応ほぞを固めたのだったが、ただその決心は、残念ながら向うからはずれた。

      ※(ローマ数字5、1-13-25)

 ボリース・チモフェーイチは夜の床に就くまえの腹ふさげに、松露をオートミールにあしらってすこし食べたが、ほどなく胸やけがして来た。と思うと急に、みぞおちのへんに差しこみが来て、はげしい吐瀉がそれにつづき、明けがた近く死んでしまった。老人の穀倉にはかねがね鼠が出るので、カテリーナ・リヴォーヴナは或る危険な白い粉末の保管をゆだねられていて、手ずから特別の御馳走をこしらえる役目だったが、まさにその鼠と寸分たがわず、ころりと老人は死んでしまったのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、大事なセルゲイを老人の石倉からたすけ出すと、まんまと人目にかからずに亭主のベッドに寝かせつけ、舅のふるった鞭の傷手を、ゆるゆる静養させることになった。いっぽう舅のボリース・チモフェーイチは、鵜の毛ほどの疑念すら生むことなしに、キリスト教の掟にしたがって埋葬された。いかにも不思議なことだが、ふっと煙のきざしを嗅いだ人さえ、誰一人なかったのである。ボリース・チモフェーイチは死んだ、まさしく松露を食って死んだ、松露にあたって死ぬ人は世間にゃざらにある――というわけだ。おまけにボリース・チモフェーイチの埋葬は、息子の帰宅さえも待たずに、さっさと執行されてしまった。というのは、何しろ暑気のはげしい時候だったし、息子のジノーヴィー・ボリースィチは、使いの者が行ってみると製粉所にはいなかった。なんでも、もう二十五里ほど先へいった土地に、格安な森の売物が出たのを聞きつけたとかで、その検分に出かけたとまでは分っていたが、誰にも行先を言いのこして置かなかったのである。
 そんなふうに埋葬の片をつけてしまうと、カテリーナ・リヴォーヴナは、まるでもう見違えるような気性の烈しい女になってしまった。それまでだって、ただの内気な女ではなかったのだが、今度という今度はもう、一たい何をやりだす気なのやら、はたの者にはてんから見当もつかぬ始末だった。まるでカルタの切札みたいにのさばり返って、店のことから内証向きのことまで万事ばんたん采配をふるう一方では、セルゲイは相かわらず一刻もおそばから離さない。雇い人たちもさすがに、これはおかしいぞとそろそろ感づきはじめたが、その都度カテリーナ・リヴォーヴナからたんまり目つぶしの料をくらわされて、たちまち疑念も何もかき消えてしまうのだった。――『いや読めたわい』と、雇い人たちは推量したものである、『恋の闇路にふみ迷い、てなところだな。おかみさん、セルゲイとてっきりアレなんだが、まあそいだけのことさ。――なにもこちとらの知ったことじゃなし、因果はやがて、おかみさんの身に報いようというものさ。』
 そうこうするうちにセルゲイは全快して、しゃっきりしゃんと立ち直り、また元どおりの水も滴たらんばかりの若い衆ぶり――いや、いっそ手飼いの鷹とでもいいたいほどの英姿を、カテリーナ・リヴォーヴナの身辺にあらわしはじめて、またもや二人のあいだには愛慾ざんまいの日ごと夜ごとが再開したのだった。とはいえ、時はなにもこの二人のためにばかり、めぐっていたのではない。長らく家を留守にしていたまに、顔に泥をぬられた良人ジノーヴィー・ボリースィチも、このとき帰宅の道をいそいでいたのである。

      ※(ローマ数字6、1-13-26)

 ひる飯のすんだあとは、焼けつくような炎暑だった。おまけに、すばしこい蠅がところ嫌わず張りついて、精も根もつきるばかり煩さかった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、寝間の窓の鎧戸をおろしただけでは気がすまず、そのうえ窓の内側に分厚な毛織りのショールを垂れ掛けて、食後の午睡をとるため、ちょっとした丘ほどの高さは優にありそうな商人のベッドに、セルゲイと共臥しに横たわった。横になってはみたものの、カテリーナ・リヴォーヴナは、うとうとしかけては、またはっと目がさめるといった調子で、夢ともうつつともさっぱり区切りがつかない。ただもう暑苦しくってたまらず、顔じゅう玉なす汗でべっとりの有様、それにつく息までが、燃えつきそうな息ぐるしさだった。もうそろそろ目をさましていい時分だ――と、カテリーナ・リヴォーヴナは心のなかで感じている。庭に出ていって、お茶を飲む時間だ――とは分っていながら、いつかな起きあがる気持になれない。とうとう仕舞いに、おさんどんが上ってきて、ドアをとんとん叩いて、『サモヴァルが、林檎の木のしたで、そろそろおきになりますですよ』と催促する始末だった。カテリーナ・リヴォーヴナは、むりやりに上半身をぐるりと寝返らせると、すぐその手で猫をくすぐりはじめた。その猫というのは、おかみさんとセルゲイの間にのうのうと丸まっていたのだが、見るからに立派な、灰色の、大柄でむくむくと肥えふとった奴で、おまけにそのぴんとおっ立った髭ときたら、小作料を取り立てに歩く差配さんにそっくりだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナが、猫のふかふかした毛並みに指をさし入れて、もぞつかせはじめると、相手はただもう無性に鼻づらをすり寄せてくるのだった。もっさりと気の利かない髭面を、むっちりした胸のふくらみへ押しこんできながら、何やら小声で鼻唄をうたいだす様子は、その唄がやがて恋のささやきででもあるかのようだった。――『おや、ぜんたいなんだって、こんな猫がはいって来たんだろう?』とカテリーナ・リヴォーヴナは考える、――『凝乳クリームをあたし、あの窓わくのところに載っけといたっけが、てっきりこの野良猫め、あれを狙っているんだわ。よおし、追い出しちまおう』と、彼女は思いさだめて、その猫をつかまえて抛りだそうとしたが、とたんに相手はまるで霞みたいにするりと指のあいだをすり抜けてしまうのだった。――『それにしても一たいどこから、この猫の奴はいり込んだんだろう?』と、悪夢のなかでカテリーナ・リヴォーヴナは思案をつづける、――『あたしたちの寝室には、ついぞ猫なんかいたためしはなかったのにさ。よりによってええ畜生、とんだどら猫が舞いこんだものだよ!』そう思って、またも片手で猫をつかまえようとするが、ふたたび相手は影も形もない。――『おや、これは一たい何ごとだろう。冗談じゃないよ、あいつ一たい猫かしら?』と、カテリーナ・リヴォーヴナは、ふとそう思った途端に、ぞおっと総毛だたんばかりの恐怖が身うちを突っぱしって、夢魔も睡魔も一ぺんに消しとんでしまった。カテリーナ・リヴォーヴナは、ぐるりと部屋のなかを見まわした。――猫なんぞいはしなかった。美男のセルゲイが寝ていて、その逞ましい片手でもって彼女の胸を、じぶんの火照った顔へ押しつけているだけである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは起きあがると、寝床に横坐りになって、セルゲイを接吻ぜめにした、愛撫ぜめにした。やがて、もみくちゃになった羽根ぶとんの皺を直すと、ひとりで庭へお茶をのみに下りていった。太陽はもうすっかり傾いていて、かっかと熱しきった大地には、えもいわれぬとろかすような暮色が、ようやく垂れこめようとしていた。
「寝坊しちゃったわえ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは、アクシーニヤに話しかけて、花ざかりのの林檎の木の下に敷かれた毛氈に坐りこみ、お茶をのみにかかった。――「けどねえ、アクシニューシカ、妙なことがあればあるもんだよ」と、彼女は手ずから小皿を茶ぶきんで拭き清めながら、おさんどんにそれとなく鎌をかけてみた。
「なんですかね、おかみさん?」
「それがね、どうやら夢らしくもないんだけどね、とにかくこうありありと、どこかの猫が一匹、あたしの寝床へちゃんともぐりこんで来たのさ。」
「あら嫌ですよ、おかみさん、まさか?」
「ほんとにさ、猫がもぐりこんで来たんだよ。」
 そう言ってカテリーナ・リヴォーヴナは、その猫のもぐり込んでいた次第を話して聞かせた。
「でもおかみさん、なんだってそんな猫なんぞを、可愛がってやんなすったんですね?」
「うん、つまり、そのことさ! どうして撫でてやる気になったものか、われながら合点がいかないんだよ。」
「妙ですねえ、ほんとに!」と、おさんどんは感嘆した。
「当のあたしだって、考えれば考えるほど不思議でならないんだよ。」
「てっきりそりゃあ、誰かがこう、そのうちひょっくりやって来るというお告げか、さもなけりゃ、何か思いがけないことでもある、という前兆かもしれませんねえ。」
「って言うと、つまり何だろうね?」
「さあ、つまりこれこれということになると、そりゃおかみさん、誰にだってはっきりとは申し上げられますまいけれどね、それはまあそうとして、きっと何かありますよ。」
「それまではずっと、お月さまの夢を見ていたんだがね、それから猫が出て来たのさ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは先をつづけた。
「お月さんなら――赤ちゃんでございますよ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは頬を紅らめた。
「セルゲイもここへ呼んで、相伴をさしておやんなさいますかね?」と、そろそろ心得顔でせせり出しそうな気合いを十分に見せながら、アクシーニヤはお内儀さんの気を引いてみた。
「ええ、いいわ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは応じた、――「なるほど、そうだったわね。ちょっと迎えに行ってきておくれ、お茶を御馳走してあげるからって。」
「それそれ、わたしもそう思っておりましたんですよ、ここへ呼んでやろうとね」とアクシーニヤは釘をさして、よちよち家鴨あひるのように庭木戸の方へ歩み去った。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイにも猫の話をして聞かせた。
「なあに、気の迷いさ」と、セルゲイは片づけた。
「でもさ、気の迷いなら迷いでいいけど、なぜそれが、今までついぞなかったんだろうね、ねえ、セリョージャ?」
「今までなかったことなんぞ、ざらにあらあな! 現に見ねえ、ついこのあいだまでは、おいらは只お前さんを遠目に拝むだけでさ、人しれず胸を焦がすのが落ちだったもんだが、今じゃどうだい! お前さんのむっちりと白いからだは、まるまるみんな俺らのもんじゃないか。」
 セルゲイは軽がるとカテリーナ・リヴォーヴナを抱きあげると、宙でぐるぐるぶん※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しにして、冗談はんぶん彼女をふっくらした毛氈の上へ投げだした。
「ふうっ、目がまわるじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは勢いこんで、――「ねえセリョージャ! こっちへおいでな。ずっとそばへ寄ってお坐りよ」と、長々と伸ばした身の曲線を惜しげもなく男の眼にさらしながら、甘えた口調で呼びかけた。
 若者は身をかがめて、いちめんに白い花で蔽われた林檎の下蔭にあゆみ入ると、カテリーナ・リヴォーヴナの足のあいだへにじり込んで、毛氈にどっかと腰をおろした。
「あたしに焦がれていたって、それ本当、セリョージャ?」
「なんで焦がれずにいらりょうか、ってことさ。」
「一体どんなふうに焦がれてたのさ? それを話してお聞かせな。」
「話してきかせろったって、じゃどう言やいいんだい? 焦がれるの何のということが、口で講釈できるものだとでもいうのかい? 恋しかったんだよ、おいら。」
「でもさ、セリョージャ、それほどお前さんが思いつめていてくれたものを、あたしがどうして感じずにいたんだろうねえ。だってほら、世間でよく以心伝心なんて言うじゃないか。」
 セルゲイは無言だった。
「一たいお前さん、あたしがそんなに恋しかったのなら、なぜあんなに面白そうに唄ばかり歌ってたのさ? だってあたし、納屋の差掛のところで歌っている声がよく聞えて来たものだけれど、あれはきっとお前さんの声だったに違いないもの」と、相かわらず甘えながら、カテリーナ・リヴォーヴナは問いつづけた。
「唄ぐらい歌ったって構わねえじゃないか? 蚊とかブヨとかいう奴は、生まれるとから死ぬまで歌っているけれど、何も嬉しくって歌うわけじゃあるまいぜ」と、セルゲイは素気なく答えた。
 話がとだえた。カテリーナ・リヴォーヴナは、はからずもセルゲイの胸中を聞き知って、天に昇らんばかりの法悦にひたるのだった。
 彼女はやたらに喋りたがったが、セルゲイは眉をしかめて黙りこくっていた。
「まあ、ご覧よ、セリョージャ、すばらしいわ、まるで天国だわ!」とカテリーナ・リヴォーヴナは高らかに叫んだ。その眼は、彼女のうえに蔽いかぶさっている花ざかりの林檎のぎっしり茂った枝ごしに、澄みわたった青灰いろの空をじっと見あげている。そこには満月が冴え冴えとうかんでいた。
 月の光は、林檎の葉や花のあいだをこぼれて、世にも気まぐれな明るい斑らを、仰向けに寝ているカテリーナ・リヴォーヴナの顔や全身に、さざ波のようにちらつかせていた。大気はひっそりしていた。ただかすかな生暖かいそよ風が、眠たそうな葉並みを時おりさやさやとそよがせて、花をつけた野の草や木々のほのかな香りを、あたりに振りまくばかりだった。つく息は、なにがなしに悩ましく、さながら怠惰へ、安逸へ、さらには小暗い願望へと、人の心をそそりたてるかのようだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、男の返事がないので、また無言にかえって、うすバラ色をした林檎の花ごしに、相かわらず夕空を見つめていた。セルゲイもおなじく無言だったが、これはべつに夕空に気をとられているわけではなかった。両手で膝をかかえたまま、彼は一心にじぶんの長靴をみつめていた。
 まさに一刻千金の良夜である! 静けさ、ほの明り、かぐわしい花の匂い、それにまた、人の心をよみがえらせ力づける仄温かさ。……庭の裏手の、窪地をへだてた遥かかなたで、どこかの男がよく透る声で唄いはじめた。垣根のそばの、においザクラの茂みでは、夜鳴きウグイスがまずそっと小手調べをして、やがてのどいっぱいに囀りはじめた。高々とそびえる竿のうえの鳥かごでは、ねぼけたウズラが何やらぼそつきだすし、馬屋の壁のなかでは肥えふとった馬が一匹、いかにも切なそうな鼻息を立てる。かと思うとまた、庭の垣根の向うにひろがった牧場を、浮き浮きした犬の群がもの音ひとつ立てずに駈け抜けて、今では廃屋も同然の古い塩倉の描きだす、あやしげな恰好をした黒い影のなかへ消え失せる。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、片肘たてて起き返ると、高だかと伸びた庭の草を眺めわたした。その草もやっぱり、木々の花や葉並みにさんさんと砕けちる月光のきらめきと、しきりに戯れている。例の気まぐれな明るい斑らが、草を一本一本金色に染めあげて、それでもなお足りずにそのうえにちらついたり揺らめいたりしている有様は、火のような紅蛾のはげしい羽ばたきか、それともその木かげの草むらが、一からげに月の投網とあみに引っかかって、あちこち泳ぎまわっているところか、と疑われるばかりだった。
「ねえ、セリョージェチカ、なんて素晴らしい晩だろうねえ!」と、くるりと振り返って、カテリーナ・リヴォーヴナは声高にさけんだ。
 セルゲイは、くそ面白くもないといった顔つきで、一応あたりを見まわした。
「どうしたのさ、セリョージャ、そんなつまらなそうな顔をして? それとももう、あたしたちの恋なんか、あきあきしたとでもいうのかい?」
「つまんない事を言うもんじゃねえ!」と、セルゲイは素気ない調子で応じて、身をかがめると、さも面倒くさそうにカテリーナ・リヴォーヴナに接吻をあたえた。
「浮気なんだねえ、お前は、ええセリョージャ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはつい嫉妬に口をとがらせて、――「だらしがないんだねえ。」
「よしんばそれが、ただの口説くぜつにしたところで、おいらにゃ一向、身におぼえのないことさ」と、セルゲイは落ちつきはらった口調でこたえた。
「じゃ、なんだってそんなキスの仕方をするのさ?」
 セルゲイは、すっかり黙りこくってしまった。
「そんなのは、夫婦の仲でしかしないものだよ」と男の渦まき髪をいじくりながら、カテリーナ・リヴォーヴナは言いつのった、――「つまり、お互いに唇の埃を払いあうだけのことさ。お前、かりにもあたしに接吻するからにゃ、そらあたしたちの上の林檎の木からね、咲きたての花がポトリと地めんへ落っこちずにはいないようにするものだよ。」
「そらね、こう、こうするものさ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは囁きざま、情夫のからだをぎゅっと抱きしめて、情熱に身もだえしながら唇を押しつづけた。
「ねえ、セリョージャ、あたしの言うことをお聞き」と、カテリーナ・リヴォーヴナは、暫くしてまた言いだした、「お前さんのことというと、みんなきまって浮気者だというのは、一体どうしたわけなんだろうね?」
「そんな悪口を言いふらす奴は、一体どこのどいつですかい?」
「だってさ、みんながそう言うもの。」
「そりゃ俺らだって、まるっきり惚れる値打ちのない女たちにゃ、煮湯をのましたこともありまさあ。きっとそんな時のことを言うんだろうなあ。」
「なんてお馬鹿さんなの、お前は、惚れる値打ちのない女なんかと出来合うなんてさ? だいいち値打ちのない女に、惚れるなんていう法はないわ。」
「口はなんとでも言えまさあ! だがね、一体全体そうした物ごとが、理窟や分別ではこぶとでも思うんですかい? ふらふらっと迷いこむ、ただそいだけのことでさあ。……女がいる。その女とね、こっちじゃ別にこれという下心もなしに、あっさりつきあっているうち、ひょいと戒律を犯してしまう。そうなると女は、こっちの首っ玉へぶらさがって来て、いつかな離れることじゃない。これがつまり、恋仲っていうもんでさ!」
「いいかい、セリョージャ! あたしはね、お前さんにこれまでどんな女があったかは知らないし、今さら野暮ったくそれを洗いたてようとも思わないさ。ただね、これだけはお忘れでないよ――あたしたち二人が、今の仲になるまでにゃ、どんなにお前さんがあたしを口説き立てたかっていうことをさ。お前さん自身だって忘れちゃいまいねえ、――何もあたしからばっかし好きこのんでこの恋に身を投げだしたわけじゃなくって、まあ半分がとこはお前さんのワナにはまったも同然だったということをね。だからさ、もし万が一お前が、いいかいセリョージャ、このあたしを今更ほかの女に見かえるようなことがあったら、よしんばその女がどこのどなた様であろうがあるまいが、ねえ可愛いセリョージャ、済まないけどあたしはお前さんと、とても生きちゃ別れられまいと思うのさ。」
 セリョージャはぶるりと身をふるわせた。
「だってさ、カテリーナ・イリーヴォーヴナ! おいらの大事な掛替えのないお前さん!」と、彼は急に雄弁になって、――「二人の仲だの何だのって仰しゃるけどね、そういうお前さん自分で、それがどんなもんだか、とっくり検分してみなさるがいいや。現に今しがたもお前さんは、おいらが今晩は妙に沈んでると言いなすったがね、これでもおいらが沈まずにいられるものかどうかという、そこんところを、ちっとも考えちゃくれないんだ。おいらの心の臓はね、ひょっとすると、べっとり固まった血のりの中に、ずぶりつかっているようなもんだぜ!」
「聞かせて、さ、聞かせておくれ、セリョージャ、お前さんの苦労を洗いざらい。」
「聞かせるも何もありゃしねえ! 第一さ、今にもそら、思ってもぞっとするぜ、お前さんの亭主が、がらがらっと馬車で帰ってくる。と、途端にもう、可哀そうなこのセルゲイ・フィリップィチの奴は、さらりと秋の捨て扇だ。すごすご裏庭へ退散して、胴間声の歌の仲間入りでもして、納戸の軒から指をくわえて、カテリーナ・イリヴォーヴナの寝間に蝋燭がぽっかりともってるところだの、おかみさんがふかふかした蒲団を叩いて膨らましてるところだの、天下晴れての御亭主のジノーヴィー・ボリースィチとよろしくお床入りの有様だのを、あっけらかんと眺めていなけりゃならないんだ。」
「桑ばら桑ばら!」と、カテリーナ・リヴォーヴナは陽気に声を引っぱって、可愛らしい手を振った。
「なんで桑ばら桑ばらなものかね! 憚りながらあっしだって、あんたという人が所詮そうならずにいるものでないことぐらい、ちゃんと心得ていますさ。だがね、カテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしだっても、おいらなりに心もあれば情けもあるんだ。そいで自分がどんなに苦しいだろうかってことも、ちゃんと見えずにはいないというわけでさあ。」
「もう沢山。そんな話、もうよして。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、いかにもセルゲイらしい嫉妬の表現を耳にするのが愉快でならず、大声で笑いだしながら、またもや接吻の雨をふらせはじめた。
「くどいようだがね」とセルゲイは、肩さきまでむき出しのカテリーナ・リヴォーヴナの両の腕から、そっと自分の頭を抜けださせながら、なおも言葉をつづけた、――「くどいようだけどね、もう一つ、ついでに聞いておいて貰いたい事があるんだ。ほかでもないがそりゃあ、こうしてあっしがあれやこれやと、くよくよ男らしくもなく、同じことを一ぺんどころか十ぺんも思案したりするのは、一つにはあっしの境涯が、この通りの賤しい身分だというせいもあるんでさ。仮りにもしあっしが、いわばまああんたと対等の身分でさ、何かこう旦那とか商人とかいわれる身の上だったら、それこそもうあっしとあんたとは、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしの息のある限り離れっこはないんだがなあ。ところが実際は、あんたもよく考えておくんなさいよ、あんたの前へ出ちゃあ、あっしという人間は、いったい何者ですかい? 今にもあんたが、その白い可愛らしい両手をほかの男の手にとられて、寝間へ連れていかれたにしたところで、あっしは何もかもこの胸一つに、じっとこらえていなけりゃならないんだ。いやそればかりか、その無念さのおかげで、ひょっとすると一生涯、われながら見さげ果てた腰抜け野郎だと、自分で自分を阿呆あつかいにするようにさえ、なり兼ねないものでもないんだ。ねえ、カテリーナ・イリヴォーヴナ! あっしはね、女からただ一時の快楽をせしめさえすりゃ、あとは野となれ山となれ式の、ほかの奴らとは違うんですぜ。あっしはこう見えても、恋がどういうものかぐらいは、じかにこの胸で分っているつもりですぜ。そいつがまるで黒い蛇みたいに、あっしの心の臓に吸いついて離れないことも、ちゃんと分ってるんですぜ。……」
「なんだってお前さん、そんなことをくどくどあたしにお説教するのさ?」と、カテリーナ・リヴォーヴナは相手をさえぎった。
 彼女はセルゲイがふびんになって来たのである。
「カテリーナ・イリヴォーヴナ! つい話がくどくなっちまうんですよ。いやでも、くどくならずにゃいられないんですよ。だって、そうじゃないですかい、万事もう事の筋みちがちゃんと読めていて、運命はきれいさっぱり決まっているんだ。おまけにそれも、いつか遠い先のことなんかじゃなくて、明日あすの日にもこのセルゲイの奴は、この屋敷うちに影も形もなくなっちまうんだ。これが平気でいられますかい?」
「だめよ、いけないわ、そんなこと言うもんじゃないわ、セリョージャ! あたしがお前さんから離れて暮すなんて、そんなこと決してありっこはないわ」と相かわらず情合いのこもった声で、カテリーナ・リヴォーヴナは男をなぐさめるのだった。――「かりに万一、そんなことになったとしても……その時は、あの人が死ぬか、あたしが死ぬか――とにかくお前さんは、あたしといつまでだって一緒だわ。」
「いいや、そいつはとても、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、望みがありませんや」とセルゲイは悲しげにまた侘びしげにかぶりを振りながら答えた。――「こんな恋をしたばっかりに、あっしは生きているのが、さっぱり味気なくなっちまった。同じ惚れるにしても、いっそおとなしく、こっちと身分の釣り合った相手にしといたら、こんな苦しい思いはせずに済んだろうになあ。一たいあんたという人を、このあっしが末永く恋女にして行けるとでもいうんですかい? それがあんたの何か名誉になるとでもいうんですかい――あっしずれの色女だということがさ? 叶うことならあっしは、聖なる神の祭壇の前で、あんたの良人になりたいんだ。そうなったらあっしは、そりゃ勿論あんたに対しちゃ自分は一目も二目も置かなけりゃならん男だということは二六時ちゅう肝に銘じて忘れないまでも、とにかくあっしは、じぶんの細君を心から尊敬しているという点にかけちゃ、立派に良人たる資格のある男だということを、大っぴらに世間の奴らに見せつけてやれる自信があるんだがなあ。……」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、このセルゲイの言葉をきき、彼の嫉妬のはげしさや、自分を妻にしたいという願いを知って、頭がくらくらっとしてしまった。なかでもこの最後の願いは、よしんば当のその男と結婚まえに身も心も許しきった仲であったにしろ、女性にとってはやはり、いつ耳にしても嬉しい言葉なのである。今やカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイのためなら火にも水にも飛びこもう、牢屋にもはいろうし十字架にものぼろう、という覚悟がついた。言いかえればセルゲイは、女をすっかり惚れこませてしまって、わが身にたいする女の無辺無量の献身を、まんまとその手に収めたわけである。女はじぶんの幸福に狂気せんばかりだった。彼女の血は湧きかえって、もはやそのうえ男の言葉に耳をかたむける余裕はなかった。彼女は、いきなり手の平でセルゲイの唇をおさえると、男の頭をじぶんの胸に押しつけながら、こう口走るのだった。――
「いいわ、そうなったらもうあたし、立派な商人にお前さんを仕立てあげてみせるわよ。そしてお前さんと、天下晴れての夫婦ぐらしをするんだわ。ただねえ、お前さん、事がまんまと落着するまでは、下手にくよくよしてあたしをがっかりさせないでおくれよ。」
 そこでまたもや、接吻と愛撫がひとしきりつづいた。
 年寄りの番頭は納屋で寝ていたが、深い眠りのひまひまに、夜ふけの静寂をみだしてひびいてくるさざめきを、だんだん耳の底に感じはじめた。どうやらそれは、どこかその辺に腕白小僧が寄りあって、ひとつあのよぼよぼ爺いに一泡ふかせてやろうじゃないかと、さかんに悪計をめぐらしていでもするような、ひそひそ声と忍び笑いでもあったし、かと思うとまた湖の妖精たちが、行き暮れた旅人か何かをなぶり物にしているみたいな、甲だかい陽気な笑いごえでもあった。それはほかでもない、月の光りをぴしゃぴしゃ撥ねかえしたり、ふっくらした毛氈の上をころげ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったりしながら、カテリーナ・リヴォーヴナが亭主の使っている若い番頭を相手に、じゃれたり、いちゃついたりしている声だったのである。ひらひらと、またはらはらと、こんもり茂った林檎の木からは、咲きたての白い花が、二人のうえにしきりにふり注いでいたが、やがてそれも散りやんでしまった。そうこうするうちに、夏のみじか夜はいつしか移って、高くそびえる穀倉の切りたったような屋根のかげに月は沈み、だんだん朧ろめきながら、斜めに地上を照らしていた。台所の屋根からは、けたたましい猫の二重唱がひびいてきた。やがて、唾きをはく音や、腹だたしげな鼻息がきこえたかと思うと、毛並みをみだした猫が二三匹、屋根に立てかけてある小割板の束をがさつかせて駈けおりてきた。
「さあ、もう行って寝ようじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは毛氈からそろそろ身を起すと、まるで精も根もつきはてたといった調子で、のろのろとそう言った。そして、いつのまにかシュミーズと白いスカートだけになって寝ていたそのままの恰好で、ひっそりとした、まるで死に絶えたようにひっそりした商家の構内を、ふらふら歩いていった。そのあとからセルゲイは、片手に毛氈を、のこる片手には、さっき彼女が興に乗ってぬぎ捨てたブラウスを、かかえてついて行くのだった。

      ※(ローマ数字7、1-13-27)

 蝋燭を吹き消して、肌着もなにもすっぽり脱ぎすてて、ふかふかした羽根ぶとんへもぐり込むが早いか、カテリーナ・リヴォーヴナは忽ちもう、正体もなく寝こけてしまった。なにしろ、さんざんふざけ抜き、いちゃつき抜いたあげくの果てだから、カテリーナ・リヴォーヴナの眠りの深いことといったら、足もぐっすり寝ていれば、手もぐっすり寝ているといった塩梅だった。ところが、まもなく彼女は、またもやドアがそっとあいて、さっきの猫がどさりと古靴かなんぞのように寝床の上へ落ちた気配を、夢うつつのうちに聞いたのである。
『ほんとに、なんてまあ忌々しい猫だろうねえ?』と、へとへとのカテリーナ・リヴォーヴナは思案するのだった。――『今度はあたし、わざわざ自分のこの手でドアの鍵をかけておいたし、窓もしまっている。だのにまたやって来たわ。よおし、さっさと追ん出しちまおう』と、カテリーナ・リヴォーヴナは起きようとしたが、ねぼけた手や足が言うことをきかない。そのまにも猫は彼女のからだの上を所きらわず歩きまわり、何やら奇妙な鳴き声をたてるのだったが、それがまたもや、まるで人間が口をきいているみたいに聞える。しまいにカテリーナ・リヴォーヴナは、からだじゅうがむずむずして来た。
『いいや、これはもう』と、彼女は考える、――『どうあっても明日になったら、聖水をベッドに振りかけるよりほかに手がないわ。なにしろこうして、尋常一様でない変てこな猫に、見こまれたんだからねえ。』
 ところで猫は、彼女の耳の上でニャゴニャゴ鳴きたてていたが、鼻づらをぬっと差し入れると、こんなことを言いだした、――『わしがどうして猫なものかよ! 滅相もないわい! さすがは利口なお前だけあって、まさしくお前の推量たがわず、わしはただの猫ではなくして、実は世間に聞えた商人あきんどボリース・チモフェーイチじゃよ。わしが今このように落ちぶれたのは、ほかでもない、嫁女がわしに食わせおった馳走のおかげで、わしの臓腑がことごとくはじけ破れたからじゃ。それ以来』と、猫はことばをつづけて、――『わしはこの通りなりが小さくなって、わしが実は何者かということのよく分らぬ者の眼には、猫と見えるような仕儀になってしもうた。ところでお前は、その後きげんはどうかな、ええカテリーナ・リヴォーヴナ? 戒律はよう守っておるかな? わしがこうして、わざわざ墓場から出てきたのは、お前がセルゲイ・フィリップィチと二人がかりで亭主の寝床を暖めておる有様を、一目みておきたいからじゃよ。ごろごろごろ』とそこで猫は喉を鳴らして、――『ただ無念なことには、わしの眼は何ひとつ見えんのだ。わしを怖がらんでもいいわ、――それこの通り、お前の馳走のおかげで、わしは目玉までが抜けてしまったわい。な、わしの眼をよくごらん、怖がることはないわい!』
 カテリーナ・リヴォーヴナは一目みるなり、ぎゃっとばかり悲鳴をあげた。自分とセルゲイのあいだには、またしても猫が寝そべっていて、しかもその猫の頭ときたら、遺骸になったボリース・チモフェーイチのと寸分たがわぬ大きさだった。おまけに両眼の代りに、一対の炎の輪がついていて、それが四方八方にぐるぐる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているではないか!
 セルゲイは目をさまして、カテリーナ・リヴォーヴナをなだめると、また眠ってしまった。しかし彼女は、睡気もなにも消しとんでしまい、――それが却って幸いになった。
 目をあいたまま横になっていると、とつぜんその耳に、何者かが門を乗り越えて、中庭へはいって来たらしい音がきこえた。と、たちまち犬が飛びかかろうとしたが、すぐまたおとなしくなったのは、てっきり尻尾をふって甘えかかっているのに相違ない。それからまた一分ほどすると、階下した掛金かけがねのはね返る音がして、戸がギイとあいた。――『この音はみんな、わたしの空耳かしら。さもなけりゃあれは、うちのジノーヴィー・ボリースィチが帰って来たのだ。あの人の持っている合鍵で戸があいたところを見ると』――そうカテリーナ・リヴォーヴナは考えて、いそいでセルゲイの小脇をつついた。
「ほら、お聞きよ、セリョージャ」と彼女は言うと、自分も片肘ついて身をもたげ、聴き耳をたてた。
 階段を忍びやかに、一あし一あし用心ぶかく踏みしめながら、ほんとに誰かが、寝室の錠のおりたドアへ近づいて来るのだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、シュミーズ一枚でぱっと寝床からとび出すと、小窓をあけ放った。間髪をいれずセルゲイは、はだしで差掛の屋根へとび下りざま、両の足をしっかりと柱にからみつけた。その柱づたいに、おかみさんの寝間から抜けだすのは、何もこれが初めてではなかったのだ。
「いいえ、それには及ばないわ、それには! そのへんでちょいと横になっておいでな……遠くへいかずにね」と、カテリーナ・リヴォーヴナはささやくと、男の靴と服を窓のそとへ抛りだしておいて、自分はまた毛布へもぐりこみ、じいっと待ち受けた。
 セルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナの言うとおりにした。彼は柱づたいに滑りおりずに、差掛の上に積んであった菩提樹の皮のかげに身をひそめた。
 そのまにもカテリーナ・リヴォーヴナの耳には、良人がいよいよ戸の外までやって来て、息をころして聴き耳をたてている気配が、手にとるように伝わってきた。そればかりか、嫉妬に燃えるその心臓が早鐘をつく音までが、聞きとれるほどだった。しかし、カテリーナ・リヴォーヴナの胸にこみ上げて来たのは、同情の念ではなくて、毒をふくんだ笑いだった。
『おとといおで』と彼女は、心のなかでつぶやいた。その顔には微笑がただよい、息づかいは、罪のない幼な児のように安らかだった。
 そうした状態が、ものの十分ほどつづいた。やがての果てにジノーヴィー・ボリースィチは、ドアの外にたたずんで妻の寝息をうかがっているのが、もうこれ以上やりきれなくなった。彼はノックした。
「だあれ?」と、早からず遅からず間あいを計り、ねぼけ声をとりつくろって、カテリーナ・リヴォーヴナは応じた。
「おれだよ」と、ジノーヴィー・ボリースィチが答えた。
「まあ、あなたなの、ジノーヴィー・ボリースィチ?」
「うん、おれだ! なんだい、この声が聞えないみたいにさ!」
 カテリーナ・リヴォーヴナは寝ていたままのシュミーズ一つで飛びだして行くと、良人を部屋へ入れてやり、また元のぬくぬくした寝床へもぐりこんでしまった。
「夜明けがたは何だか冷えて来ますのねえ」と彼女は、毛布にくるまりながら言った。
 ジノーヴィー・ボリースィチは、じろじろ見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながらはいってくると、安着の祈りをとなえ、蝋燭をともして、またあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。
「どうだい、元気かね?」と、彼女は細君に問いかけた。
「ええ」とカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、上半身をおこして、前ボタンのない紗のブラウスを著はじめた。
「サモヴァルでも立てましょうか?」と、彼女はたずねた。
「まあいいさ、アクシーニヤを呼んで、立てさせたらいい。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、はだしに靴をつっかけると、駈けだしていった。半時間ほども彼女は戻って来なかった。その間に、彼女は自分でサモヴァルに火を入れて、それが済むと、飛ぶように差掛の上のセルゲイのところへ忍んで行った。
「ここにいるんだよ」と、彼女はささやいた。
「いつまで一体?」と、やはりひそひそ声でセルゲイが聞いた。
「まあ、なんて分らずやなのさ! あたしが言うまで、いりゃいいんだよ。」
 そう言ってカテリーナ・リヴォーヴナは、手ずから男をもとの場所へ坐りこませた。
 そうして差掛の上にいると、寝室のなかの様子がすっかりセルゲイには聞えて来た。またドアをばたんといわせて、カテリーナ・リヴォーヴナは良人のところへ戻って来た音がする。話し声も、いちいち手にとるように聞える。
「えらく手間どったじゃないか?」と、ジノーヴィー・ボリースィチが細君をとがめる。
「サモヴァルを立てていたんですの」と、彼女がすまして答える。
 話がとだえた。ジノーヴィー・ボリースィチがフロックを洋服掛へかけている音が、セルゲイには聞える。やがて顔を洗いにかかって、鼻をかんだり、水を四方八方へはねかえしたりする音がする。おいタオルをくれ、と言う。それからまた話がはじまる。
「一たいなんだって、とっつぁんの葬式を出すようなことになったんだね?」と、良人がたずねる。
「ただもう、ぽっくり亡くなったもんで」と細君、「とりあえずお葬いを出しましたの。」
「しかし、なんぼなんでも意外だったなあ!」
「神様の思召しですわ」とカテリーナ・リヴォーヴナは答えて、茶碗をかちゃかちゃいわせはじめた。
 ジノーヴィー・ボリースィチは、沈みこんで部屋の中を行きつ戻りつしていた。
「ところでお前さんは、おれの留守のあいだ、どんなふうに暮らしていたかね、退屈じゃなかったかい?」と、またもジノーヴィー・ボリースィチが細君を根ほり葉ほりしはじめる。
「うちの楽しみといったら、世間にもおおよそ知れ渡っているはずですわ。舞踏会へ行くわけじゃなし、お芝居なんぞ尚更のことですわ。」
「それにどうやら、亭主の顔を見ても、大して嬉しくもなさそうだね」――じろりと横目をくれながら、ジノーヴィー・ボリースィチが切りこんだ。
「あら、おたがいもう、ほやほやの御夫婦じゃあるまいし、久しぶりで会ったからって、まさか無分別にのぼせあがりも出来なかろうじゃありませんか。この上、どんな風に嬉しがって見せろと仰しゃるの? わたし、こうしてふうふう駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って、あんたの御機嫌をとっているのにさ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、サモヴァルを取りにまた部屋から駈けだしたついでに、またもやセルゲイのところへ駈けつけると、袖をぐいと引っぱって、こう言った、――『ぼやぼやおしでないよ、セリョージャ!』
 セルゲイは、一たい何事がおっぱじまるのやら、さっぱり合点が行かなかったが、とにかく身構えだけはしたのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナが戻って来てみると、ジノーヴィー・ボリースィチは寝床の上に両膝をつきながら、枕もとの壁に南京玉ビーズの紐のついた自分の銀時計を掛けているところだった。
「こりゃ一体どうしたわけだね、ええカテリーナ・リヴォーヴナ、一人で寝るのに二人分もふとんを敷いてさ?」と、さも怪訝けげんそうに、彼はだしぬけに細君にきいた。
「しょっちゅうお帰りを待ってたんですわ」と良人の顔を平然と見すえながら、カテリーナ・リヴォーヴナは答えた。
「これまた、厚くお礼を申しあげにゃならんわけだな。……ところでと、こんな物が羽根ぶとんの上に落ちていたが、こいつは一体どこから舞い込んだわけだろうな?」
 ジノーヴィー・ボリースィチは敷布の上から、セルゲイの細い羅紗のバンドを拾いあげると、その端っこをつまんで細君の眼のまえに突きつけた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、ちっともたじろぐ色もなく、
「お庭で拾ったんですの。丁度いいので、下紐がわりに使っていましたの。」
「なるほどなあ!」と、ことさら語気をつよめてジノーヴィー・ボリースィチは言い放って、――「おれも実は、そのお前さんの下紐のことで、何かと聞き及んでいるんだがな。」
「一たい何をお聞きになったんですの?」
「まあ、お前さんのいい事を色々とな。」
「わたしべつに、いい事なんぞありゃしませんのにさ。」
「まあいい、いまに分るさ、洗いざらい分っちまうさ」と、飲みほした茶碗を細君の方へ押しやりながら、ジノーヴィー・ボリースィチが答えた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙りこくっていた。
「とにかくお前さんたちの一件はな、カテリーナ・リヴォーヴナ、すっかり明るみに出さずにゃ置かんつもりだよ」と、まただいぶ長く続いた沈黙のあとで、細君に眉根をしかめて見せながら、ジノーヴィー・ボリースィチが吐きすてるように言った。
「憚りさま、このカテリーナ・リヴォーヴナは、それほど臆病じゃありませんわ。大してびくついてもいませんですわよ」と、彼女はやり返した。
「なに! なんだと!」と、思わず声をあららげて、ジノーヴィー・ボリースィチが叫んだ。
「いいえ別に――みんな済んだことですわ」――と彼女は答えた。
「おいおい、ちっと気をつけたがよかろうぜ! お前いつのまにか、えらく口が達者になったなあ!」
「おや、口が達者になってはいけませんでしたの?」と、カテリーナ・リヴォーヴナは投げかえす。
「それよりかな、もうちっとわが身を省みたほうがよかろう、ということさ。」
「あたし何も、省みることなんかありゃしませんもの。そのへんの金棒引きが、あること無いこと口から出まかせに言いふらす。その中傷沙汰を、一つ残らずこのあたしが背負いこまなけりゃならないんだわ! そんな話って一体あるもんかしら!」
「ところが金棒引きどころか、世間にゃもう立派に、お前たちの色恋ざたが知れわたっているんだぜ。」
「あら、どんな色恋沙汰ですの?」と、今度は本気でさっと顔を紅潮させて、カテリーナ・リヴォーヴナが金切り声をたてた。
「いやなに、ちゃんとおれには分っている。」
「分ってらっしゃるんなら、いいじゃありませんか、もっとはっきり仰しゃったって!」
 ジノーヴィー・ボリースィチは暫く黙っていたが、やがてまた空っぽの茶碗を細君の方へ押しやった。
「そら御覧なさい、なんにも言えないじゃありませんか」と、興奮のあまり良人の小皿へ手荒く茶さじを投げこみざま、さも見さげ果てたといった口調でカテリーナ・リヴォーヴナは切って返した。――「さ、仰しゃったらいいでしょう、相手は誰だという御注進でしたの? あたしがあなたに不貞を働いたという、その相手の男は一たいどこの誰だというんですの?」
「今にわかる、そうあわてんでもいい。」
「わかったわ、あのセルゲイのことでしょう、あなたの耳にはいったその相手の男とやらいうのは?」
「今にわかる、今にわかるよ、カテリーナ・リヴォーヴナ。お前さんにたいするわしの実権は、まだ誰にも横取りされたわけではなし、また誰にしたところで、横取りはできないはずだ。……結局お前さんが、口を割ることになるのさ。……」
「ち、ちっ! そうまで言われちゃ、もう我慢がならないわ」と、歯ぎしりをしてカテリーナ・リヴォーヴナは絶叫すると、さっとハンカチのように蒼ざめて、やにわにドアの外へ躍りだしていった。
「さあ、連れて来ましたわ」と、何秒かののち、セルゲイの袖をぐいぐい引っぱって、部屋へ引きずり込みながら、彼女は口走った。――「ご存じの筋は何なりと、この人になりあたしになり、片っ端からおたずねになるがいいわ。ひょっとすると、知りたいと思ってらっしゃる以上のことが、何かお耳にはいるかも知れませんわよ。」
 ジノーヴィー・ボリースィチは、かえって呆気にとられてしまった。彼は、戸口の柱ぎわに突っ立っているセルゲイを見やったり、あるいは腕組みをしてベッドのふちに平然と腰をおろした細君を見やったりしていたが、一たいこの騒ぎはどういうことになるものやら、さっぱり見当がつかないのだった。
「一たいどうしようっていうんだ、毒婦め?」と、やっとの思いで口を切ったが、肘かけ椅子に坐りこんだままだった。
「よく知ってらっしゃるというその事を、どしどしお尋ねになるがいいでしょ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはしゃあしゃあと答えた。――「あんたは、威かしさえすりゃあたしが震えあがるとでも、思ってらっしゃるらしいけれど」と、意味ありげな流し目を一つくれて、言葉をつづけた、――「そうは問屋がおろさないことよ。あたしはただ、あんたのその威し文句をうかがう先から、あんたに対してこうしようとちゃんと胸のなかで決めていたことを、そのまま実行するだけのことですわ。」
「そりゃなんのことだ? ええ出て失せろ!」と、ジノーヴィー・ボリースィチはセルゲイをどなりつけた。
「おっとどっこい!」と、カテリーナ・リヴォーヴナがおひゃらかした。
 彼女はすばやくドアの錠をおろすと、鍵をポケットへ押しこみ、例の更紗のブラウス姿で、またもやどしりとベッドにおみこしを据えた。
「ちょいと、セリョージェチカ、こっちへおいでな。ねえ、おいでったら、おまえ」と、彼女は番頭を手まねきした。
 セルゲイは、渦まき髪をさっと一振りゆすりあげると、勇敢にずかりとおかみさんのそばへ腰をおろした。
「やれやれ! あさましいわい! 一体なんたることだ? 犬畜生じゃあるまいし、それは一たい何たるざまだ!」と、満面さっと紫色に変じて、肘かけ椅子から立ちがりながら、ジノーヴィー・ボリースィチはわめき立てた。
「どう? お気に召さなくって? まあとっくり見て頂戴な、とっくりとね。これがあたしの若い鷹いいひとなのよ、どう、いい男振りでしょ!」
 カテリーナ・リヴォーヴナは大声で笑いだすと、良人の目の前でセルゲイに熱い接吻をあたえた。
 とその瞬間、彼女の頬っぺたにがあんと一発、横びんたが飛んだかと思うと、ジノーヴィー・ボリースィチはあけっぱなしの小窓めがけて突進した。

      ※(ローマ数字8、1-13-28)

「おやまあ、おいでなすったわね!……ところがどっこい、そうは行きませんてことさ。どうせそんなことだろうと思ってたよ!」と、カテリーナ・リヴォーヴナは金切り声をたてた。――「さあ、こうなったらもう山は見えたわ……お互い、泣こうが笑おうが……」
 ぱっと一振り、彼女はセルゲイを突きのけると、すばやく良人に追いすがって、ジノーヴィー・ボリースィチが窓へ跳びあがるその前に、うしろからその喉もとへ自分のほっそりした指をからませたかと思うと、忽ち相手のからだを、しめった麻束よろしくのていで、床べたへ引っくり返した。
 どさりと地ひびきを立てて倒れる拍子に、うしろ頭をいやっとこさ床にぶつけたジノーヴィー・ボリースィチは、すっわり目をまわしてしまった。彼としては、こうも手っとり早く大詰が来ようとは、夢にも思いもうけぬことだったのだ。自分の身に最初の暴力が加えられた瞬間、その下手人がげんざいのわが妻であればあるだけ、さてはこの女め、このおれから自由になろうためなら、手段をえらばぬ必死の覚悟だな、と直覚して、これは容易ならんことになったわいと、咄嗟に感じたのであった。ジノーヴィー・ボリースィチは、そうした一切のことに、倒れる刹那ぱっと思いあたったのだったが、さりとて悲鳴ひとつあげなかったのは、声を立てたところでどうせ誰の耳にもとどきはすまい、みすみす断末魔を早めるのが落ちだと、見当がついたからである。彼は無言のまま、一わたりあたりを見まわすと、その両眼に怨むような咎めるような苦しみ悶えるような色をうかべ、現に自分の喉もとを細っそりした指でぐいぐい絞めつけている妻の顔を、じいっと見つめた。
 ジノーヴィー・ボリースィチは、べつに抵抗しなかった。両の腕は、ぎゅっと握りこぶしを固めたまま、床べたに伸びきって、時どき引っつるようにぴくついていた。片っぽは全く自由だったが、のこる一本はカテリーナ・リヴォーヴナの膝がしらで、床へ押しつけられていた。
 「ちょいと押えていておくれな」――彼女は平気な声でセルゲイにそう囁くと、言葉なかばでまた良人の方へ向きなおった。
 セルゲイは旦那のうえに馬乗りになると、もろ膝で相手の腕をおさえつけ、むんずとその手を、カテリーナ・リヴォーヴナの両手の下から相手の喉へかけようとしたが、とたんに思わずギャッと悲鳴をあげてしまった。じぶんの女房を寝とった男の姿が目にはいると、血なまぐさい復讐の一念が、ジノーヴィー・ボリースィチの体内に残っていた力のありたけを、一挙にふるい立たせたのである。彼は猛烈な勢いで身をもがくと、セルゲイの膝の下敷きになっている両手を引き抜き、それでセルゲイの黒い渦まき髪をひっつかみざま、まるで獣みたいに彼の喉もとへ咬みついた。が、その瞬間、ジノーヴィー・ボリースィチは一二度呻いて、がくりと頭を落とした。
 カテリーナ・リヴォーヴナはまっ蒼な顔をして、ほとんど息も通わぬ有様で、良人と情夫の頭のうえに立ちすくんでいた。その右手には、ずしりと重い鉄の燭台が、重たい方を下に向けて、あたまの方で握られていた。ジノーヴィー・ボリースィチのこめかみから頬へ、一すじの細い紐をなして、鮮血がながれていた。
「坊さんを……」とジノーヴィー・ボリースィチは、自分のうえに馬乗りになっているセルゲイから、さも厭らしそうに頭をできるだけ遠方にそむけながら、鈍い声でうめいた。――「ざんげが、したい」――髪の毛の下かげで次第に濃くなってゆく生温なまぬるい血を、横目で見やりながら、そろそろ顫えのつきはじめた彼は、一そうかすかな声で言った。
「大丈夫よ、そんなことしないだって」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいた。
「さあさ、いつまでこの人のお相手をしてたって始まらないよ」と、今度はセルゲイに向って――「もっとぎゅっと、その喉をお締めな。」
 ジノーヴィー・ボリースィチは、ぜいぜいごえをもらしはじめた。
 カテリーナ・リヴォーヴナはしゃがみ込むと、良人の喉にかかっているセルゲイの両手を、じぶんのもろ手でぐいと押しつけ、耳をその胸に当てがった。沈黙の五分間がすぎると、彼女は身をおこしてこう言った、――「さあよし、往生したらしいわ。」
 セルゲイも立ちあがって、ふうっと息をついた。ジノーヴィー・ボリースィチは死んで横たわっていた。喉は締めあげられ、こめかみは裂けていた。頭のしたには、左手にあたって、小さな血のしみが溜っていた。しかし、傷口はべっとり髪の毛がはりついて固まっていたので、血はもう流れてはいなかった。
 セルゲイはジノーヴィー・ボリースィチを、穴倉へかついで行った。それは当のセルゲイ自身がついこのあいだ、今は亡きボリース・チモフェーイチの手で閉じこめられた覚えのあるあの石倉の、地下に設けられたものであった。そこへ抛りこむと、彼は屋根部屋にとって返した。そのまにカテリーナ・リヴォーヴナは、例の更紗木綿のブラウスの袖をたくしあげ、裾を高々とはしょりあげて、ジノーヴィー・ボリースィチがおのれの寝間のゆかにのこしていった血のしみを、束子たわしにシャボンをつけて入念に洗いおとすのだった。サモヴァルのなかの湯は、まだ冷めてはいなかった。その湯でれた毒入りの茶を、一杯また一杯と重ねながら、つい今しがたまでジノーヴィー・ボリースィチは、どうにか一家のあるじの沽券こけんをみずから慰めていたものだったが、とにかくその湯のあるおかげで、血のしみは跡形もなくきれいに落ちてしまったのである。
 それからカテリーナ・リヴォーヴナは、銅のうがい茶碗と、シャボンを塗りつけた束子を持って、
「さあ、明りをたのむよ」とセルゲイに言いつけ、戸の方へ歩いていった。――「明りをお下げな、もっと低く」――そう言いながら彼女は、セルゲイがジノーヴィー・ボリースィチの死体を引きずったと覚しい床板のうえを、穴倉の入口までまんべんなく検査していった。
 わずか二タ所だけ、ニス塗りの床のうえに、さくらんぼほどの大きさの血の痕が、ちょっぴり二つ着いていた。カテリーナ・リヴォーヴナが束子でこすると、すぐ消えてしまった。
「よく覚えときなさいよ、これがつまり、自分の女房のところへ泥坊みたいに忍び寄ったり、立ち聞きしたりするもんじゃないという戒しめなのさ」――とカテリーナ・リヴォーヴナは、まっすぐ腰をのばして、穴倉の方をふり返りながら言い放った。
「これで目出たし目出たしか」――セルゲイはそう言ったが、われとわが声の響きにぎょっとした。
 二人が寝室にもどって来たとき、暁を告げるほっそりした紅いの筋が一本、東の空をつらぬきはじめて、花におおわれた林檎の木々をうっすらと金色に染めながら、庭の柵のみどり色をした格子ごしに、カテリーナ・リヴォーヴナの部屋へ射しこむのだった。
 中庭をよこぎって、羊皮の半外套を肩へ引っかけ、あくびまじりに十字を切りながら、納屋から台所へ、年寄りの番頭がよちよち歩いていった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、紐であけたてする鎧戸を用心ぶかくそっと引くと、ふり返ってじいっとセルゲイを見つめたが、その眼はまるで彼の魂を見透そうとしているようだった。
「さあ、これでお前さんは、れっきとした商家の旦那だよ」と彼女は、セルゲイの肩にその白い両手をかけて言った。
 セルゲイは、うんともすんとも返事をしなかった。
 そのセルゲイの唇は、わなわなと顫えていた。カテリーナ・リヴォーヴナはどうかというと、唇だけが冷え冷えしていた。
 それから二日すると、セルゲイの両の手のひらには、鉄梃かなてこや重たいシャベルを使ったらしく、大きなマメが幾つもあらわれた。その甲斐あって、穴倉のなかのジノーヴィー・ボリースィチは、すこぶる手際よく始末されて、こうなったらもう当の後家さんかその情夫の口を借りなければ、死人がみんな復活するというあの最後の審判のその日まで、誰にも嗅ぎつけられる気づかいはないまでになっていた。

      ※(ローマ数字9、1-13-29)

 セルゲイは喉に真紅なハンカチを巻きつけて、どうしたものだか喉が腫れふさがって困ったと言いふらしていた。ところが、ジノーヴィー・ボリースィチがセルゲイの喉もとにのこした歯形の、まだ直りきらないうちに、カテリーナ・リヴォーヴナの良人の行方不明が、人の口の端にのぼりはじめた。当のセルゲイが誰よりも一ばん多く、旦那のうわさをしだしたのである。宵の一刻を、若い衆にまじって木戸のそばのベンチに腰かけなどしている時、『それにしても、なあみんな、妙な話じゃねえかい、うちの旦那が未だに帰ってござっしゃらねえなんてさ』――といった調子で、口火を切るのである。
 若い衆もやはり、不思議だなあと首をかしげる。
 そうこうするうちに製粉所から報らせが来て、旦那は何頭だてかの馬車をやとって、もうとうの昔についたことが分る。その車の馭者にきいてみると、ジノーヴィー・ボリースィチははじめから加減がよくない様子だったが、そのうち変てこな場所で車を乗りすてた。というのはつまり、町までまだ一里ちかくもあろうという時分、修道院のそばでいきなり車をおりると、皮袋をさげて、そのまま行ってしまった――というのである。そんな話を耳にするにつけ、一同はますます怪訝けげんに思うのだった。
 ジノーヴィー・ボリースィチが行きがた知れずになんなすった――結局はまあそこに落ちついてしまう。
 そこで捜索がはじまったが、何ひとつ見つからなかった。商人は水へでももぐったみたいに掻き消えてしまったのである。逮捕された馭者の陳述で分ったことは、例の修道院のそばを流れている川っぷちで商人が車をおりて、そのまま行ってしまった――ということだけだった。事件は結局うやむやになって、そのまにカテリーナ・リヴォーヴナは、後家の身の誰に遠慮えしゃくもない気楽さで、セルゲイと思うぞんぶん乳くり合ったのである。ジノーヴィー・ボリースィチの姿を、どこそこで見かけた、いやどこそこで見かけたなどと、当てずっぽうを言いだす者も出てきたが、それでもやっぱり戻ってはこず、第一どうしたって戻ってこられるはずのないことを、誰よりもよく知りぬいているのは、当のカテリーナ・リヴォーヴナに違いなかった。
 こうして一ト月たち、二タ月たち、三月目がすぎると、カテリーナ・リヴォーヴナは生理に異状をおぼえた。
「どうやら私たちの元手ができたらしいよ、セリョージェチカ。つまり跡とりが出来たのさ」と、彼女はセルゲイに告げて、さっそく町会へ訴願におよんだ。こう/\こういうわけで、察するところどうやら――妊娠したらしくあるが、一ぽう店の仕事は、そろそろとどこおりだしている。この際わたしに一家の切り盛りをお許しねがいたい――というのである。
 商売が台なしになるとあっては一大事である。それにカテリーナ・リヴォーヴナは、まさにその良人の正妻であるに相違ない。うち見たところ負債もない様子である。であってみれば、よろしく彼女に家督をゆるすべきである。――というわけで、彼女は家督をゆるされた。
 そうしてめでたく、カテリーナ・リヴォーヴナの天下になった。彼女の意志によって、セルゲイはもはやセリョーガなどと呼び捨てにされずに、セルゲイ・フィリップィチと立てられることになった。ところがそこへ、天から降ったか地から湧いたか、思わぬ厄介ごとが持ちあがった。リーヴンという町から町長のところへ手紙が舞いこみ、その文面によると、ボリース・チモフェーイチが商売を営んでいたのは、自分の資本一本によるものではなくて、運転資本のなかには彼の甥にあたるフョードル・ザハーロフ・リャーミンという未成年者の金が、じつは彼自身の金よりも多く混っていたものであるから、この事業は一応せんぎを要すべく、カテリーナ・リヴォーヴナ一個の手に帰せしむべきではない、というのであった。この注進が舞いこんで、町長はそのことをカテリーナ・リヴォーヴナの耳に一先ず入れたのだったが、驚くなかれ一週間後にはなんと、遥々リーヴンくんだりから、婆さんが年端もゆかぬ少年をたずさえて、ひょっこり到着したのである。
「わたしはね、亡くなったボリース・チモフェーイチの従妹でしてね、この子はわたしの甥のフョードル・リャーミンでござんす」――という挨拶。
 カテリーナ・リヴォーヴナは二人を中へとおした。
 両人が到着するとから、カテリーナ・リヴォーヴナが中へ通すまで、一部始終をうかがっていたセルゲイの顔は、ハンカチのようにまっ蒼になった。
「どうかしたの?」――お客さんのあとから彼がはいって来て、じろじろ二人の様子を眺めながら控室に立ちどまった時、その死人のような色の蒼さを見て、おかみさんが尋ねた。
「いいやべつに」と、控室から玄関へ引き返しながら、番頭は答えた。――「ただね、このリーヴンのお客さんがたは、気分きーぶんに障りやすぜ」――そう彼は、玄関の戸を後ろ手にしめながら、溜息まじりに洒落のめした。
「さてそこでと、一体どうしたもんですかな?」――とセルゲイ・フィリップィチが、カテリーナ・リヴォーヴナに問いかけたのは、二人がサモヴァルに向って腰をおろした時だった。――「どうやらこれで、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしらの大望もおじゃんですぜ。」
「なぜおじゃんなんだい、ええセリョージャ?」
「だってさ、これで何もかも洗いざらい、分け取りってことになるんでしょう。その挙句に残ったなけなしの物じゃ、さっぱり主人になり甲斐がなかろうじゃありませんかい?」
「おやセリョージャ、お前さんには少なすぎるとでも言うのかい?」
「いいや、べつにあっしにどうのこうのと言うんじゃありませんがね。ただちょいと心配なのは、そうなるとつまり、あっしたちの仕合わせにも差し響きはすまいかと、そんな気がするもんでしてね。」
「そりゃまたなぜなのさ? どうして仕合わせまでが消えてなくなるんだい。ええ、セリョージャ?」
「ほかでもありませんがね、あんたが可愛くって可愛くってならねえあっしの気持にして見りゃ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あんたに正真正銘の奥様ぐらしをこそして貰いたいんで、これまでみたいなミミッチイ暮らしなんぞ、まっぴら御免でさあ」と、セルゲイ・フィリップィチは答えた。――「ところが賽の目はがらり外れて、今度こうして元手が減ったおかげで、あっしたちは今までにくらべてさえ、二段も三段もさがった暮らしをしなけりゃならないんでさあ。」
「けどね、セリョージャ、あたしはべつに、贅沢なんかしたくはないことよ。」
「なるほどそりゃあ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あんたにして見りゃ、痛くも痒くもないことかも知れませんや。だがね、少なくともあっしの身にしてみりゃあ、あんたを大事に思えば思うだけ、また一つにゃ、焼いたりねたんだりしている世間の野郎どもの目に、あっしたちの暮らしがどう映るだろうかと思うにつけ、なんとしてもこりゃ辛いことでさあ。あんたは勿論、平気の平左でいられるかも知れませんがね、あっしはどうも、万一そんな工合になったら、とても仕合わせな気持じゃいられそうもありませんや。」
 といった調子で、追っかけ引っかけセルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナを焚きつけるのであった。つまり、自分はあのフェージャ・リャーミンのおかげで、みじめな男になり下ってしまった。それというのも、彼女――すなわちカテリーナ・リヴォーヴナを、商人仲間ぜんたいの前に、天晴れ堂々たる御寮人様として押しだすすべを、今ではなくしてしまったからだ……というのである。そして、この口説にセルゲイがつける結論はいつもきまって、もしあのフェージャという者がなく、おまけに彼女――すなわちカテリーナ・リヴォーヴナが、良人の失踪の日からかぞえて九カ月に満たぬうちに、首尾よく赤んぼを産み落としさえしたら、資本は残らずごっそり彼女のものになって、そうなったらもう彼ら二人の幸福には終りも涯しもあろうはずはあるまいと、結局はそこに落ちつくのであった。

      ※(ローマ数字10、1-13-30)

 ところがその後、セルゲイはぱったり跡取り息子の話をしなくなった。セルゲイの口に、跡とりの話がのぼらなくなるや否や、フェージャ・リャーミンの面影は却ってはっきりと、カテリーナ・リヴォーヴナの脳裡にも胸中にも根をおろしてしまった。それのみか、彼女は物思いがちになり、当のセルゲイに対しても、愛想のない顔を見せるようになった。夢寐の間だろうが、店の采配を振っている最中だろうが、神に祈りをささげる時だろうが、彼女の想いはただ一つ、――『そんな筈ってあるもんだろうか? まったく、なんだってわたしは、あの子のために資本もとも子もなくしちまわなくちゃならないんだろう? 何しろわたしは、ここまで辛い思いをして来たのだ。……ここまで罪障ぶかい真似までして来たのだ』と、カテリーナ・リヴォーヴナは考えるのである、――『だのにあいつは、のほほんと此処へやって来て、濡手で粟と掻っ浚って行くんだ。……それも一人前の男ならまだしものこと、たかが口のまわりに卵の黄身のついた子供のくせにさ。……』
 はやくも初霜がおりはじめた。ジノーヴィー・ボリースィチが、相変らず消息不明だったことは、申すまでもあるまい。カテリーナ・リヴォーヴナはむくむく太りだして、しょっちゅう眉の根を寄せていた。町じゅうもう彼女の噂でもちきりで、あのイズマイロフの若女房は、これまでずっと生まずで、だんだん痩せこける一方だったものが、それが急に正面がせり出して来たのは、そもそもどういう訳だろうかと、しきりに評定し合うのだった。その一方、まだ頑是ない共同相続人のフェージャ・リャーミンは、ふわりとした栗鼠の外套を着て、屋敷うちをぶらついたり、水たまりに張った薄氷を割ったりしていた。
「あれまあ、坊っちゃん! あれまあ、フョードル・イグナーチエヴィチ!」と、おさんどんのアクシーニヤが中庭を小走りに抜けながら、頓狂な小言をいうのだった、――「れっきとした商家の坊っちゃんのくせしてさ、いけませんよ、水たまりを掘ったりなすっちゃ!」
 ところがこの共同相続人たるや、自分がカテリーナ・リヴォーヴナやその意中の人にとって、それほど目の上のたん瘤だろうなどとは露知らず、あどけない仔山羊のようにただもう跳ね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているばかり、且つはまた夜ともなれば、おもり役のおばあさんの胸にもぐり込んで、更に一そうあどけない眠りに落ちて、この自分が誰かの邪魔になったり、その仕合わせをけずったりしていようなどとは、夢にも思いも考えもしない始末だった。
 やがての果てに、フェージャは水疱瘡にかかり、そのうえに感冒性の胸の痛みが併発して、そこで少年は病いの床についた。はじめは薬草だ本草だと手をつくしてみたが、そのうちとうとう医者を迎えにやった。
 医者がしげしげと通って来て、いろいろと処方をしてくれ、その薬を時間どおりに、おばあさんが手ずから飲ませるのだったが、時にはカテリーナ・リヴォーヴナが頼まれることもあった。
「お手数ですがの」と、おばあさんが頼むのである、――「な、カテリーヌシカ。お前さんも追っつけお母さんですわの。その通り身重になって、神さんの思召しを待つばかりのお前さんに、こんな厄介をかけてはまことに済まんがの、まあ宜しくおたのもうしますよ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、婆さんの頼みを、はいはいと聴いてやった。婆さんが、『いたつきの床に臥している童子フョードルの本復』を祈願に、晩祷に出かけたり、聖パンを頂きに早朝のミサに出かけたりするたびに、カテリーナ・リヴォーヴナは病床に附添って、のどが渇くといえば水を飲ませる、時間どおりに薬をあたえる、という甲斐甲斐しさだった。
 さてある晩のこと、婆さんは聖母宮入祭の前夜の夕拝と晩祷に出かけ、フェージュシカの看病をカテリーヌシカに頼んでいった。その頃はもう少年はだいぶ快方に向っていた。
 カテリーナ・リヴォーヴナがフェージャの寝間へはいって行くと、少年は栗鼠の外套をきてベッドに腰かけて、聖者伝を読んでいるところだった。
「何を読んでるの、フェージャ?」と、カテリーナ・リヴォーヴナは肱掛椅子にかけて、少年にたずねた。
「聖者伝ですよ、おばさん。」
「おもしろいこと?」
「ええ、とても面白いの、おばさん。」
 カテリーナ・リヴォーヴナか片手で頬杖をついて、フェージャのもぐもぐ動いている唇を見まもっていたが、そのとき急に悪魔が鎖から抜けだしでもしたかのように、いつもながらあの考え――つまり、この子のおかげで自分はひどい迷惑を蒙っている、この子がいなかったらさぞさばさばするだろうに、という考えが、むらむらっと胸に湧いてきた。
『ほんとにそうだったわ』と、カテリーナ・リヴォーヴナは思うのだった、――『この子は病気で薬をのんでるんだわ。……病気のときは、えてして色んな故障が起りがちなものだ。……万一のことがあったところで、医者がつい盛り違えをしたんだろう――くらいなところで、済んでしまうに決まってるわ。』
「そろそろ薬の時間じゃないこと、フェージャ?」
「ええ、どうぞ、おばさん」と少年は答えてスプーンを一啜りすると、こう言い添えた、――「とても面白いですよ、おばさん、いろんな聖者さまのことが、うまく書いてあるんですよ。」
「へえ、まあたんとお読みな」――カテリーナ・リヴォーヴナはぽつりと言ったが、冷やかな眼ざしで部屋のなかを見まわしながら、やがて霜の絵模様がべったり附いている窓に視線をとめた。
「窓の鎧戸をおろすように言わなくちゃいけないわ」と彼女は言うと、客間へ出てゆき、そこから広間へ抜けて、やがて二階の自分の部屋へはいると、ちょっと腰をおろした。
 五分ほどすると、その二階の部屋へ、羊皮の半外套にふかふかしたオットセイの笹べりのついたやつを着込んだセルゲイが、むっつり黙ってはいって来た。
「窓は閉めさせたかい?」とカテリーナ・リヴォーヴナは聞いた。
「閉めさせました」とセルゲイは答えると、心切しんきりで蝋燭の心をつまみ、ストーヴの前に立ちどまった。
 沈黙がおとずれた。
「今夜の晩祷は、なかなかお仕舞いにやならないだろうね?」と、カテリーナ・リヴォーヴナがたずねた。
「大祭日の前夜ですからね、お勤めは長いはずですよ」と、セルゲイが答える。
 またもや話がとだえた。
「ちょっとフェージャを見に行ってくるわ、一人ぼっちでいるからね」と、腰をもちあげながら、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
「一人ぼっちですって?」――じろりと上眼づかいに、セルゲイが聞き返した。
「一人ぼっちさ」と、ひそひそ声で彼女は答えて、――「それがどうしたの?」
 ふと二人の眼から眼へ、なにか稲妻のようなものがさっと閃めいた。だがもうそれっきり、お互いに一ことも言わなかった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは下へおりて、人気のない部屋から部屋へと抜けていった。どこもシンとしている。みあかしが静かに燃えている。壁づたいに自分の影が走りまわる。鎧戸のしまった窓は、そろそろ融けはじめて、しずくが筋をひいて流れる。フェージャは相変らず腰かけて、本を読んでいる。カテリーナ・リヴォーヴナの姿を見て、彼はただこう言っただけだった。――
「おばさん、この本をしまって下さいな。それから済みませんが、聖像棚にのっているあの本を取って下さい。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは甥の頼みをきいて、その本を取ってやった。
「そろそろ寝たらどう、フェージャ?」
「いいえ、おばさん、僕おばあさんの帰るまで起きています。」
「起きていたって仕様がないじゃないの?」
「だって、晩祷の聖パンを頂いて来てくれるって、約束したんですもの。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは急に蒼い顔をした。腹のなかのわが子が、みぞおちの辺で初めてぶるんと動いて、寒気が胸のなかを突っぱしったのである。暫くそのまま部屋のまん中にたたずんでいたが、やがて冷たくなった両手をこすりこすり出ていった。
「さあ!」――彼女はそっと自分の寝室へあがると、そうささやいた。セルゲイは相変らずストーヴの前の、元の場所に立っていたのである。
「え?」――聞こえるか聞こえないくらいの声でセルゲイは問い返し、そこで唾にむせた。
「一人ぼっちでいるのさ。」
 セルゲイはぴくりと眉をうごかし、苦しそうな息づかいになった。
「さ行こう」――ぱっと扉の方へ向きなおって、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
 セルゲイは手ばやく長靴をぬぐと、こうたずねた。――
「何を持っていく?」
「いらない」――気音だけでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、男の手を引いてそっと案内していった。

      ※(ローマ数字11、1-13-31)

 病気の少年は、三たびカテリーナ・リヴォーヴナがはいってくるのを見ると、ぎくりとして、本を膝へとり落した。
「どうかしたの、フェージャ?」
「ああ、おばさん、僕ただ、なんだかびっくりしたの」と少年は、おずおずと頬笑みながら答えて、ベッドの隅へ身をにじらせた。
「何をびっくりしたのさ?」
「だって、誰か一緒にきたんじゃなかった、おばさん?」
「どこに? 誰も一緒になんか来やしませんよ。」
「だあれも?」
 少年はベッドの裾の方へ伸びあがって、眼をほそめて、今しがたおばさんのはいって来たドアの方角を眺めたが、それで安心がいったらしい。
「きっと、そんな気がしただけだったのね」と、少年は言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナは立ちどまると、甥のベッドの枕もとの屏風びょうぶ板に両肘をついた。
 フェージャはおばさんの顔を振り仰いで、なんだかひどく顔色がわるいのねと言った。
 そう図星を指されてカテリーナ・リヴォーヴナは、出まかせに空咳を一つしてみせ、期待のまなこで客間のドアを見やった。そこではただ床板が、みしりとかすかに鳴っただけだった。
「今ね、ぼくの守り神の聖フェオドル・ストラチラートの一代記を、読んでるところなんです。神様に仕えるっていうのは、なるほどあれでこそ本当なんですね。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙然と立っていた。
「ねえおばさん、そこへお掛けにならない、僕もう一ぺん読んであげるから。いいでしょう?」と、甥は甘えかかった。
「ちょっと待って。今すぐ、広間のお灯明を直して来ますからね」と、カテリーナ・リヴォーヴナは答えるなり、いそぎ足で出ていった。
 やがて客間で、じつに微かなひそひそ声がした。だがそのささやきは、何せあたりが森閑としているものだから、子供のさとい耳につたわって来た。
「おばさん! それなあに? そこで誰と、そんなひそひそ声で話してるの?」と、少年は涙ごえで呼びかけた。――「ここへいらっしゃいよ、おばさん。僕こわい。」
 そう、一秒ほどすると少年はまた追っかけて、これはもう殆ど泣き声になって呼んだが、と同時にカテリーナ・リヴォーヴナが客間で『さあ!』と言ったのが聞え、少年はそれを自分に掛けられた声かと思った。
「何がこわいのさ?」とカテリーナ・リヴォーヴナは、決然たる足どりでつかつかとはいって来ながら、なにか嗄れたような声で問いかけて、そのまま客間のドアをわが身で病人の眼からさえぎるような恰好で、ベッドの前に立ちふさがった。――「もうお寝なさい」と、すぐまた続けて彼女は少年に言った。
「だっておばさん、ぼく睡くないもの。」
「いいえ、フェージャ、いい子だからもうお寝なさい……時刻ですよ……もうお寝なさい」とカテリーナ・リヴォーヴナはくり返した。
「どうしてなの、おばさん! 僕ちっとも睡くないのにさ。」
「いいえ、寝なくちゃ駄目、寝なくちゃ駄目」と、カテリーナ・リヴォーヴナは又しても声変りのした、おどおど声でくり返しざま、少年の腋の下をかかえて、むりやり枕につかせた。
 その瞬間、フェージャは狂気のような悲鳴をあげた。まっ蒼な顔をして跣足ではいって来たセルゲイを、少年は見たのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは自分の手の平でもって、おびえあがった子供が恐怖のあまり開けた口をふさいで、こう叫んだ。――
「さ、早くおし。しっかり抑えて、じたばたさせるじゃないよ!」
 セルゲイがフェージャの両手両足をつかまえると、カテリーナ・リヴォーヴナはあっという間もない早業で、受難のあどけない小さな顔を大きな羽根枕でふさいで、その上から自分のぴちぴちした硬い胸でもって、ぐいと乗りかかった。
 ものの四分間ほど、部屋のなかは墓場のような沈黙だった。
「さ、お陀仏だ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、どれ後始末をしようと身をもたげたその刹那、度かさなる犯罪を秘めて森閑としているその家の四壁が、耳を聾せんばかりの打撃を受けて、ぴりぴりと震動しだした。窓ががたつく、床板がゆらゆらする、吊るしてあるお灯明の鎖がふるえだす、という騒ぎである。それのみか、壁から壁へまぼろしのような影が、ちらちらする始末だった。
 セルゲイはがたがた顫えて、一目散に駈けだした。カテリーナ・リヴォーヴナはそのあとを追ったが、ざわめき立つ物音も二人のあとを追って来た。さながらそれは、何かしら地上のものならぬ威力が、罪ぶかい家を土台骨まで揺さぶっているようだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナの心配したのは、セルゲイが恐怖のあまり我を忘れて中庭へ駈けだし、そのとりみだした態度で衆人の疑念を買いはしまいかということだったが、案に相違して彼は、まっすぐ屋根裏へ突進していった。
 階段を駈けあがりきったところで、セルゲイは暗がりの悲しさ、半びらきになっていたドアに嫌っとこさ額をぶつけて、ううんと一こえ、いきなり下へ転がり落ちた。迷信も手つだった恐怖のあまり、まったく無我夢中だった。
「ジノーヴィー・ボリースィチ、ジノーヴィー・ボリースィチ!」と、彼は呟きながら、まっさかさまに階段をころげ落ちるのだったが、その拍子にカテリーナ・リヴォーヴナも足をさらわれて、とんだ道づれにされたのである。
「どこにさ?」と彼女がたずねた。
「そら、あっしらの頭のうえを、鉄板を持って飛んで行きやしたぜ。そらそら、また来た! うわあ!」と、セルゲイがさけぶ。――「鳴りだした、また鳴りだした!」
 もうその頃は、事情はすこぶるはっきりしていた。つまり大勢の人が手んでに窓を表から叩いているのだ。なかには玄関の戸を押し破ろうとしている者もある。
「馬鹿だね! お起き、みっともない!」と、カテリーナ・リヴォーヴナはどなりつけると、その声の終らぬうちにいっさんにフェージャのところへとって返し、少年の死首をいかにも自然に眠っているような恰好に枕のうえに安置してから、群衆が押しこもうと犇めきあっている玄関の戸を、しっかりした手で明けはなった。
 見るもすさまじい光景だった。カテリーナ・リヴォーヴナが、玄関をとり巻いている群衆の頭ごしに見渡すと、高い塀を乗り越え引っ越え一波また一波と、見知らぬ連中が屋敷うちへなだれ込んでくる。往来はまた往来で、人ごえが一つの呻き声になって立っている。
 カテリーナ・リヴォーヴナが呆気にとられているうちに、玄関をかこんでいた群衆は彼女をもみくしゃにして、どっと室内へ押し戻してしまった。

      ※(ローマ数字12、1-13-55)

 ところでこの大騒ぎは、じつはこういうわけだった。――年に十二の大祭日の前夜におこなわれる晩祷には、たかだか郡役所のある町にすぎぬとはいえ、カテリーナ・リヴォーヴナの住んでいるようなかなり大きな工業都市になると、教会という教会はぎっしり人波でうずまるのであったが、しかもそれが、あす祭壇のしつらえられる教会だと、境内は林檎の実ひとつ落ちる隙もなくなってしまう。そこでは通例として、商家の若者から選抜された唱歌隊が、おなじく声楽のアマチュアの中から選ばれた特別の音頭とりに率いられて歌うことになっている。
 わが国びとは信心ぶかく、教会がよいがなかなか熱心であるが、したがってまた、それ相応に芸術ずきでもある。けだし教会の諸式に荘厳をつくし、きれいにそろった『たえなる』の唱歌を聴くことは、彼らにとって最も高尚でも最も清らかでもある慰めの一つなのだ。唱歌隊がうたうと聞くと、そこには忽ち町の人口の半ばちかくが押し寄せるのだが、とりわけ熱心なのは商家の若者たちである。番頭衆も子供たちも若い衆も、大小さまざまの工場の職工も、それのみか当の主人たちまでが細君同伴で、われもわれもと一つ教会へ押しかける、それがみんな、せめて表の昇り口にでも割りこめさえしたらいい、いや焼けつくような炎暑の日だろうと、ぴりぴりするような酷寒の日だろうと、窓の下でさえ結構がまんするが、とにかく音程がいかに歌いこなされるか、そして天馬空をゆく如きテノールが気まぐれ千万な前打者フォルシラークをいかにやってのけるかを、しかと聴きとどけずには気の済まぬ連中なのである。
 イズマイロフ家の檀那寺には、聖母の宮入りを祝う祭壇があったので、さてこそこの祭日の前の晩、あたかもフェージャの一件がおこなわれた丁度その時刻には、町じゅうの若者がその寺に集まっていたのであったが、やがて騒々しい人波をなして退散しながら、さすがは音に聞こえたテノールだけあって天晴れな歌いぶりだったとか、おなじく有名なバスでありながらどこそこでトチッたとか、口々に評定しあうのだった。
 ところで、みんながみんな声楽の批評に夢中になっていたかというと、必らずしもそうではなくて、群集の中にはほかの問題に興味をもった連中もあったのである。
「だがね皆の衆、あのイズマイロフの若女房にも、変てこな噂があるじゃないか」と、イズマイロフの店さきに差しかかろうとするころ口火を切ったのは、ある商人がその蒸汽じかけの製粉所のためペテルブルグから引っ張って来た若い機関士で、――「世間の噂じゃ、あの女はわが家の番頭のセリョーシカと明けても暮れても乳くり合ってるというじゃないか……」
「そいつはもう、隠れもない語り草さ」と青もめんで表を張った毛皮外套の男が応じた。――「現に今晩だって、お寺にや姿を現わさなかったじゃないか。」
「どうしてお寺どころかい? あの淫乱ものと来た日にゃ、すっかり性根が腐っちまって、神さまも、良心も、人目も、何ひとつ怖いものなしだよ。」
「おい見ろよ、あかりがついてるぜ」と機関士が、鎧戸のすきから漏れる光の筋を指しながら言った。
「ひとつ覗いて見るんだね、一たい何をしてるのか」と、二三人の声が合わさった。
 機関士は仲間の肩二つを足場に伸びあがって、やおら鎧戸に眼をあてがったと思うととたんに頓狂な声をあげた。――
「おいおい、みんな! 首をしめてるぞ、おい、首をしめてるぞ!」
 そう言いざま、もろ手で必死に鎧戸をたたきはじめた。十人ほどの同勢がそれにならって、窓にとびついて拳をふるいはじめた。
 みるみるうちに群衆は数を増して、先刻われわれの見たようなイズマイロフ家の包囲が現出したのである。
「あっしが見たんです、この眼でしかと見とどけたんです」と機関士はフェージャの死体について証言するのだった、――「この子をベッドの上に組み伏せて、二人して首をしめていたんです。」
 セルゲイはその晩ただちに拘束され、カテリーナ・リヴォーヴナは上の部屋へ押しこめられて、見張りが二人ついた。
 イズマイロフの家は、とても堪らぬほど寒かった。ストーヴに火の気はないし、ドアも片時として閉まっているひまがなかった。物見だかい連中がぎっしり群れをなして、入れ替り立ち替り押しかけたのである。一同がやって来る目あては、お棺のなかに寝ていたフェージャと、もう一つ、幅のひろい掛布で蓋ごとすっぽり蔽われている大きな棺を見ることだった。フェージャの額ぎわには、聖像を描いた繻子のきれが載っていて、頭蓋骨を解剖したあとに残った赤い傷痕を隠していた。警察医が解剖し結果、フェージャは窒息死をとげたものと判明したが、やがて死体の前へ引きだされたセルゲイは、おそろしい最後の審判のことや、悔い改めぬ者たちにくる刑罰のことを、坊さんがやおら説きはじめると、忽ちさめざめと涙をながして、フェージャ殺しを正直に白状に及んだばかりでなく、埋葬の手続きもとらずに彼が埋めてしまったジノーヴィー・ボリースィチを掘り出して頂きたいと願いでた。カテリーナ・リヴォーヴナの良人の死体は、乾いた砂の中に埋められていたのでまだ腐れ切ってはいなかった。そこで引っぱり出して、大きな棺に納めた。この二つの犯罪の共謀者としてセルゲイが挙げたのはほかならぬ若い内儀かみさんの名だったので、世間はふるえあがってしまった。カテリーナ・リヴォーヴナはいくら訊問されてもただもう『知らぬ存ぜぬ』の一点ばりだった。そこでセルゲイに対決させて、彼女の口を割らせることになった。男の自白をききおわると、カテリーナ・リヴォーヴナは呆れて物も言えぬといった風に彼をみつめたが、さりとて怒りの色は見えず、やがて平気な顔でこう言った。――
「この人がそれを言う気だったのなら、何もわたしが頑ばることはありません。いかにも殺しました。」
「どうしてそんなことをしたのか?」と訊かれると、
「この人のためにです」と、うなだれているセルゲイを指して答えた。
 犯人は別々に収監され、そして世間の注目と憤慨の的になったこの兇悪事件は、すこぶる手っとり早く判決がくだった。二月の末、セルゲイと、第三級商人の寡婦カテリーナ・リヴォーヴナの二人は、刑事裁判所で刑の申渡しを受けたが、それによると、まずその居住する町の市場で笞打ちを受けたのち、二人とも徒刑地へ送られることになった。三月のはじめ、てつくような寒い朝、刑吏はカテリーナ・リヴォーヴナのむき出しになった白い背中の上に、定めの数だけの青むらさきのミミズ腫れをしるしづけ、つづいてセルゲイの両肩にもきまった本数の鞭をふるった上、彼の美しい顔に徒刑の焼印を三つおしたのである。
 そうした処刑のあいだ、世間の同情はどうしたわけだか、カテリーナ・リヴォーヴナよりも遥かに多くセルゲイの上に集まった。全身あぶら汗と血にまみれて、彼は黒い処刑台から下りるとき何べんか前へのめったが、カテリーナ・リヴォーヴナは落着きはらって下りてきた。ただ厚地の肌着と、ごわごわした囚人外套が、なま傷だらけの自分の背中にへばり着かぬように気をくばっていただけのことだった。
 監獄病院で、生まれ落ちた赤んぼを渡された時でさえ、彼女は『ふん、もう用無しだわ!』と言ったきり、くるりと壁の方へ寝がえりを打って、うめき声一つ、泣きごと一つ立てるではなしに、ごつごつした板どこに胸をぶつけるように倒れたのだった。

      ※[#ローマ数字13、89-5]

 セルゲイとカテリーナ・リヴォーヴナの加わった囚人隊の出発は、春といってもほんの暦の上だけのことで、太陽がまだ下世話にいうとおり、『ぎらぎらしちゃ来たが、まだぽかぽかして来ねえ』頃のことになった。
 カテリーナ・リヴォーヴナの生んだ子の養育は、ボリース・チモフェーイチの従妹にあたる例の婆さんにまかされた。罪の女の殺された良人の嫡男と認められた以上、この子は今やイズマイロフ家の全財産を相続すべき唯ひとりの人物となったわけである。カテリーナ・リヴォーヴナはこれを頗る満足に思って、しごく冷静な態度で赤んぼを引渡した。情熱的すぎる女の愛はえてしてそうしたものだが、子どもの父親にたいする彼女の愛は、いささかたりとも子どもの上には移らなかったのである。
 とはいえ、彼女にとっては今やこの世に、光明も暗黒も、不幸も幸福も、わびしさも喜びもなかった。彼女にはなんにも分らず、誰ひとり愛するでもなければ、自分を愛する気もしなかった。彼女はただもう囚人隊の出発の日を待ちこがれ、そうなれば可愛いセリョーシカに再会する折もあろうかと思うばかりで、子どものことなんかてんで念頭になかったのだ。
 カテリーナ・リヴォーヴナの希望は裏ぎられなかった。重たそうな鎖をひきずり、顔に焼印をおされたセルゲイは、彼女と同じ組になって、監獄の門をあとにしたのである。
 一たい人間というものは、どんな忌わしい境遇に陥っても、なんとかしてそれに馴染もうとするものだし、どんな境遇にあっても、できるだけ自分の無けなしの喜びを求める力を失わぬものである。ところがカテリーナ・リヴォーヴナにとっては、順応などという面倒な手数はてんから入らなかった。セルゲイとの再会がかなった――彼さえいてくれれば、徒刑地への道中も幸福に光りかがやくのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナが縞の麻袋に入れて持って出た金目のものは、ほんの僅かだったし、現金に至っては尚更のこと少なかった。しかもそれをみんな、まだニジニ・ノーヴゴロドにも着かない先に、護送の下士どもにばらまいてしまった、道中をセルゲイと肩をならべて歩かせてもらい、闇の夜には囚人駅舎の寒い廊下の隅っこに彼と抱きあって小一時もいさせてもらう――その目こぼしにあずかるためにである。
 ただし、カテリーナ・リヴォーヴナの焼印つきの情夫は、どうしたものかひどくつれない態度を見せるようになった。何か言いかけては、ぶつりと黙りこんでしまう。こっそり逢う瀬を楽しみたいばかりに、彼女が飲まず食わずで我慢して、ともしい財布の底から虎の子の二十五銭玉を呉れてやっているのに、セルゲイは大して嬉しい顔を見せないばかりか、却ってこう言い言いしたものだった。
「なあお前さん。こんな廊下の隅っこへ俺とべたつきに出てくるよか、その下士にやった銭を俺によこしたらいいになあ。」
「たった二十五銭しかやりゃしないのよ、セリョージェンカ」と、カテリーナ・リヴォーヴナが言訳をする。
「二十五銭は金のうちにゃはいらないのかい? その二十五銭という奴を、お前さんだいぶ道々拾っていたっけが(訳者註。投げ銭を拾うのである)、ばらまいた数だって、もう相当なもんだぜ。」
「だから、セリョージャ、ちょいちょい逢えたじゃないの。」
「ふん、飛んだこった。さんざ辛い目をした挙句に、ちっとやそっと逢えたところでくそ面白くもねえじゃないか! 自分のいのちを呪うのが本当だ、逢曳どころの騒ぎじゃねえぜ。」
「でもセリョージャ、あたしは平気だよ。お前さんに遭えさえすりゃあ。」
「ばかなはなしさ」とセルゲイは答える。
 そうした返事を聞くたびに、カテリーナ・リヴォーヴナは思わず唇を、血のにじむほど噛みしめる。さもなければ、ついぞ泣いたことの無い彼女の眼に、無念さ怨めしさの涙が夜更けの逢う瀬の闇にまぎれてあふれ出る。けれど彼女はじっと腹の虫をおさえて、じっと口に蓋をして、われとわが心をあざむこうと努めるのだった。
 そんなふうな新しいお互いどうしの関係のまま、二人はニジニ・ノーヴゴロドに着いた。ここで彼らの囚人隊は、やはりシベリヤをめざしてモスクヴァ街道からやって来た別の一隊と落ち合った。
 それは大人数の一隊だったが、色々さまざまな連中がどっさりいる中で、婦人班にすこぶる附きの別品べっぴんが二人いた。一人はヤロスラーヴリから来たフィオーナという兵隊の女房で、その大柄な身丈といい、ふさふさした黒い渦まき髪といい、悩ましげな鳶色の眼のうえにさながら何か摩訶ふしぎなヴェールのように濃い睫毛がかぶさっているところといい、実になんとも素晴らしい派手な感じの女だった。もう一人は十七になるきりりとした顔だちの金髪娘で、白い肌にはうっすらとバラ色が射し、口もとは小さく締まり、若々しい両の頬にはエクボがあって、金色に光る亜麻色の捲毛が、囚人用の縞入り頭巾のすきから額へちらちらこぼれかかる、といった風情だった。この娘をその隊ではソネートカと呼んでいた。
 美人のフィオーナは、柔和なしまりのない気性の女だった。彼女の隊で、その肌を知らない男はまずいないと言っていいくらいだったが、さて首尾よく彼女をせしめたところで大して恐悦がる男もなければ、彼女が次の男に全く同じ首尾をさせるところを見せつけられても、誰ひとり悲観する者もなかった。
「うちのフィオーナおばさんは観音さんみたいなものさ。誰の気もそらさねえからな」と、囚人たちは異口同音にそんな冗談口をたたくのだった。
 ところがソネートカになると、話ががらりと違う。
「ありゃあウサギの性だよ。手のまわりをぬらりくらりするばかりで、いつかな手に入らねえや」という評判である。
 ソネートカにはちゃんと好みがあり、一歩も譲れぬ註文があった。それも只の註文ではなく、頗るきびしい註文と言えるかも知れない。色恋をなまのまま皿に盛って出したのでは、彼女はいつかな食指を動かさない。ぴりりと舌にくる薬味――つまり苦労や犠牲が、ぜひとも入用なのだ。それに引きかえフィオーナは、例のさばさばしたロシヤ流儀まる出しで、寄ってくる相手に『うるさいわね』などと剣突を食わすことさえ第一面倒くさく、自分が女一匹だということのほかは何一つ念頭にないのだった。こうした女性は、集団強盗とか囚人隊とか、またはペテルブルグの社会民主主義団体とかいった仲間では、殊のほか珍重されるのである。
 さて右のような二人の女性が、セルゲイやカテリーナ・リヴォーヴナと一つ隊の仲間として出現したことは、後者カテリーナにとって悲劇の種になったのだった。

      ※[#ローマ数字14、94-2]

 一つに合わさった囚人隊はニジニ・ノーヴゴロドをたって、カザンをさして進みはじめたが、そうしてまだ三日とたたぬうちから、セルゲイが目に見えて兵隊の女房フィオーナの機嫌をとりだし、めでたく肘鉄砲を食わずに済んだ。悩ましげな眼をした美女フィオーナは、持前の気の好さから、今日まで誰にも悩みを与えなかったと同様に、セルゲイをも悩まさなかったのである。三度目か四度目の宿営地に着いた日、カテリーナ・リヴォーヴナは薄暗くなるかならなぬうちから例の袖の下を使って、可愛いセリョージェチカとの逢曳の手筈をととのえ、一まず横にはなったが眠らずにいた。当番の下士がはいって来、そっと自分の小脇をつつき、『おい早く行け!』と耳うちしてくれるのを、今か今かと待ち構えていたのだ。戸が一度あいて、どの女だかすばやく廊下へ姿を消した。もう一ぺん戸があいて、やがてまた板どこから跳び起きてやはり案内人のあとについて消え失せた女囚があった。暫くするとやっとのことで、カテリーナ・リヴォーヴナのすっぽりかぶっている外套が、ぐいと引かれた。若い女は、囚人たちの脇腹でつるつるに磨きのかかった板どこから素早くとび起き、外套を肩に羽織って前に立っている案内人をつついた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは廊下を歩いて行きながら、ただ一箇所ほの暗い灯明皿の明りがにぶく照らしている場所で、二タ組だか三組だかの連中に突きあたったが、遠見にはそこに人がいる萌しなんぞさっぱり見えないのだった。カテリーナ・リヴォーヴナが男囚の監房の前に通りかかると、戸についている覗き窓から、忍び笑いの声がきこえた。
「ええ、やっていくさる」と、カテリーナ・リヴォーヴナの案内人は腹だたしげに呟いて彼女の肩をつかむと、隅の方へぐいと一突きし、そのまま向うへ行ってしまった。
 カテリーナ・リヴォーヴナが手さぐりすると、片手には外套とあご鬚がさわった。もう一方の手には火照った女の顔がさわった。
「誰だ?」と、セルゲイが小声できいた。
「おや、お前さん何してるの? 誰が相手なの?」
 カテリーナ・リヴォーヴナは暗がりの中で恋仇の頭巾を引っぱがした。向うはするりと横へ抜けると、一目散に逃げだしたが、廊下の中途で誰かにぶつかって、でんぐり返しを打ったらしい。
 男囚の監房からどっと笑い声がおこった。
「わるもの!」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、男の新しい女の頭から引っぱがしたばかりの布の端で、セルゲイの顔を打った。
 セルゲイは手を振り上げようとした。けれどカテリーナ・リヴォーヴナはひらりと身がるに廊下を駈け抜けて、じぶんの監房の戸に取りついた。男囚部屋の笑い声は、彼女の後ろからまたもやどっと揚ったが、それがあんまり高かったので、ちょうど灯明皿の前に無念無想のていで佇んで、じぶんの長靴の先っぽに唾を吐きかけていた番兵が、思わず首をもたげて、
「シーッ!」と叱咤したほどだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙って横になると、そのまま朝までじっとしていた。彼女は自分に向って、『もうあの人には愛想がつきたわ』と言って聞かせたかったが、そのじつ内心では可愛さ恋しさが一そうつのる思いだったのだ。あの人の手のひらがあいつの首の下のあたりでわなわなと顫えていた、のこる片手はあいつの火照った肩を抱きしめていた……そんな光景が、追っても追っても目蓋を去らなかった。
 因果な女はとうとう泣きだして、ああ今この時こそあの手のひらが自分の首の下のへんにあってくれればいい、そして残る片手が自分のヒステリックに波うつ肩をじっと抱きしめてくれればいいと、われにもあらず心に念ずるのだった。
「まあ、とにかくさ、あの頭の布だけは返しておくれよ」とあくる朝、兵隊の女房のフィオーナが彼女を揺りおこした。
「おや、じゃあお前さんだったの?……」
「後生だから返しておくれよ。」
「けどね、なんだって仲を裂くような真似をするんだい?」
「仲を裂くなんて、とんでもないよ。今さらあたしに、好いた惚れたの沙汰があるもんかね! 尖んがらかることは、ちっともないさ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはちょっと思案したが、やがて枕の下から昨夜ひっぺがした頭巾をとり出すと、ぽいとそれをフィオーナに投げてやり、壁の方へ寝返りをうった。
 それで気が軽くなった。
「チェッ」と彼女はひとりごちた、――「あんなたらいに目鼻みたいな女のことで焼餅をやくなんてさ? さっさと失せやがれ! 自分をあんな奴と並べて考えるさえ汚らわしいよ。」
「ねえ、カテリーナ・イリヴォーヴナ、いいですかい」と、あくる日の道中でセルゲイが話しかけた、――「あっしは何もお前さんに対してジノーヴィー・ボリースィチじゃねえんだし、またお前さんにしたところで、今じゃもう大のれんの内儀さんじゃないんだ。そこんとこをよく考えてな、後生だからあまりつんつんして貰いますまいぜ。いくら角を生やしたって、ここじゃもう売物にゃならねえからなあ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれには何とも答えず、その後一週間ほどは、セルゲイと言葉もかわさず眼も見かわさず、ただその傍を歩いていった。そこまで面子メンツをつぶされながら、それでも彼女は気位だけは持ちつづけてセルゲイとの間にはじめて持ちあがったこの痴話げんかに、あえてこっちから和解の第一歩を踏みだす気にはなれなかったのだ。
 さて、そんなふうにカテリーナ・リヴォーヴナが、セルゲイに腹を立てているうちに、セルゲイは例の色白のソネートカを相手に、むだ口を叩いたりふざけたりしはじめた。『おおわが女王さま』とか何とか言って最敬礼するかと思えば、にやにや笑って見せたり、出会いがしらにぐいと抱きしめようと隙をうかがったりする。カテリーナ・リヴォーヴナはそんな様子を見るにつけ、胸の中はますます煮えくり返るばかりだった。
「そろそろ仲直りをした方がいいのじゃあるまいか?」とカテリーナ・リヴォーヴナはつまずきながら、しかも足もとを見やりもせずに、ただもう思案にふけるのだった。
 だがこっちから先に折れて出るのは、今となってはせんだってより以上に、自尊心がゆるさない。そうこうするうちに、セルゲイのソネートカに対するじゃらつきようは益※(二の字点、1-2-22)執拗になって、もはや衆目のみるところ、ウナギのようにぬらりくらりするばかりで手に入らない難攻不落のソネートカも、とみに軟化の色を見せはじめた。
「ねえ、お前さんいつぞやあたしのことを怨んだっけが」と、フィオーナがカテリーナ・リヴォーヴナに言った。――「一たいなんの悪い事をあたしがしたかね? あたしのことなんか、あれっきりもうさばさばしたもんだけど、今度のソネートカにゃ油断しないがいいよ。」
『くだらない自尊心なんか鬼に食われちまえ。今日こそ是が非でも仲直りしなけりゃあ』とカテリーナ・リヴォーヴナは決心して、なんとか巧い仲直りのきっかけはないものだろうかと、そればかり思いつめるのだった。
 この難局から救いだしてくれたのは、意外にもセルゲイその人だった。
「イリヴォーヴナ!」と、彼は小休止のとき彼女を呼んだ。――「今夜ちょいと来てくれないか。話があるんだ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙っていた。
「おやおや、まだ怒っているのかい――じゃ来ないのかい?」
 カテリーナ・リヴォーヴナはこれにも返事をしなかった。
 だがセルゲイのみならず、その日カテリーナ・リヴォーヴナの様子を見ていた連中の目には、そろそろ営舎が近くなりだすとともに彼女がしきりに古参の下士につきまといはじめて、とうとうしまいに、娑婆の人びとの投げ銭を拾いあつめた十七銭を、その下士に握らせるのが見てとれた。
「また溜ったらもう十銭あげるわよ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは一生けん命だ。
 下士は袖口の折返しに小銭をしまって、
「よしよし」と言った。
 セルゲイは、この談判がめでたく終了するのを見とどけると、咳ばらいをして、ソネートカに目くばせした。
「ああ、おれの大事なカテリーナ・リヴォーヴナ!」と彼は、営舎の昇り口のところで彼女を抱きしめながら言った。――「なあみんな、なんぼ世界が広くたって、この女に及ぶようなのは一人もいないぞ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、嬉しさのあまり赤くなったり息をはずませたりだった。
 夜が更けたかと思うと、そっと戸があいたので、彼女はいきなり跳び起きた。わくわくしながら、暗い廊下にセルゲイを両手でさぐった。
「おれのカーチャ!」と、ぎゅっと抱きしめざまセルゲイが言った。
「あ。あんた、憎らしい人!」と、涙ごえでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、そのまま両の唇で吸いついた。
 番兵が廊下を行ったり来たりしていて、ふと立ちどまって長靴の先に唾をする。そしてまた歩きはじめる。戸のなかでは疲れた男囚たちがいびきをかき、鼠がストーヴのかげで鵞ペンをかじる。コオロギがわれ劣らじと声をはりあげて歌っている。カテリーナ・リヴォーヴナは、まだうっとりとわが身の幸に酔っている。
 だがやがてその陶酔にも倦きがきて、散文が聞えだすのはけだし止むをえない。
「死にそうに痛むんだよ。くるぶしの附け根から膝がしらのとこまで、骨ががくんがくんて唸りやがるんだ」とセルゲイが、廊下の隅の床べたにカテリーナ・リヴォーヴナと寄り添って坐りながら、ぐちをこぼす。
「どうしたらいいだろうねえ、セリョージェチカ?」男の外套の裾にもぐりながら、彼女が心配そうにきく。
「まあ仕方があるまいな、カザンの病院に入れてでももらうほかにゃ。」
「まあ、縁起でもない、どうしたのさ、セリョージャ?」
「だって仕様がないじゃないか、今にも死にそうに痛むんだものな。」
「じゃあ、お前さんが後に残って、あたしだけ追っ立てられて行くのかい?」
「どうも仕方がないさ。こすれるんだ、それこそ猛烈にこすれるんだよ、まるで鎖がまるごと骨の中へ食いこみでもするようにな。せめて毛の長靴下でも穿いてたらいいんだがなあ」と、やや間合いを置いてセルゲイが言いだした。
「長靴下だって? そんならあたしのとこにまだあるよ、ねえセリョージャ、新しいのがさ。」
「いいや、それにや及ばねえよ!」と、セルゲイは答えた。
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれなりもう何も言わずに、すばやく部屋の中へ姿をかくすと、寝板のうえの自分の背負い袋をかきまわして、また急いでセルゲイのそばへ取って返した時には、厚手の青い色をした旅行用の長靴下のけばけばしい側筋のはいったものを、一足ぶらさげていた。
「やあ、これでもう大丈夫だ」とセルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナと別れしなに、彼女の最後の靴下をとりあげながら言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナはしんから嬉しくなって、じぶんの寝板へ戻ってくると、ぐっすり眠ってしまった。
 眠った彼女の耳にはきこえなかったが、じつは彼女が戻ってきて暫くすると、ソネートカが廊下へ出ていって、そろそろ夜の白みだす頃に、こっそり帰ってきたのである。
 それはカザンまであと二丁場という晩の出来事だった。

      ※[#ローマ数字15、102-8]

 寒々と暗雲の垂れこめた日が、時おり思いだしたように吹きつける風と雨を伴なって、雪をさえちらつかせながら、息づまるような営舎の門をあとにした囚人隊を、剣もほろろに出迎えた。カテリーナ・リヴォーヴナはかなり元気な様子で出て来たが、隊伍に加わったかと思うと、たちまち全身わなわなと顫えがついて、まっ蒼な顔になってしまった。眼のなかはまっ暗やみになり、節々はうずきだして、今にもへたへたと崩折れそうだった。カテリーナ・リヴォーヴナの前に立っているソネートカのはいていたのは、例のけばけばしい側筋わきすじのはいった、まがい方ないあの青い毛の靴下だったのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、まったく生きた心地もないままで、その日の道中に出でたった。ただその両眼は裂けんばかりにセルゲイをみつめて、片時もその顔からそれなかった。
 最初の小休止のとき、彼女は落着きはらってセルゲイのそばへ寄っていって、『恥しらず』とささやいた拍子に、思いもかけずその顔へ真向から唾を吐きかけた。
 セルゲイは彼女に躍りかかろうとしたが、はたの者に引きとめられた。
「覚えてろ、このあまめ!」と彼は言って唾をふいた。
「だがどうも大したもんだぜ、あの女、おめえなんかにビクともしねえや」と、囚人たちがセルゲイをからかう中で、一きわ賑やかな笑い声を立てたのはソネートカだった。
 ソネートカが一役買って出たこのちょいとした一幕は、ぴったり彼女の好みに合ったのである。
「なんにしろこのままじゃ済まねえから、そう思ってろよ」と、セルゲイはカテリーナ・リヴォーヴナに捨てぜりふを言った。
 悪天候のもとの強行軍にへとへとになって、カテリーナ・リヴォーヴナは次の営舎の板どこの上で、傷ついた胸をいだきながら、その夜ふけ不安な夢路をたどっていた。したがって彼女は、女囚部屋へ二人の男がはいって来た気配に気がつかなかった。
 彼らがはいってくると、ソネートカが寝板から身をもたげて、無言のままカテリーナ・リヴォーヴナを指して見せると、またごろりと横になって、外套にくるまってしまった。
 と、その瞬間、カテリーナ・リヴォーヴナの外套がぱっとその頭にかぶさったと思うと、目の粗いシャツ一枚の彼女の背なかへ、二重により合わせた縄のずんぐりした先っぽが、百姓のくそ力いっぱいに、ぴしりぴしりと振りおろされはじめた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、きゃっと悲鳴をあげたが、なにせ外套をすっぽり頭にかぶせられているので、声はさっぱり聞えない。その両肩には屈強な囚人が坐りこんで、両腕をがっしり抑えていた。
「五十」――やっと数え終ったその声は、誰が聞いても紛うかたないセルゲイの声だった。そこで深夜の訪問者たちは、ぱっと戸のそとへ掻き消えてしまった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは頭の蔽いを払いのけて、はね起きた。誰もいなかった。ただついその辺で、誰かが外套を引っかぶりながら、さも小気味よげにヒッヒと笑っているだけだった。カテリーナ・リヴォーヴナにはそれがソネートカの笑い声だとわかった。
 こうなってはもう、通り一ぺんの口惜しさではなかった。その刹那カテリーナ・リヴォーヴナの胸に煮えくり返った情念も、無辺無量のものがあった。彼女は無我夢中で前へつき進んで、とっさに抱きとめたフィオーナの胸へ、おなじく無我夢中で倒れかかった。
 そのむっちりとした胸は、ついこのあいだカテリーナ・リヴォーヴナの不実な情人に、みだらな歓楽を満喫させたものに違いなかったが、今や彼女はほかならぬその胸の上で、じぶんのやるせない歎きを、泣いて泣いて泣きつくそうというのである。まるで母親にすがる子どものように、愚かなだらけきった恋仇にぴったり抱きついているのである。今ではもう二人は同格だった。二人とも同じ捨値をつけられて、あっさり抛りだされたのだ。
 二人は同格なのだ!……行きあたりばったりに身をまかせるフィオーナと、愛慾の悲劇を身をもって演じつつあるカテリーナ・リヴォーヴナとが!
 とはいえカテリーナ・リヴォーヴナは、もうちっとも口惜しくなかった。すっかり泣ききってしまうと、彼女は石のような無表情な顔になって、木彫り人形さながらの落着きすました物ごしで、点呼に出る支度をはじめた。
 太鼓がタッ・タララッ・タッと鳴ると、営庭へ囚人たちがなだれを打って出てくる。足に鎖のついた者、足に鎖のつかない者。セルゲイもいる、フィオーナもいる。ソネートカもいれば、カテリーナ・リヴォーヴナもいる。分離派信者が、ユダヤ人と一つ鎖につながっているかと思えば、ポーランド人とタタール人の二人三脚もある。
 みんな集合してしまうと、やがてどうにか隊伍らしいものを組んで、さて出発だ。
 ゆううつ極まる光景である。世間からはもぎ離され、前途に明るい望みの片影をすら抱くことのかなわぬ人間の一団が、どろ道の冷たい黒いぬかるみの中に、足をとられとられ動いて行くのだ。あたり一面、見るも怖ろしいほどのあさましさだ。涯しもないぬかるみ、灰色の空、濡れそぼった柿の裸木、そのひろがった枝々には羽根を逆だてた鴉のむれ。風がうめく、いきりたつ、かと思うと吼えたてる、わめいて過ぎる。
 聞くだけでもう魂がかきむしられる思いのするその地獄のような風音かざおとこそ、あたり一帯のむざんな光景にひとみを点ずるものなのだが、その音のなかからは、聖書にあるヨブの妻の忠告が響いてくるようだ、――『汝が生まれし日を呪いて死ねよ』と。
 この言葉に耳をかたむける気になれず、これほどの悲境に陥ってもなお死ぬという考えに心をそそられるどころか却って恐怖を感じるような人は、その吼えたける声を消すために、何かもっとおぞましいものに一生けんめい縋りつかなければなるまい。そうした事情を、単純な人間は実によく心得ているものだ。そこで彼らは、持前の素朴な野獣性を思うさま発揮して、馬鹿のかぎりをつくしだす自分を嘲弄し、他人を愚弄し、人情を冷笑する。それでなくても大して柔和な人間でもなかった彼らは、ここに至って二層倍も兇暴になるのだ。

       *        *        *

「どうですね、おかみさん? あい変らず奥方さまには、ご機嫌うるわしくいらせられますかい?」――そんな鉄面皮な挨拶をセルゲイがカテリーナ・リヴォーヴナに向ってしたのは、ゆうべ泊った村がびしょ濡れの丘のかげにだんだん隠れて、ついに囚人隊の眼界から没し去った頃だった。
 そう言うと、彼はくるりとソネートカの方へ向き直って、じぶんの外套の裾で彼女をくるんでやり、高らかな裏声でこんな歌をうたいだした。

小窓のなかの 小暗いところで
  亜麻色あたまが ちらつくよ。
まだ起きてるね わが悩みの種
  眠られないのか にくいやつ。
裾ですっぽり くるんでやろうよ
  人目にかからぬ 用心に。

 そう歌いながらセルゲイは、ソネートカを抱きしめて、隊のみんなの目の前で、音たかだかとキスをした。……
 カテリーナ・リヴォーヴナはその一部始終を、見ていたとも言え、見なかったとも言える。彼女は歩いてこそいたけれど、実はもう生きた心地もなかったのだ。みんなは彼女をつついたり小突いたりして、セルゲイがソネートカを相手にいちゃついている有様を、見せようと節介を焼きだした。彼女はいい笑い物にされたのである。
「そっとしておおきよ」とフィオーナは、つまずきつまずき歩いてゆくカテリーナ・リヴォーヴナを隊の誰かがからかおうとする度ごとに、そう言って彼女をかばうのだった。「お前さんたちには分らないのかい、この悪党め、この人がひどく加減のわるいことがさ?」
「てっきり、おみ足がずぶ濡れになったせいだろうな」と、若い男囚がまぜっ返した。
「当りめえよ、歴乎とした商家のお生まれでいらせられる。おんば日傘でお育ちあそばしたんだぞ」と、セルゲイが合の手を入れる。
「そりゃ勿論、せめてあのおみ足に、もそっと温々ぬくぬくした靴下でもお穿かせ申したらなあ、そうなりゃあ、これほどのお悩みもあるめえにさ」と彼が言葉をつづけた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、はっと目が覚めたみたいだった。
「まむし、毒へび!」と、彼女は堪忍ぶくろの緒を切らして口ばしった、――「笑いたいならいくらでもお笑い、まむしめ!」
「いいや、俺あね、おかみさん、何も笑うのなんのって言う段じゃないんだぜ。ただねこのソネートカの奴がとても上等な靴下を売りたがってるんでね、そこで一つ、おかみさんそれを買ったらどうだろうと、こう思っただけなんだがね。」
 おおぜいしてドッと笑った。カテリーナ・リヴォーヴナは、ゼンマイ仕掛の自動人形みたいに歩いていた。
 天気はますます悪くなって来た。空をおおっている灰色の雲から、水気の多いぼた雪が落ちはじめて、地面にふれるかふれないうちに融けては、底なしのぬかるみを益※(二の字点、1-2-22)ふかくした。とうとう行く手に、どんよりと鉛いろをした帯が見えはじめた。その向う側は見わけがつかない。この帯がつまり、ヴォルガ河だった。ヴォルガの上には風が吹き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って、ゆっくりと大きな口をあけてもちあがる暗い波を。前へ押したり後ろへ引いたりしている。
 全身ぬれ鼠になって、ふるえあがった囚人の一隊は、のろのろと渡し場にたどりついてそこで停止して渡し船を待った。
 これもずぶ濡れの黒い渡し船がやって来た。乗組員の案内で、囚人たちが乗りこみはじめる。
「なんでもこの渡し船にや、誰かヴォートカをこっそり売ってくれる奴がいるって話しだぜ」と、ある男囚が言いだしたのは、大きなぼた雪がさかんに降りかかる渡し船が岸をはなれて、そろそろ荒れだした河の面に立つうねりのまにまに、揺れはじめた頃だった。
「そうさな、さしずめこんな時こそ、ちょいと一杯やるなあ悪くあるめえな」とセルゲイは応じて、ソネートカの御機嫌とりに、カテリーナ・リヴォーヴナをいじめる手をゆるめず、――「どうだい、おかみさん、昔のよしみに免じて、一ぺえ買っちゃあ貰えまいかね。まあそうしみったれるなってことよ。昔やそれでも、おれの色じゃねえか。おたがい大あつあつだった頃にや、仲よく遊び※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りもしたし、秋の夜長をしんみり語り明かしたこともあるじゃねえか。お前さんの身うちの誰かれを、お寺さんの厄介にならずに、二人であの世へお送り申したこともある仲じゃねえか。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、寒くって全身がくがく震えていた。いや、びしょ濡れの着物をとおして骨までも沁みこむ寒さばかりでなくて、カテリーナ・リヴォーヴナの体内には、何かもっと別の現象までが起っていた。頭が燃えるようにかっかとしていた。瞳孔はひろがって、ぎらぎらする光をちらつかせながら、じいっと浪のうねりを見つめていた。
「ヴォートカはいいわね、あたいも御相伴したいわ。まったく、こう寒くっちゃやりきれない」と、ソネートカが鈴を振るような声を出した。(訳者註。ソネートは鈴の意
「ねえ、おかみさん。おごれよ、なんだい!」と、セルゲイが食いさがる。
「なんぼなんでも、そりゃ阿漕だよ!」とフィオーナが思わず口走って、咎めるように頭をふり立てた。
「あんまりやると男がさがるぜ」と、ゴルジューシカという少年囚が、兵隊の女房に助太刀をする。
「ほんとだよ。お前さんとこの人との相対あいたいずくなら、何を言おうと勝手だろうがね、なんぼこの人だって少しや傍目はためというものがあろうじゃないか。あんまり阿漕だよ。」
「へっ、しゃら臭えや、この冬瓜の化けものめ!」と、セルゲイがフィオーナに食ってかかる。――「阿漕たあ、一体どっちのこった! 俺あ何も、そんなこと言われる覚えはねえや! もともとこんなあまにおっ惚れた俺でもあるめえしさ……とにかく今になっちゃあこんな赤禿げだらけの猫婆ァの面よか、ソネートカのぼろ靴下の方がよっぽど有難えや。ええどうだい、これに何か文句があるかい? 浮気がしたけりゃ、この口ん曲がりのゴルジューシカでも、せいぜい可愛がるがよかろうぜ。さもなけりゃ……(と彼は、袖無し外套にくるまって、徽章のついた軍帽をかぶっている乗馬の老いぼれ士官の方を顎でしゃくって見せ、ことばを続けた――)さもなきゃ、いっそあの護送さんにでもべたついたらよかろうぜ。あの外套にすっぽりくるんで貰や、雨にだけは濡れずに済もうというもんだ。」
「おまけにみんなが、仕官の奥さんと呼んでくれるだろうしね」と、ソネートカが鈴をふる。
「あたりめえよ!……それに靴下だっても、お茶の子さいさい手にはいるぜ」と、セルゲイが相槌をうつ。
 カテリーナ・リヴォーヴナはべつに言葉を返さなかった。彼女は相変らずじっと彼を見つめて、唇をふるわしていた。セルゲイの下卑た長広舌の合間合間に、彼女の耳には、かっと口をあいたりまた閉まったりする川浪のなかから、唸り声や呻き声がきこえてくるのだった。と突然、ざざーッと崩れかかった浪がしらの中から、ボリース・チモフェーイチ老人の蒼い顔が現われたかと思うと、つづく波間からは、うなだれたフェージャを抱きしめた良人のすがたが、ひょいと覗いてゆらゆらした。カテリーナ・リヴォーヴナは祈祷の文句を思いだそうとして唇を動かしたが、その唇はわれにもあらず、「お互い仲よく遊び※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りもしたし、秋の夜長をしんみり語り明かしたこともあるじゃねえか。むごい殺し方をして、身うちの誰かれをあの世にお送り申したこともあるじゃねえか」――と、ささやくのだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナはわなわなと震えた。それまで定まらなかった彼女の眼ざしは、しだいに据わりはじめて、兇暴な色を帯びてきた。両の腕が一ぺん二へん、当てどもなく中有にさしのべられたが、またがくりと落ちた。また暫くすると――不意にその全身がふらつきだして、暗い波の面にじっと見入ったまま、前へかがみこんだかと思うと、いきなりソネートカの両足をひっつかんで、相手もろとも、さっとばかり船ばたから身をおどらした。
 一同は唖然として声をのんだ。
 カテリーナ・リヴォーヴナは浪がしらにちょっと姿を見せたが、またもぐってしまった。つぎの波がソネートカを表へせり出した。
「鉤竿だ! 鉤竿を投げろ!」と、渡し船の上でわめき立てる。
 長いロープのついた重たい鉤竿が、宙を舞って、水に落ちた。ソネートカはまた見えなくなった。ものの二秒ほどすると、流れに乗せられてぐんぐん船から離れてゆく彼女は、もう一ぺん両手をふりあげた。が、それと同時に、べつの波間からカテリーナ・リヴォーヴナの姿がほとんど腰のへんまで水面にあらわれて、さながらぴちぴちしたカマスが、ひよわい小鯉に跳びかかるように、ぱっと飛びついたかと思うと、二人はもう二度とふたたび姿をあらわさなかった。





底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1951(昭和26)年2月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月21日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について