東京に生れて

長谷川時雨




 大東京の魅力に引かれ、すつかり心醉しながら、郷里の風光に思ひのおよぼすときになると、東京をみそくそにけなしつける人がある。どうもそんな時はしかたがないから、だまつて、おこがましいが、土地ツ子の代表なやうに拜聽してゐる。
 大震災のあとであつた、ある劇作家が言つた。
「東京つて、起伏をもつてゐる好いところだ。昔は、さぞ好い景色だつたらう。」
 言葉は違ふかもしれないが、さういふ意味だつた。私も同感の微笑ほゝゑみを送つた。
 もとより褒めたのは、江戸開府以前の武藏野の原のつづきの、廣大な眺めを思つたのであつたらう。それは雄渾でもあれば、また優しく明美でもあつたのだ。富士は何處からも見られ、秩父や、箱根の連山は遠く、欅の巨樹のつらなる丘の裾は、多摩や荒川の清流が貫ぬき、月は、草よりいでて草に入る、はては、ささら波の寄せる海となり、安房上總は翠波と浮んで、一方下總の洲は、蘆荻が手招ぎしてゐる。
 が、その太古のままの姿が、蝕つくひのやうに、小市街の群立しなかつたところに、江戸の好さはある。その草を敷き伏せ、まだせましとして、海のなかまで埋めて住んだ、江戸當初の者は大變進出的だ。彼等は安心な高臺の方に、巨樹を薙ぎ倒して住まはずに、海のなかの方へ、外へ外へとむかつて進出してゐる。その、荒つぽさが新興都市江戸の生命だつたのだ。
 その、進取的な都會が、大日本帝都になつたのだから、展びるだけはのびて、ずつと後の方の丘も平らされてゐる。眞に目ざましい發展だ。そして、まだ發展過程にある、ちぐはぐなところを見ると、東京の釀しいだす魅力を愛すれば愛するものほど、ちよいと惡口が言ひたくなるのであらう。不足も述べたくなるのであらうが、その不足が歐米の何層樓かの建築物などをもつて來て、人工的なものにくらべないで、自分たちの郷里のものに引きくらべるところが、實に、實に、好い人たち、大きくいへば、日本の根の人たち、大東京を建設つくる人たちなのだ。
 建築なら、新しい設計で、歐米のものよりもつとよいのが出來るといふ自信があるから焦りはしない。その人たちが惜しむのは自然の姿の破されることで、そのしほらしい愛惜の念は、江戸の昔に名殘をとどめてゐた水郷ふうの田園風景が、東京の發揚にしたがひ、爛熟した江戸情緒の失はれるのとともにほろびて消えてしまふのを、惜しむのと似た氣持ちだが、さうした牧歌的なものをこの近代都市の中から、異つたかたちでめつけだしてゆくのも面白いことであれば、廣くいへば、それらは都會の外に求むべきもので、田園の故郷を、この都のなかの隨所に、殘存させようといふのが無理なのだ。
 だが、大都會となればなるだけ、緑地帶はほしい。公園は多趣多樣なのが澤山ほしい。高松宮家より頂いた麻布の公園や、井の頭の恩賜公園や上野や芝など、どうかあんまりもとの自然を損じないでその土地の、古昔のままの樹木や、土の起伏を保存したいものだ。いはゆる公園風なものと改惡してしまはないことを望んで止まない。その保存によつて、いま三、五十年もたてば、ありのままの、その土地の、日本の古さを物語る、大事な大事な記念のものとなるのは知れてゐる。人工の美、機械の美をつくした近代都市の中央に、自然林をもつた公園、その一木一草に、あとから植ゑこんだのではない、その土地根生ねおひの教材が繁茂してゐることは、心ある後代の人をして、よく殘しておいてくれたと悦ばれることであらうし、その土地を語る大切なことであるから、地元の住民は、極力原型保存を守らなければならない。
 宮城外一帶の、あの美觀を見るほどのものみなが、どんなに自分の生れた國を心に深く知ることか――
 故郷ふるさとの山野をもたぬこの大都の子供たちに、公園は遊ぶところであつて、そして、都會の成りたつてゐる土地の靈に、ぴつたりと抱きつかせる歴史を――それを持つてゐる自然公園では、地形の上に、一草の上にも、無言で語つてくれるものを殘して止めおきたい。

 新東京風景を撰めば、丸の内の宮城の廻りを第一に推す。
 雪の日に、雨の日に、風の日に、冬に、春に、秋に、夏に、日和の日の、空高く晴れたのもいふまでもなくよい。
 打ち展いた空を自由に眺められない、繁華な街にうまれたからだといはれるかも知れないが、私は、どんな心急こゝろせはしい時でも、車があの邊にかかると、ふつと窓から空を見上げるのが習慣ならひになつてゐる。夜晝の差別なく眺めやる。おゝ冬だな、おゝ夏だなと――私は、早春の初霞を見る、初夏の白き漂ひを見る。冬の夕暮の空のうるみなど、大内山の森と下町の空とにわたる複雜な、東京特有の空の色である。
「ああ、綺麗だ。」
 さういふわたしの言葉を、ある時、一人の女友だちが遮つた。山國に故郷をもつてゐる人だつた。
「汚ないぢやありませんか、霞だつて、どす濁つてゐて。空まで埃つぽい。」
 人間の多く住んでゐる空だから――大都であるから――と、あたしは言ひたかつた。ここでも激しい雨のあとなどで、洗はれたやうな空や入陽の名殘りの光芒を見ることがあるが、いかにも鮮明だが、ぼかされた深い味がなく、町々の屋根などまざまざと造りものである感じで、何か、却つて孤獨を感じ、せせこましい氣さへするものだ。

 翠緑みどりをへだてて宮城にむかふ建築が、歐米各國の樣式であつて、調はないといふやうにもきいてゐるが、わたくしなどには、それらの諸建築が宮城外廓の、日本式の白壁に相對して、調和のとれない調和をなして、どんな建築であらうと、あの白壁の櫓が跳返し、照りかへしてゐるのを實に美事だと思つてゐる。その點、特定の一種の一國を眞似た洋風建物よりも、各種の立派なものが多ければ多いほど、宮城の美と壯觀は増す。大内山のみどりの色こそ萬代不變、巨木大樹をますます欝蒼たらしめて頂きたく願つてゐる。
 常磐なす常磐のいろ、移し植ゑたものでなく、國の肇めの當初から根ざしかためて生ひつたへた巨樹大木が、宮城を守つてゐる事はいかにも崇嚴である。かつて上野博物館の後に巨樹が生ひ聳えてゐたころ、博物館の建物そのものが、いかに神々しく、この國の歴史を中に藏してゐることを神聖におもはせたか――建物、それの立派さなどとは異つた不言不語いはずかたらずのものを示してゐたが――
 その點で、水利の便もあつたであらうが、江戸開府時代の人たちが丘を殘しておいて、海を埋めて住んだのは當を得てゐる。そしてまた、今度の二千六百年記念の大博覽會が、月嶋のさきの埋立地を會場とすることはもつともよろしい。あの、もはや狹くなつてしまつた上野公園を、何かあるたびに、惜しげもなく巨木を伐り倒すのは――もはや幾本もなくなつてしまつたが――

 震災後の下町は、いつて見れば、新しい開府時代が來たのだ。そこに、この事變に教へられて、最も最新式の都市建築が考へられなければならないから、機械化する美觀と相對して、宮城一帶はます/\貴い地帶となる。
 去年の春のくれがた、午後の、陽はもう翳らうとしてゐたが、二重橋前近く、芝生のタンポポは、黄金色に、一面に輝いてゐた。私の車は、靜かに靜かに除行する。私は、心の憩ひのやうにこの路を通らして頂くので、例により、空を、四邊を樂しみながらゆくと、車の前を低く、パツと立つてよぎつたのは雉子だつた。
 何だか、無性にわたしは嬉しかつた。この激しい東京の中央に、この激しい今日の東京に――と思ふと、御所前一帶は、東京市民のオアシスとなることであらうと思つた。丁度、海外同胞へ「故國のたより」をラヂオで語りかける機會をもつてゐたので、この平和な光景を、早速に傳へたのだつた。
 が、今日の新聞は、和田倉門の、高麗門と橋が危くなつたのでとりのぞかれると報じてゐる。どうか、事變がすんだらば、早速復舊してほしい。あの木橋へ、ひた/\と水がすれ/\にあつて、柳がなびいてゐる小雨の日の風情は、東京市中、もう何處にもなくなるであらう江戸の面影である。今日の人には、まだ珍らしくはないが、この後にくるものに、殘されるものは殘してやつておいた方がよいと思ふ。

 そこでまた、わたくしの望みは建築物にかへる。丸の内をとりまく個所は西洋建築でよいとして、日本橋ツ子よ、京橋ツ子よ、そして淺草、下谷の人々よ、安いコンクリートまがひをやめ、耐火、耐震、防空の強かりしたものを建てて、その表面は、黒壁の店藏造りにしませんか。壁を塗らずとも、黒壁をおもはせる、新しい店藏づくりの甍を並べたならば、宮城と相對し、中央に歐風諸建築をはさんで、眞の、日本的な、そして東京の氣風が出ると思ふが――
 あんまり急な市の膨脹と共に、田舍のステーシヨン前の感じのする町つづきになつてしまつては、東京の特色が見られない。
 アジアの首都、東京の面貌は、日本の、そして東京の特色がなくつてはいけない。





底本:「隨筆 きもの」實業之日本社
   1939(昭和14)年10月20日発行
   1939(昭和14)年11月7日5版
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月2日作成
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