透き徹る秋

宮本百合子




 空を、はるばると見あげ、思う。何という透明な世界だろう。
 晴れ渡った或る日、障子を開け放して机に向っていた。何かの拍子に、フト眼が、庭の一隅にある青桐の梢に牽かれ、何心なく眺めるうちに、胸まで透き徹る清澄な秋の空気に打たれたのだ。
 平常私の坐っている場所から、樹は、丁度眼を遣るに程よい位置にある。去年の秋、引越して来てから文学に行きつまった時、心が沈んだ時、または、元気よく嬉しく庭に下りた時、幾度この梢を見上げたことだろう。春先、まだ紫陽花あじさいの花が開かず、鮮やかな萌黄の丸い芽生であった頃、青桐も浅い肉桂色のにこげに包まれた幼葉を瑞々しい枝の先から、ちょぽり、ちょぽりと見せていた。
 浅春という感じに満ちて庭を彼方此方、歩き廻りながら日を浴び、若芽を眺めるのは、実に云い難い悦びであった。
 春から夏にかけて、地上のあらゆる家屋、樹木、草々は、驚くべき直接な力で、各自の美しい存在、沈黙の裡の発育、個性というものを見る者の心に訴える。芽ぐむ青桐の梢を見あげ、私は、独特の愛らしさ、素朴、延びようとする熱意を感じずにはいられない。沈丁花の、お赤飯のような蕾を見ても同じ、彼女の暖み、気息を感じる。個々の存在に即し、しっかりと地に繋がり、自分も我身体の重み、熱、希望を感じて、始めて、春は私共の生活に入って来るように思う。春の麗らかな日、眼を放てば、私共は先ず、一々に異う木の芽の姿、一々に違う家々の眺めに、興味深く心を牽かれずにはいられないのである。
 けれども、今私は、葉脈の太くなり落葉し始めた同じ桐の梢を仰ぎ、何を第一に感じるだろう。
 空気だ。遮ぎるものなく、拘泥こだわるものなく、澄み輝く空気を感じる。
 勿論、神経は、そこに未だ沢山の葉が房々と空をくぎっていることも、幹は太く、暗緑色に眼路に聳えていることも、視ている。然し、心は、その物質を越えて普遍な空気の魅力を直覚する。私は流れる気流とともにある。春のように、個々の樹の根から萌え出るものでないことを思い知らされ、直感する。心を鎮め、自然を凝視すると、あらゆる不透明な物体を徹して、霊魂が漂い行くのを感じずにはいないだろう。それも、春始めの、人間らしく、或は地上のものらしく、憧憬や顫える呼吸をもった游衍ゆうえんではない。心が、深くセレーンな空気の裡に溶け入りて一体となり、それ自体透明な輝きとなってしまう。自分の欲求や野心から発する息苦しい熱ではなくて、それ等を極みない白銀の雰囲気の裡に、たとい瞬間なりとも消滅させる静謐な光輝である。秋とともに在って、私は無私を感ずる。人と人との煩瑣な関係に於ても、彼我を越えた心と心との有様を眺める。心が宇宙を浸す。深い、広大な、叡智に達する程のポイズを味い得ることは稀でない。故に、古人は「ものゝあはれ」と、いう言葉を、秋に感じたのではないか。

 ポイズということから連想が延びる。――
 先日、私は或る本で次のようなことを読んだ。
「時々朝起きると気分がせいせいして頭がはっきりすることがある。で、筆を執ると面白く筆が運ぶ。翌日それを読んで見る。なるほどよく出来てはいるが肝腎なものが欠けているので皆抹殺してしまう。イメージネーションがない。才がない。その或るものがない、それなくては折角の智も何等の価値もないという、その或るものがない。ところで寝足りないために神経がぼんやりしているというような日は想像に富んだ文が書ける、イメージネーションは殆ど無限に働く。しかし、読んで見るとやはり駄目である。書いたことが馬鹿気ている。美はある。が、智が足りない。智と想像とが均衡を保つ時において始めて善く書けるものである。二者何れかが勝った時は駄目だ。棄ててしまって再び書き直さねばならぬ。」
 これは、トルストイが、水浴場へ行く道々子のイリアに話したという創作上の気分に就ての言葉である。
 けれどもこんな内省は、たといト翁ほど偉大ではなく性格の点で全然異った型に属する者でも、創作のことに携るものとなれば、大なり小なり、幾度ずつか経験していることではないだろうか。
 芸術家の個性により、微妙な色と角度との差異はあっても等しく内に、何等かの調和律を持たないものは無かろう。真心を以て芸術に参するものは、自己に許された範囲に於て、最大・最高の諧調を見出したいという祈願を、片時も捨てかねるものと思う。然し、仕事に面して、どんなことを仕ようが自分以上にはなれない。自分の内に在るだけの輝きほか、自分を照すものはない。而も、発育したい希い、より完美な芸術を創始したい熱情に鞭打たれた場合、少くとも自分は、惨めに焦慮する心持を知っている。それが、如何に統一を破るかも知っている。そのために翻って、どんなに製作に向っての無私が必要だか、意識下の均衡が大切だか思い知らされているといえるのである。
 真向からの熱中、努力、緊張を意識した意気込みは必ず作品の、深静な生命の流動を妨げるものではあるまいか。ただ、真剣に頭に血を上らせて詰め寄せたとても徒労に終る、徒に鋭く、細かく、頭を働かせて事象を描こうとしても、写るものは影ばかりだ。計らず、企らまず、対象に向ってあるがままの我を、底の底まで沈潜させる。極度の静謐、すっかり境界がぼやけ、あらゆる固執を失った心と対象との間に、自ら湧き起る感興、想念と云うもので先ずその第一歩を踏み出すのが創作の最も自然な心の態度らしく感ぜられ始めたのである。何たる沈黙、沈黙を聞取ろうと耳傾ける沈黙――人が、己の愛す風景に向った時、必ず暫くは右のような謙虚な状態に陥るだろう。やがて徐々として確に、感情が目醒め始める、或る時は次第に律動が高まって終には唱わぬ心の音楽ともなろう。
 その微かな閃光、その高まり来る諧調を、誤たず、混同せず文字に移し載せられた時、私共は、真個に、湧き出た新鮮な創作の真と美とに触れられる。昔、仏像の製作者が、先ず斎戒沐浴してのみを執った、そのことの裡に潜む力は、水をかぶり、俗界と絶つ緊張の中に存するのではなく、左様にして後、心を満たし輝かす限りないポイズの裡にあるのではないだろうか。
〔一九二一年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人倶楽部」
   1921(大正10)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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