踊る地平線

海のモザイク

谷譲次




     1

 踊る水平線へ――!
 がたん!
 ――という一つの運命的な衝動を私達の神経へ伝えて、私たちの乗り込んだNYK・SS・H丸は倫敦ロンドン・横浜間の定期船だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその推進機の廻転を開始した。
 倫敦テムズ河上、ロウヤル・アルバアト波止場ドックでである。
 ここで多くの出帆がそうであるように、一つの劇的な感傷が私たちの心もちに落ちるんだが、それより、まず、どうして私たちがこの特定のSS・H丸に乗船しているのか――その説明からはじめよう。
 葡萄牙ポルトガルの田舎のエストリルという海岸にいた頃だった。ちょうどホテルの私達の部屋が、海へ向ってヴェランダにひらいていた。ホテルは小高い丘に建っていて、その上、私たちのへやは三階だったから、そこのヴェランダからは大西洋に続いている大海の一部が一眼だった。冬だと言うのに毎日初夏のような快晴で、見渡す限りの水が陽炎かげろうに揺れていた。海岸にはユウカリ樹が並んで、赤土の崖下に恋人達が昼寝していた。私たちはいつもヴェランダの椅子にかけて、朝から晩まで、移り変る陽脚ひあしと、それに応じて色をえる海の相とを眺めて暮らした。
 日に何艘となく大きな船が水平線を撫でて過ぎた。その多くは地中海巡航や南米行きだったが、なかには、欧洲航路に往来する日本の船もあるはずだった。こうして日課のように沖を望見しているうちに、私達はいつの間にか、船体の恰好や、煙突の工合で、重な会社の船ぐらいは識別出来るようになった。ことにNYK――日本郵船の船は直ぐにわかった。私たちは、沖を左から右へ、日本から倫敦ロンドンへ往く途中の船を見ては、希望とあこがれに燃える故国の人々を載せているであろうことを思い、その反対に右から左へ、倫敦から日本へいそぐ復航船を眺めては、私たちもやがて、日本へ帰る日のさして遠くあってはならないことに、今更のように気づいた。そして、それらの日本船に乗ってポルトガルの沖を過ぎる人々のうち、船から見える海岸のホテルの一室に私たち日本人夫婦がもう一月の余も住まっていて、いまもこうして望遠鏡を向けていようなどとは、誰ひとりとして考える人もあるまい。こんなことを話し合って、まるで島流しにでもされているように、私達は淋しい気持ちになったものだった。
 で、近いうち、あの船の一つに乗って、この沖を通って日本へ帰ろう――いつしか二人のあいだに、こういう暗黙の契約が成立してしまっていた。
 じっさい、日本を出てから、その時でう一年近く経っていた。したがって、もう一度出直して第二次的な土地を廻ってみることにしても、今度はこれで切り上げてともかく日本へ帰りたいという気が、私たちには強かった。それが、葡萄牙ポルトガルエストリル沖を過ぎる船によって、こうして無意識に刺激されたのだった。
 それから、モンテ・カアロで新年を迎えて、一月の末から二月へかけて、私達は南伊太利イタリーのナポリにいた。ホテルは海岸まえの「コンテネンタル」だった。しかも、二階の私たちの部屋の直ぐ下が、あの、海に突き出ている有名な「卵子の城カステロ・デル・オボ」で、その向こうの水面を、ここでも毎日、東洋通いの巨船が煙りを吐いて通った。なかでもNYKの船は一眼で判った。丸の字のついた名の船がよく桟橋に横付けになったり、小雨のなかを出港して行ったり、這入って来たりしていた。ポンペイを見物に行った日などは、あの、狭い石畳の死都の街上で、その寄港中の船の一つから下りたらしい何十人もの日本人の団体を見かけた。すでに漠然と決まりかけていた私達の帰国ばなしは、このナポリで日本の船を眼近に見ることによって急天直下的に具体化したのだった。私たちは、明日にでも帰るような気になって、代理店エイジェントへ出かけて、倫敦ロンドン横浜間のNYKの航海予告を調べたりした。そして、四月二十日倫敦出帆のH丸ということに、大体心組みを立てたのである。
 が、帰国のことだけはナポリで決定したものの、全欧羅巴ヨーロッパを歩きつくすためには、私たちの前には、まだ残っている土地がある。で、早々に伊太利イタリーを離れた私達は、北上して雪の瑞西スイツルに遊び、そこから墺太利オウスタリー維納ウインナに出て、あのへんを歩き廻ってチェッコ・スロヴキアへ這入り、プラアグに泊り、それから独逸ドイツを抜けて巴里パリーへ帰ったのが三月末だった。巴里は以前に二、三度来ているので、旬日滞在ののち倫敦へ渡って、古本の買集めや、見物の仕残しを済ますために日を送り、やっと二十日のこのH丸に間に合ったのだった。
 切符も買い、支度も調い、暫らくの滞英にも前からいろいろと知友も出来ていたので、そこらへの顔出しも済まして、あとは手をつかねて乗船の日を待つばかりの心算だったのが、ここに急に思いがけない困難が降って沸いたと言うのは、じつは買い込んだ書籍の発送方についてであった。
 というのは、いざという間際に大工でも呼んで来て見せたら、きっと荒削りの板で幾つか木箱でも作ってくれるだろう。それが一番格安でもあり、便利だと、迂闊に日本風に考えていたのだが、出帆の日も迫ったのであちこち聞き合わしてみると、日本と違ってそこらの町角や露路に棟梁のうちがあるわけではなし、さんざ困った揚句、それではと言うので箱から荷作りまですっかり運送屋に一任することにした。ところが、これが、箱一つ造るのに十日あまりもかかるとあっては、とても急場の間に合わない。おまけに、本箱一個十円以上もする。というと、ワニスか何か塗った本棚代用の箱でも想像する人があるかも知れないが、なるほど、馬鹿固い英吉利イギリスの人の仕事だけに、巌畳がんじょうな点は可笑しいほど巌畳を極めたものに相違ないけれど、要するに、送る途中だけ用に足りればいいのだから、第一、そんなに非常識に丈夫であることを必要としないし、何と言っても、石油箱の大きなののような、ろくかんなもかけてないぶっつけ箱が一ポンドもするとは驚くのほかはない。しかし、これも考えてみると無理もない話で、英吉利は、というより欧羅巴ヨーロッパは一般に、石や鉄には事を欠かない代りに、木材には案外不自由している。おまけにべらぼうに手間賃が高いのだから、荷送り用の雑な木箱でさえ、これだけ取らなければ引き合わないのである。早い話が、ちょっと店へ買物に這入っても、売子が品物をすすめながら第一番にいう言葉は、ちゃんときまってる。「これは handmade で御座いますから」と言うのだ。つまり、職人が手で造った物だから恐ろしく贅沢である。従って値段も高いという意味なのだ。この言い草はわれわれ日本人には不思議に響くけれど、機械製品に飽きている向こうの連中にはこの上なく有難いとみえて、ことに亜米利加アメリカ人なんか「手作りハンド・メイド」とさえ聞けば、どんなにけたはずれな高値をも即座に肯定して、随喜の涙とともに否応いやおうなしに買い取って行く。だから各地のお土産店でもすっかり心得ていて、人形一つ出しても「手づくりハンド・メイド」、ハッピイ・コウト一枚見せるにも「手作りハンド・メイド」、灰皿を買おうとしても「手造りハンド・メイド」――そこで、値が張っているのだと言う。こんなふうに、何からなにまで「手づくり」の一枚看板で下らない物を高く売りつけようとするし、また、そう聞いただけで、詰らないものに大枚の金を投じて惜しまない人が、じっさいすくなくないのだ。そんなことを言ったら、日本人の生活品なんか片端かたっぱしから「手作りハンド・メイド」だ。こう言ってやると、みんなびっくりして仲々ほんとにしない。それもそのはずである。たとえば倫敦ロンドンのマンフィイルドで靴を買うにしても、まあ二ポンドも出せば相当なのが手に入るんだけれど、これが、ちょっと底の皮を手で縫いつけたというだけで、公然と五ポンドの値を呼ぶ。するとここに、そこはくしたもんで、何かしら他人と変った高価なものでなければ気が済まないという、ぶるじょあ階級の凝り屋があって、そんなのを探し出して得意になっている。品質も見たところも二ポンドのと同じなのに、単に底が手縫いだというところだけで、三磅も余計に払って怪しまないのである。もっとも、このマンフィイルドの靴の場合は、事実手縫いのほうが遥かに丈夫で長保ながもちすると言うけれど、買う方は、何も長もちさせようと思って買うのではない。要するに「手作りハンド・メイド」だから高値たかい、そして高値が故にのみ手が出るのである。こうなると、日本におけるわれわれの生活なんか、じつに贅沢を極めていて、ざっと身辺を見廻すところ、およそ「手づくりハンド・メイド」でないものはないようだ。考えて見ると、西洋では、ことに亜米利加アメリカあたりでは、人間の工賃が高くて機械による生産費のほうがずっと安く上るから、何でもかんでも劃一的に機械で多量生産してしまうんだが、機械では巧緻こうちな味が出ないとあって、このとおり手工芸品が大歓迎である。言わばこの現象は、近代資本主義制度の世の中にあって過去の産業封建時代の遺物を愛するといった、変態的骨董こっとう趣味の一つのあらわれに過ぎないかも知れないが、一体人には、よかれあしかれ、自分にないものをあこがれ求める共通性があるもので、ちょうど同じことが「あちら」と日本の生活様式の相違についても言えると思う。つまり、むこうでは、粗抹な荷箱が一つ十円以上もするほど、木材がすくなく、したがって値段が高いところへ持って来て、石や鉄の建築材料はふんだんにあるから、そこで、ああいう形の文明が発達したわけで、日本ではちょっとした物がすべて「手づくりの木製である」と教えてやると、「何という高級な!」なんかと心から恐れ入っている。ところが、その本国の日本には、何からかにまで石や鉄で作らなければ文明と思わず、しかも機械製でなければ承知しないで、それをもって西洋風だと信じている感ちがいの亜流者が多いから笑わせる。これはとんでもない穿き違いだ。ほんとに西洋流で往こうと言うなら、すべからく「手作りハンド・メイド」を感謝し、木製物を尊び、そうして日本の生活の手近ないたるところにその極致を発見して、大いに得々とすべきである。これは、私のよく謂う「西洋を知り抜いて東洋へ帰る心」に、形だけにしろ、一脈通ずるものがあるのである。
 ところで、理窟は第二に、帰国の日が近づいたのに書籍を積み出す方便がなくてすっかり困ってしまった。仮りに一個十円でもいいとしたところで、十箱も作らせると百円である。おまけにどう急がせても間に合いっこないのだ。さんざん考えた末、これは新たに造らせるからこんなに高価たかいんだろうということになって、そこで方々の書物商、酒屋、乾物商、葉茶屋などへ人を急派して探させてみたが、どの商店にもほとんどないし、二、三あるにはあっても、小さ過ぎたり、概して弱くてお話にならない。しかもそれが例の「手芸木製品」だとあってなかなか安くないのである。詰らない事柄だが、私はこれによって、今まで気がつかなかった大英国の一欠陥を発見したと思った。気が利かないといおうか、即座の間に合わないと言おうか、とにかく、この時ほど英吉利イギリスの社会を不便だ、間が抜けてると感じたことはなかった。
 そのうちに、或る人の話で、私は早速タイムスのブック倶楽部へ駈けつけた。ここでは、大戦中に英吉利の政府が弾薬の輸送に使った箱を、本を送るためとして一般に売り出していると聞いたからだ。が、飛び込んで行って実物を見ると、やっぱり当てが外れてしまった。第一、四六判の洋書が二十冊も這入ると一杯になるほどの大きさしかなく、それに、本来の目的が目的だけに莫迦に頑固に出来ていて、内部がとたん張りか何かで空っぽでもい加減重いのだ。これで本を送った日には半分以上は箱の郵税になってしまう。送り出すと言っても、私は自分の船へ積んで身体からだと一緒に行くんだから、何もそう堅牢であることは要しないが、そのかわり相当大きくて少数で済むほうがむしろこの際の条件なのである。
 と言ったふうに、乗船近くなってから苦しみ抜いた結果、ふと考えついたのが、どこの店ででも売っている繊維質ファイバアのトランクである。すぐさま近くの百貨店ボン・マアシェへ出かけて行ってみると畳一枚に近い大きさのが、たった十三シリン――約六円半――だ。繊維性の布に防水塗料をかぶせたもので、それでもあちこちに金具が光り、二個所に鍵までかかるようになっている。何しろ、持ってこいの大きさで、しかも立派なトランクだ。で、これだとばかりにそれを六個揃えて立ちどころに用は足りたが、そこで、私は考えたのである。
 ただの板を釘づけにしただけの荷造り用の木箱でさえ、約十円の一ポンド――二十シリン――もする。タイムスの弾薬箱にいたっては、蜜柑みかん箱ほどもなくて十シリン――ざっと五円――である。それだのに、この巨大なトランクは、「巨大」であり「トランク」であるにもかかわらず、「木製」でなく、「手造りハンド・メイド」でなく、「機械による多量生産」であるために、たった十三志なのだ。これほど私のこころを打った東西文化の方向の相異はない。じつによく両者の食いちがいをあらわしていると思う。これを言いたいためにのみ、長ながとこのエピソウドを書いて来たのだが、せんじ詰めると、いたずらに先方の真似をしないで、わが特長を伸ばして往く以外に、私たちの進展の途はないということになる。
 このトランクは非常に重宝した。木箱や弾薬箱は、送って来て日本へ着いてしまうと、こわしてお風呂のまきにするくらいの用途しかないが、トランクなら、物を入れて保存して置くのに子々孫々まで役に立つ。
 これらのトランクは、当分私達の家に異彩を放つことだろう。書物とは限らない。英吉利イギリスから何か送るには、迷わず繊維性ファイバアのトランクに入れることだ。

     2

 さて、これでいよいよ帰国の途に就けるというんで、喜び勇んでいると、またしてもここに一大事件が勃発した。
 旅券パスポウトを紛失したのである。
 そもそもこの旅券たるや、海外における唯一の身分証明であって、国籍による必要の保護も、金銭関係の保証も、その他すべて公式の場合には、一にこの緑色の小冊子が日本帝国としての口を利くんだから、天涯の遊子にとってはまさに生命から二番目の貴重品である。第一、これがなくては英吉利イギリスを出ることも船へ乗ることも出来ず、完全に身動きが取れなくなってしまう。それほど大事なものをくするなんて実におろかな話だが、旅行中は虎の子の信用状や現金の英貨――旅行に持って歩くには、五ポンド乃至十ポンドのいぎりすの紙幣が一番いい。相場によって高低することもすくなく、どこででも簡単に両替出来るから――と同居させてしじゅう肌へつけていたんだが、それが、もう帰国すれば用がなくなるというんでそこらへ投げ出して置いたのが誤りのもとらしい。すっかり荷作りを済ましたあとで、旅券の無いことを発見したのだ。
 一体旅行もいいが、出発ごとの荷作りパッキングほど嫌なものはない。西洋人はいい加減に誤魔化してしまうが、日本人は、日本人らしい丹念さから、細かい隙間まで利用して実に能率的に詰め込む。あまりに能率的過ぎてかえって能率が上らないようだが、とにかく、せっかく何日もかかって出来上った大小幾十個の荷物を、この旅行免状一冊のためにすっかり引っくり返さなければならないことになった。
 口説くどいてみたってはじまらない。どうしても探し出さなければならない性質のものだから、徹夜してその事業に着手した。出帆前夜のことである。
 が、部屋の内外は勿論、荷物は全部出して、トランクからスウツ・ケイスから一応順々に逆さにして振ってみるくらいにしたけれど、問題の旅券はとうとう出て来なかった。
 この旅券捜査には、下宿の老夫人をはじめ、同宿の連中から女中一同まで、総動員で手――というより眼――を貸してくれたのだったが、ついに徒労に帰して、翌朝早く、私たち二人は倫敦ロンドンの日本領事館へまかり出た。そして平身低頭、泣きを入れてやっとのことで新しい旅券の再下附を受け、それでようよう乗船することが出来たわけだが――もっとも、帰国の船なら旅券なしでも乗れるけれど、そのかわり、旅券入用の土地、例えば、英領植民地などへは、寄港しても上陸することを許されない――ところが、五十日近い海の旅を終えて先日日本へ帰ってみると、外遊中の留守宅を頼んで置いた鎌倉の某家へ、私宛に倫敦の下宿から厚い封書が届いている。シベリア経由だから私たちより先にうの昔に着いたのだ。莫迦に重要めいてるが何だろうと思って開けてみると、出発の時あれほど骨を折らした古い旅券が出て来たには驚いた。手紙がついていた。
「御出発後、女中がお部屋を掃除しましたところ、戸棚の敷紙の下からこれが出て参りました。勿論あなた自身が安全のためそこへ入れて置いてお忘れになったものでしょう――。」
 まさにそのとおりの記憶がある。いたずらにかの老婆をして名を成さしめたに過ぎないのが、私としてはいま遺憾この上ない次第だ。
 ところが、倫敦ロンドンの領事館で貰って来た第二の旅券である。
 これをまた神戸のオリエンタル・ホテルに忘れて来たと言って大騒ぎをした。
 六月三日に神戸入港、八日横浜へはいるはずだったSS・H丸が、一日早く――NYKの船でも予定より早く着くこともあるという実証のために――二日に神戸へ投錨してしまったので、八日まで一週間近くも神戸桟橋の船内でぶらぶらしているわけにも往かないから、入港と同時に上陸してオリエンタル・ホテルに二日泊ったのだが、四日の朝、東京へ来る特急のなかで、再下附の旅券がないと彼女がいい出した。なあに、もう日本国内だから旅券なんか要らないさと私は威張ってみたものの二度も紛失したんではどうも後始末が厄介である。困ったことになったといささ悄気しょげていると、これは幸いにして帝国ホテルへ着いて当座の荷を解くと、その鞄の一つから現れたのでまずほっとした。
 が、いくら呑気だからって、私たちほど忘れ物を商売にしてるようなのもあるまい。そのオリエンタル・ホテルででも、部屋を出る時は一かど落着いてすっかり検分したつもりだったにも係わらず小使ポウタアの一人が動き出そうとしている私達の車窓へ葡萄牙ポルトガルで買った銀の煙草入れを届けてくれたし、帝国ホテルでだって、いよいよ鎌倉の自宅へ帰る段になって、勘定ビルを済まして玄関で自動車を待っていると、そこへあたふたと部屋付きボウイが私の時計と彼女の帽子を持って駈けつけて来たくらいである。
 この通り、自慢じゃないが、一年半に近い外遊中、私達が諸国各地のホテル・停車場・タキシ内――これが一番苦手だ――その他料理店等で置き忘れて来た色んな物品を価格に見積ると、決して馬鹿にならないものがある。なかんずく、その種品別にいたっては実に奇抜の到りで、ことに今考えても口惜しくて耐らないのは、芬蘭土フィンランドの内地へ踏み込んだとき――まあ、そう。愚痴をこぼしたってどうにもならないし、それに、この置き忘れ・紛失物の一件を並べ出すと、それだけで優に、生活の角度から見た全般にわたる旅行漫筆が出来上るくらいで、その土地々々に関する多少の描写の説明も必要だし、何よりも、いまここにその紙数もなければ場合でもない。しかし、のべつ幕なしに驚いたり急いだり狼狽あわてたりするのが、旅行者の特権であり義務であるとは言いながら、あれほど色んな国へ雑多な物を撒き散らして来たくせに、よく自分で自分を置き忘れて、自分を西班牙スペインかどこかのホテルの寝台へでも寝かしたまんまにして来なかったものだと、われながら感心している。
 それはそうと、いつの間にかもう日本へ帰着したようなことを言っているが、じつは、話しのうえでは、SS・H丸はいまやっと倫敦ロンドンテムズ下流のロウヤル・アルバアト埠頭どっくを離れたばかりのところに過ぎない。
 で、これらの大小事件を突破したのち、ようよう船へ乗ることが出来たのだった。
 四月二十日出帆というのに、潮の工合で、二十日は早朝に解纜かいらんするから、十九日一ばいに乗り込むようにというお達しである。ポウト・トレインは、四時二十分にフェンチャアチ停車場を出るという。その二十分前の四時になっても、私たちはまだ荷拵にごしらえが出来ずにいる。
 荷物が余ってどうにも仕様がないのだ。一たい、この、室内に山積し散乱している物品を白眼にらんで、過不足なくその全部を入れるに足る容積のトランクなり鞄なりを予め想定するには、実に専門的な眼力を必要とするのだが、私達はこの点でも明かに失敗した。すなわち、充分這入ると多寡をくくって安心し切っていた最後のトランクへ、いざとなって詰めて見ると、思った半分も這入らないのだ。と言って、今になって入れ物を買いに走る時間はない。仕方がないから、下宿の老婆をおだててうちじゅうから買物の空箱あきばこやら、クリイニングから洋服を入れてくるボウル紙の箱や何かをありったけ徴収し、それへ手当り次第に放り込んだのを糸で縛ってタキシへ投げ入れ、狂気のように疾駆させて、ほんとに間一髪のところで船へ聯絡する汽車の出発に間に合ったのだった。
 けれど、日本で下船するとき、そう幾つも紙箱をぶら提げるわけにもいかないから、これは、香港ホンコンくすの木製の大型支那箱を買って、全部をこれへ叩きこむことによって見事に解決した。この樟材の支那箱は絶えず内部に樟脳のかおりが満ちていて、ナフタリンなんか入れなくても虫を防ぐから、毛織物類を仕舞って置くには、家庭用として特に便利である。それはいいが、香港ホンコンでこれを買う時言葉が通じないで大いに弱った。確かに「くすのき」製に相違ないかと念を押してやろうと考えたのだが、さて、何と言っていいか判らない。そこで気が付いたのが筆談だ。紙と鉛筆を取り寄せ、正成まさしげ公から思いついて「くすのき」の字を大書し、箱を叩いて首をかしげて見せた。これで老爺おやじめ、会心の笑みを洩らすことであろうと私は内心待ち構えていると、彼は不愛想に私の手から鉛筆を引ったくって、非常に事務的に私の「楠」の字を消してそのそばへ「くすのき」と訂正した。なるほど、これでこそ「くすのき」である。計らずも私は、そこで一つの生きた学問をしたのだった。
 が、これも五十日あとのこと。
 いまはもう一度倫敦ロンドン出帆へ逆行して、あらためていかりを上げる。
 四日ママ午前九時、SS・H丸はロウヤル・アルバアト・ドックを離れてテムズ河口へ揺るぎ出た。
 がたん!
 踊る水平線へ!
 そして、極東日本へ!


     3

 では、英吉利ギイリスよ、「さよなら!」
 さよなら!
 大きな声で「さよなら!」
 何国どこの港も同じ殺風景な波止場の景色に過ぎないんだが、長い長い帰りの航路をまえに控えている私達の心臓は、いささか旅行者らしい感傷に甘えようとする。が、そんな機会はなかった。交通検閲はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。私と彼女が、桟橋に立っている二人の巡査と、数人の近処の子供らと、一団の荷役人夫たちに別れの手を振りながら、すこしでも強く長くこの倫敦ロンドンの最後の印象を持続しようと焦っているうちに、船は自分の任務にだけ忠実に――大きな身体からだのくせに驚くほど早い。さっと出てしまった。私達は船室へ帰る。
 皿の上の魚のように、彼女はいつまでも黙りこくって動かない。なにが彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。考えてみると、私達は倫敦で相当根を下ろして生活したものだ。人間というものは、勝手な生物いきものである。こうしていざ倫敦とろんどんの持つすべて、英吉利イギリスと英吉利の提供するすべてから、時間的にも空間的にも完全に離れようとするいま、私達は急に一種白っぽい、妙な不安に襲われ出したのだ。生れた国へ帰ると言うのに、これは何とした心もちであろう? が、それは、ふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然過ぎる、長旅に付きものの漠然たる「前途を想う憂鬱」だったに相違ない。
 しかしこの「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと黄黒きぐろい倫敦の露ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、この一年あまり欧羅巴ヨーロッパ地図の上を自在に這い廻って、いま家路に就こうとしている二足の靴を想像する。それは言うまでもなく、ろんどんチャアリン・クロスの敷石も、クリスチャニアのフィヨルドも、シャンゼリゼエの鋪道も、同じ軽さで叩いたし、マドリッド闘牛場の砂も附けば、これからはまた印度インドの緑蔭も踏むことだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫でたしナポレオンの帽子にも最敬礼した。西班牙スペインの駅夫とも喧嘩したし、白耳義ベルギイの巡査にも突き飛ばされた。モンテ・カアロでは深夜まで張りつづけたし、ムッソリニ邸の門前で一枚の落葉を拾ってくる風流記念心も持ち合わせた。独逸ドイツ廃帝も付け狙ってみたし、明方近い巴里パリーのキャバレも覗いた。裏街の酒場の礼儀も覚えたし、新しい舞踏ステップも一通りは踏める。それから・それから・それから――眼まぐるしく動いたようで、一個処にじっと落ちついていたような気もする。今になってみると、もう一度繰り返したい一年余であった。
 気がつくと、私は、船の進行に合わしていつの間にかこころ一ばいに絶叫していた。
がたん・がたん!
がたん・がたん!
Home-coming blues !
Home-coming blues !
 何とそれが調子よく機関のひびきに乗ったことよ!
 これからは当分、この連続的に退屈モノトナスな低音階と、ぺいんとのにおいと、飛魚と布張椅子キャンヴス・チェアと、雲の峰だけの世界である。
 ろんどん――ジブロウタ――馬耳塞マルセーユ――NAPOLI――ぽうと・さいど――スエズ――古倫母コロンボ――シンガポウア――香港ホンコン――上海シャンハイ――コウブ――よっくへえま! ふうれえい!
 船室は、B甲板の106号。左舷ポウトである。
 夜、寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 バクスタア家からフェンチャアチ停車場へのタキシの窓に瞥見を持った最後の倫敦ロンドン――うす陽が建物を濡らしていた。銀行街にあふれる絹帽シルク・ハットと絹ずぼんの人波。その急湍の中流に銅像のように直立していた交通巡査の白い手ぶくろ。
 とにかく、これが当分のお別れであろう英吉利イギリス海峡――去年の夏はこの上層の空気を飛行機で裂いた――の晩春の夜を、船はいま、経済速力の範囲内で、それでも廻転棒シャフ卜を白熱化させて流れている。じぶらるたるへ、マルセイユへ、ころんぼへ、上海シャンハイへ、やがて、神戸へ!
 朝は、私たち同行二人の巡礼を、すっかり「家を思い出して帰ろうとしている放浪者」の、すこしは殊勝なこころもちのなかに発見するであろう。
がたん!
がたん!
 と機関がうなる。
 船という船のなかで、この倫敦ロンドン発横浜行きNYK・SS・H丸――私がそれに、何の理由もなしにほとんど運命的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つのが聞えた。
『どうしたい。』
『ええ。大変な浪。』
『もうビスケイ湾かしら――。』
『いいえ。』
『そうだ。ビスケイはまだだろう。』
『あしたの夕方からですって。』

     4

 翌日、曇り。
 午前十時、非常時の予行としてボウト・ドリルと消火演習がある。船客一同救命帯を着用してA甲板上のそれぞれの短艇ボート位置へ整列する。汽笛や銅鑼どらが暗い海面を掃き、船員達が走り廻り、マストには発火現場眼じるしの旗があがり、稽古とは知っていてもさすがに好い気もちはしない。
 めいめい紙片を渡される。
「海上の安全を期するため、船客各位に対する重要告知」とあるから、何をいてもあわてて読んでみる。
一 御乗船後まず第一に左の件々御承知置きを願います。
 イ 各自割当の端艇ボートの位置。
 ロ それに乗る場処、並びにそこに到る順路。
 ハ 救命胴衣チョッキ或いは救命浮帯ヴイの着用方。
  右に就き御不審のかどがありましたら、船員にお尋ねを願います。
二 万一本船遭難の際は、汽笛長声一発とともに銅鑼を連打致します。この信号をお聞きになりましたら、直ぐ救命胴衣チョッキあるいは救命浮帯ヴイを御着用の上、甲板上に御参集を願います。
三 もし各自割当の端艇ボートを降ろすことが出来ない場合には、反対側の甲板上に御参集を願います。
四 遭難の際には始終受持指揮者の命を固くお守り下さい。
五 端艇ボート内に手荷物お持ち込みの儀は堅くお断り致します。
六 端艇ボート操練。
平素端艇ボート操練を行う場合には、予めお知らせ致します。しかして愈々いよいよ開始の際には汽笛長声一発とともに銅鑼を連打致します故、直ぐ救命胴衣チョッキあるいは救命浮帯ヴイを御着用のうえ、定めの場所へ御参集を願います。
 私たちのボウトは第二号艇である。
 曇天つづき。
 寒いので、まだ甲板ゴルフも輪投げもテニスもはじまらない。雑談と喫煙。酔っているのか、船室に閉じ籠ったきり顔を見せない人も多い。倫敦ロンドンから乗込みの日本人客はたった四、五人で、他はすべて西洋人だ。
 ビスケイ湾――ここの荒れないことはないと言われている。例外なく、今度もかなりがぶる。が私は勿論、彼女もすこしも酔った気分を知らずに過ぎる。倫敦ロンドンから三日目の朝。船はビスケイを済まして葡萄牙ポルトガルの海岸近く南下する。私達が去年の冬を送って、何艘ものこの航路の船を望遠したエストリル村の家々と、あのホテルの建物さえはっきり見える。私達は双眼鏡に獅噛しがみついて、三階の窓と、そこに張り出ているヴェランダを発見して狂喜した。そして、やがてリスボンの町の空と一しょに海岸全体が水平線のむこうに消えるまで、眼のまわりに眼鏡のあとを赤くつけて、いつまでも立ちつくしていた。
 倫敦・じぶらるたる――一三一八カイリ。所要時間、三日と二十三時五十分。
 船のへさきに赭茶あかちゃけた土と、緑の樹木と、無線電信の高柱と、山鼻の大岸とをもったジブラルタルが海の夢のようにぽっかりと浮かび上った。
 私は、小学六年生の頃に、何てことなしにこのジブラルタルという地名の響きが無性に好きで、当時の小学生らしくこんな短歌みたいなものを作った記憶がある。
赤き帆のヨット走れり波分けて
  ジブラルタルの夏の海をば
 というのだ。私が妻にこの話をすると、彼女は断髪を薫風に与えて微笑した。
 夏ではないが、このへんはもう夏げしきである。ヨットも走っていた。英吉利イギリス海軍の快走艇ヨットだ。が、幼い歌人の幻滅にまで、帆の色は赤ではなかった。陽にせて白っぽくなったカアキイいろだった。
 同船の誰かれ――日本人学生N氏とN氏夫人の英吉利婦人、T大学医学部教授T博士、などとみんな一緒に上陸して、出帆までの町の内外をドライヴする。坂・植物・狭い大通りメイン・ストリイト・不可思議な活動常設館・両側の土産物店・貝細工・卓子テーブル掛け・西班牙肩絹スパニッシュ・ショウル・大櫛・美人画・闘牛士装束など。ムウア土族の市場を見、郊外の国境を越えてちょっとすぺいん領へ這入り、山下の道を一巡して帰船する。
 出港後間もなく、岬をかわしたところで、横浜からマルセイユを経て来て、これから倫敦ロンドンへ行こうとしている同じNYKのH・Z丸に出会した。巨船二艘、舷々相摩あいまさんばかりの壮観である。
 往き大名と帰り乞食が洋上に挨拶する。マストに高く信号旗がひるがえるのだ。
 赤と黄のハスの染分け・白に青の先が切れ込んだの・赤白青の縦の三色――この三旗はそれぞれにO・A・T羅馬ローマ字を示し、O・A・Tはここに一つの意味を綴る。I am glad to see you,「お眼にかかって嬉しい」というのである。これに対する応答――T・D・Lの三つの旗。即ち Bon Voyage !「安全なる御航海を祈る」。
 同時に相方そうほうで、Y・O・Rの旗を上げる。「多謝サンキュウ」である。そして、れ違う。
 海の通行人は騎士のごとく慇懃いんぎんだ。が、全船員は各自その船べりに重なり合って、船同士の儀礼を破壊して日本語で叫びかわす。
わあい!
やあい!
しっかりやってこううい!
ばかやろううっ!
さきへけえるぞううっ!
うまくやれよううっ!
 ジブラルタルから馬耳塞マルセーユまで――六九七カイリ。二日と一時間五十分。
 マルセイユ――「世界悪」の輸出港。朝は灰色、正午ひるは暗く、夜は明るい市街。雨で蛇のうろこのように光る歩道。それを反映して赤い空。キャナビエルの大街。裸女見世物の勧誘人。頬の紅い女達の視線。酔ってふざけ散らして歩くP・Oの水夫連。はだか人形を並べた煙草屋の飾窓ウインドウ。MATTIの緑色タキシ。ヴォウ・ポルトの入江の帆柱。花環を担いだ男たち。笑って来る陽やけした女の一軍。点々と彼女らの腕から溢れる花。諸霊祭の夜。ケエ・デ・ベルジェの混雑。シャトオ・ダフ往きの小蒸汽船。星と街灯に装飾された新聞売台キオスク。ジョリエットやサンラザアルの貧民街から出て来る船乗りの遺族たち。海岸の木棚の共同墓碑。「故何のたれ――海で死んだ。その父のごとく、また祖父のごとく。」午後は満潮を待って花流しの式。毎年の例。長い桟橋の列。重い貨物自動車の縦隊運動。後からあとからつづく満員電車。石炭の山。荷物の丘。塵埃じんあいの塹壕。汗をかく起重機クレイン。耳を突く合図の呼子。骸骨のような貨物船。赤くびた鉄材の荒野。鳥打帽をかぶって首に派手な布を巻いた波止場の伊達者。眼の円い労働者たち。脚の太い駄馬の下をくぐって遊び狂う子供らの群。蒼いアウク灯の堵列とれつ。鎖の音。汽笛。マンドリンで「君が代」を奏しながらH丸の下で投げ銭を待つ伊太利イタリー人の老夫婦。ドックに響く夜業の鉄鎚てっつい。古着と安香水を売りに船へ来る無帽の女。尼さんの一行。白衣びゃくえ巴里パリーベネデクト教団。黒服のサンモウル派。ノウトルダムの高塔。薄陽うすび。マルセイユ出帆。
 錨を上げる。
 ナポリまで四六二カイル。一日半の地中海だ。

     5

 砂漠・暑い風・油ぎった水・陽に揺れる遠景・金属製の塔壁パイロン・伸び上ったり縮んだりする起重機の媚姿ポウズ・その煽情的な会話――かた・かた・かた――と、黒い荷船の群集・乾燥した地表の展開・業病に傾いた建物の列・目的のはっきりしない小船の戦争・擾乱と狂暴と異臭の一大渦紋・そのなかを飛び交すあらびや語の弾丸・白い樹木・黄色い屋根・密雨のような太陽の光線――PORT・SAID。
 ポウト・サイド。
 倫敦ロンドンから三五八八カイル。十一日二時間五十分。
 横浜まで八四七〇カイル。三十六日。
 西洋の出口であるこの奇妙な門は、同時に、東洋への入口のより奇妙な門である。だから、PORT・SAIDは、白・黒・黄・赤の各人種によってアラビヤ風に極彩色された、二面神の象徴模型なのだ。
 スエズ運河はここからはじまる。
『明朝早くポウト・サイドに着きますが、入港と同時に石炭の積込みを始めますから、今夜おやすみになるまえに窓を閉めたほうがいいでしょう。よく忘れて開けて置いたため、窓から石炭の粉が舞い込んで、部屋じゅう真黒になった人があります。』
 と、昨夜の食卓でナイフとフォウクの間からこういうBROADCASTをした人があった。
 で、窓を締めたきりにした船室で、寝苦しい一夜を明かす。
 それでも、朝になってうとうととしたらしい。
わ・わ・わっ!
わ・わ・わっ!
 という不可思議な叫喚を、最初私は夢のように聞いていた。が、気が付くと、私の耳には、慣れたエンジンの鼓動がない。停まってるな! と思うや否、その時まで遠くの蓄音機のようにぼやけていた「わ・わ・わっ!」が、急に恐ろしい正確さで一度に私を揺り起した。
 ポウト・サイドの町が、ほこりっぽく騒ぎ立てながら、船窓から私を招いていたのだ。
 とっくのむかしに石炭の荷役が開始されて、幾艘となく両側の船腹に横付けされたたらいのような巨大な荷船から、あんぺらの石炭ぶくろを担いだ半裸体の土人のむれが、甲板へ渡した板を伝わって一個師団ほど上下している。それはじつに、規則立った鎖の動作だった。二枚並べて架けた板梯子を踏んで、一定の間隔を置いた黒人たちが、一つを駈け上って他の一つから走り降りる。めいめい石炭を詰めた袋を運んで、それを、投げるように炭庫バンカアの口へあけては、遅れまいと熱狂している。見てると、まるで一連の機械のように、後からあとからと続いてるのだ。立ち昇る石炭の粉に、人も船も言語も真っくろである。「わ・わ・わっ!」は彼らの掛け声だった。私は、この、細い脚を持ったありのような人たちの、驚くべき多数の努力を目前にして、同じような光景を呈したであろうピラミッド工事の当時を思った。
 そこで、私もいそいで、ジレットを揮い、コルゲエトの泡を吐き、オウトミイルに首を突っ込み、ヘルメットを頭に、追い立てられるようにA甲板へ出る。
 粉炭の濃霧を通して、ポウト・サイドは砂漠の蜃気楼だ。
 そして甲板は、いつの間に乗船して来たのか、土耳古トルコ人・埃及エジプト人・あらびや人の大雑沓である。とるこ帽・金いろの腕輪・赤銅の肌・よごれた白衣・じゃっぱん大阪製竪縞たてじまの木綿洋服・陽に光る歯・動物的な体臭――。
 そのあいだを縫って、久しぶりに陸地に昂奮した船客達が、眼の色を変えて右往左往している。畢竟ひっきょう人間は土の上の生物だ。一刻も早く大地を踏みたい衝動に駆られて、みな無意識に脚がむずむずしているのだ。一同誰もかれも、非常に重大な要事をもって人を探してると言ったように、そのくせ、ただわけもなく甲板を歩きまわりながら、先刻から何度も訊き合った無意味な質問を、会う人ごとに、双方同時に発している。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 向うでもやってる。
『上陸なさいますか。』
『上陸なさいますか。』
『は。ちょっと。』
『は。ちょっと。』
 相手の返事を聞かないうちに反撥するように別れる。と思うと、出あいがしらにまた「上陸なさいますか」なのだ。何という軽跳な、無責任に晴れ渡った寄港者の感情――それはそのままポウト・サイドの空の色でもある。
 後部の舞踏甲板は、欧羅巴ヨーロッパ人によって黄金の威力を実示された被征服民族の商隊で一ぱいだ。
 狡猾な微笑で全身を装飾した宝石売り――独逸ドイツ高熱化学会社製の色硝子ガラスの小片を、彼らは「たくさん安いよ」の日本語とともに突きつけて止まない――と、二、三げんさきからお低頭じぎをしながら接近して来る手相見の老人――「往年倫敦ロンドンタイムス紙上に紹介されて全世界の問題となれる科学的手相学の予言者バガト・パスチエラ博士その人」と印刷した紙を、証明のため額に入れて提げている――と、絵葉書屋と両替人――これは英語で、人の顔を見次第、「両替はチェンジ・モネ? 旦那マスタア」とか「長官ガヴァナア」とか「大佐カアネ」とか、対者の人品年齢服装で呼びかけの言葉を使い別けする――と、埃及エジプト模様の壁掛け行商人と出張煙草屋と、そうしてふたたび、宝石売りと、手相見と、絵葉書屋と両替人と、壁かけ行商人と出張煙草商と、これらはどこにでも気ながに潜伏していて、甲板上のあらゆる意表外の物蔭から、砂漠の突風のごとく自在に現れて各自その商行為を強要する。奇襲された船客は逃げながらも楽しそうである。“No ! No thankyou,”「のん・めあし・ぱぶそあん――。」
 愛すべき寄港地の猥雑さ!
Galla ! Galla ! Galla ! Galla !
Galla ! Galla ! Galla ! Brrrrr !
 声がする。
 やはり土人だ。奇術師である。
 若い黒人が甲板に胡坐あぐらをかいて、真鍮のコップみたいなものを二つ並べて伏せては、大声に呶鳴っているのだ。
 人寄せの呪文であろう。
がら・がら・がら・がら
ぶるるるるるるるるる
 Brrrrと唇をふるわして、彼は、金属性の扣鈕ボタンを二つ三つコップへ入れて振る。するとそれが、一羽のひなっ子に早変りして出て来る。見物が集まる。今度は手品師は、船客の女の一人にひよっこを握らせて置いて、また「GALLA・GALLA・GALLA」をやる。女が手をひらくと雛は解けて空気になっていた。
 ぽかんとしてる女の顔へ、一同の爆笑が集中する。なくなった雛鳥は、一番大きな口をあけて笑った、女の同伴者の紳士の咽喉のどの奥から、黒い魔術師の指さきにつまみ出された。真昼間のアラビアンナイト。
がら・がら・がら・がら!
ぶるるるるるるる!
 黒人の眼は異様に輝きを増し、扣鈕ボタンだけでは面白くないからと客に投げ銭を求める。あちこちからお金が降る。その白銅や銀貨がつぎつぎに彼のポケットへ消えて、代りに何羽ものひよっこが甲板を這い出す。「もっとお金を! もっとお金を!」と黒人が叫ぶ。ようやく気が付いた観客は、金のかわりに苦笑を与えて散らばりはじめる。この浮き足立った群衆を食い止めようとして、黒人の額には黒い汗の粒々がにじみ、その一つ一つをかっと照りつけて、ポウト・サイドの太陽は麺麭屋ベエカリーの仕事場のように暑い――「がら・がら・がら・がら」船客中の子供達のあいだに、直ぐもう甲板の方々でこの真似が流行はやり出している。
 船の周囲は、商隊の乗り捨てた小舟で埋立地のようだ。遠くからは、せみの死骸に蟻がたかったように見えるに相違ない。海上のそこここに同じ集団が散在している。青煙突ブルウ・ファネル英吉利イギリスの貨物船・黄地にQ字の検疫旗を揚げたメサジェリイのふらんす船・デラクサ号は伊太利イタリー船だ。下に、船籍港ナポリという字が運河の水に白く揺れている。
 九時半上陸。
 桟橋までさんばん
 甲板給仕デッキ・スチュワアド船腹梯子ギャング・プランタに立って艀舟はしけを呼ぶ。声に応じて、幾つもの赤い土耳古トルコ帽がを操って殺倒する。上陸する女客たちは、大げさに怖がって、水夫の手で小舟へ助け下ろされる。彼女らは、ボア・ドュ・ブウロウニュへでも散歩に行くつもりで澄し込んだのだ。みんな、これから探検しようとする異国空気の期待に上気して、頬を紅くしている。どの小舟も、そういう女達を満載して、用もない嬌笑とはしゃいだ歌声が水面を流れる。
〔Pardonnez a` mon bavardage
J'en suis a` mon premier voyage.〕
 BRAVO!
 形式として、一まず税関の柵内を通り過ぎる。
 ち・ち・ち・ち――と手のなかの土耳古銀ピアストルを鳴らして往手に立ち塞がる両替屋の群、掴み掛るように乗用を促す馬車屋の一隊、それらを撃退して市街へ出ると、町角、店先、往来のいたるところに同じ船の連中が三々伍々している。寄港は、長い航海中での祭日だ。誰もかれも必要以上に着飾って、石炭の風と起重機クレインの唸りの本船から脱出して来たらしい。
 婦人客たちは、久しぶりに帽子をかぶったので、すっかり顔違いがしてまるで別人のようだ。みんな悪戯いたずら好きらしい眼つきをして歩道の石畳を蹴っている。
 私達の一行も、児童のような驚異と好奇で一ぱいだ。
 やあ! 来たぞ! 来たぞ! アラビヤ人が来たぞ! うふっ! 堂々たる髯だなあ!
 そうかと思うと――。
 あ! 何だいあれあ! え! 埃及エジプトの女だって? 鼻柱へ輪のついた棒みたいな物を立てて、黒いヴェイルを垂らしてるじゃないか。おい君、そばへ寄ってそのあらたかなヴェイルを引っ張ってみたりしちゃあいけないよ。だから外国人は下品だって言われるんだ。黙って遠くから感心して居給え。通る人が笑ってるじゃないか――。
『あのアラビヤ人はにせものね。』
『なぜ?』
『だって駱駝らくだに乗ってないじゃありませんか。』
 なんかと、きょろきょろ立話していると、その問題のあらびや人が引返して来て、そっと私の肘を突ついた。そして「堂々」たる白髯の奥から彼がささやく。
旦那マスタア! 春画オブシイン! 春画オブシイン!――ちょっと婦人方に背中を向けて、まあ、一眼でいいから私の手許を御覧なさい。ほう! これ! 素敵だね! え? 早く! 旦那マスタア春画オブシインだよ、ほら!』
 辟易して、出鱈目に歩き出そうとする。
 と、何か足に引っ掛るものがある。人間だ。人間の子だ。うっかりしてるうちに、この少年は無断で私の足に掴まって、靴磨きを開始していたのだ。危く踏まれそうになるのも構わず、膝で追っかけて来て、すっかり磨かせてくれと言う。そしてもう片手では、代金を要求しているのだ。
 こうなると、立ちどまることは許されない。停まるが早いか、くだんの靴磨き少年をはじめ、例の春画売り、絵葉書屋、煙草屋、両替屋、首飾屋、指輪屋、更紗さらさ屋、手相見、人相見のやからが翕然きゅうぜんと集合して来て、たちまち身動きが取れなくなる。街上をあるいていてさえ、どこからともなくいきなり駈けて来て、足下に平伏するやつがあると思うと、すでにそこで二つの真鍮のコップを叩いて「がら・がら・がら・ぶるるるる」をり出している。蹴り飛ばして前進するわけにもゆかず、と言って、愚図々々立往生をしていて見給え。直ぐさま背後うしろには物売りが人垣を作り、まえの商店からは腕力家の番頭が走り出て来て、有無を言わさず君を店内へ拉致するだろう。
 ポウト・サイドは、都会と呼ぶべくあまりに統一を欠いている。それは、欧羅巴ヨーロッパでもなし、亜細亜アジアでもなし、そうかといってあふりかでもない。言わば、この三つの大陸を結ぶ運河の口の共同バザアなのだ。白色と有色と、二つの文明のどちらから見てもせきに当っている。だから、まるで蛇籠のように、両系統の文化の流れの汚物ばかりが引っかかってポウト・サイドはこんなにもこの強烈な日光に臭く蒸れているのだ。
 これは、商店だけで出来ている町なのかしら。住宅というものが眼に付かない。
 安宝石の店の猶太ユダヤ人の鼻、菓子屋の女のよごれたエプロン、仏蘭西フランス語の本屋の窓に出ている裸体写真、東洋煙草店、大道でメロンの切売り、果物屋のはえ、自動車庫の油の小川、塵埃ごみだらけの土産物店の硝子ガラス箱、その中の銅製花瓶、象形文字の敷物、ダマスカス鉄の小武器、すふぃんくす形の卓灯スタンド、金箔塗りの装飾網、埃及柱オベリスクかたどった鉛筆、その他考え得られるすべてのナンセンスが、憧憬の東洋の夢として売りに出ている――BRAVO!
 それにしても、全市民が家をからに、街頭に伏兵して私たちを待ち構えていたに相違ない。
 裸足はだしの少年靴みがき団を筆頭に、花売り娘、燐寸マッチ売子、いかさまさいの行商人、魔窟の客引き――そう言えば、このポウト・サイドには、土人区域の市場を抜けて回教堂モスクの裏へ出ると、白昼、数時間寄港の船員や旅行者を相手にする、陰惨な点で世界的に有名な一廓がある。波止場で馬車に乗ってただ黙って笑えば、馬車屋のほうで心得ていてそこへ案内するにきまってるほどの名所である。
 では、レディ達をルウ・ドュ・コマルス街の珈琲コーヒー店の椅子へ一時預けにしておいて、出帆前にちょっとそのポウト・サイドの奥の奥と言うのを覗いて来るとしようか。
 馬車で行こう。
 がら・がら・がら・がら――焼けた敷石に車輪を鳴らして、僕らはいま、あらびっくで何々シアリ―― Sharieh ――と呼ばれる大通りを走らせている。
 両側は、マホメッドの人種市だ。
 店という店から人が飛び出して声をかける。
“Thisway monsieur colonel !”
“Here you are,anata―anata !”
 片眼を残して顔半分潰瘍かいようし去った埃及エジプト人が、何かを売りつけようとして馬車を離れない。が、これでまだ動いてるからいいようなものの、もし、そこのキャフェの張出タレスにでも腰を下ろして、これでまあ行商人達を撃退してよかったなどとほっと安心していようものなら、たちまち蠅のような彼らに包囲されて靴磨きの子供は足へ取りつき、春画売りは恐るべき色眼を使って袖の陰から絵を覗かせ、宝石屋は君の鼻先へ首飾りをぶら下げ――そうして君は、君はとうとう癇癪を起して靴みがきの耳を引っ張り、春画売りを大声叱咤し、宝石屋を殴り飛ばして、あわれ逮捕の憂眼うきめを見ることとなるであろう。
 通行の群集はまるで世界中の敗残者から成り立っている。希臘ギリシャ人・東邦人レヴァンテン・あらぶ・埃及エジプト人・とるこ人・シリヤ人・回教を信じようとしない「西方から来た白い悪魔」たち・遊牧の貴族べずいん人。その黒くうるんだ大きな瞳・鼻筋から両眉のあいだへ円く巻いて渡した銅の針金・房付帽タアブウシュ長袖下衣キャフタン・薄物・布頭巾タアバン冠物附外衣プルヌウス・頬を線状に焼いた装飾・二の腕の桃の刺青ほりもの
 狭い東洋の門戸――PHARAOHの国。
 Rue du Nil 街は、木造建築の銀行と煙草の屋台店――ここを下って、土人区へ這入る。
 巴里パリーでいえば古着古物屋町ラグ・ピッカアス・セクションだ。半暗と湿気と悪臭の横町が、迷園のように縦横に走り、やけにひさしの突き出た、原色塗りの低い建物がお互いにけあって並んで、誰かの言った「天刑病市ポウト・サイド」の感じを適切に裏書きしている。砂と埃・半裸体の街上の少年少女・トラホウムで赤い彼らの眼と・細い腕・病菌の沈澱してる路傍の黒い水溜り・胴だけで地べたに笑ってる乞食・骨と皮と耳ばかりの驢馬ろば・その脚の関節の真赤な傷口に群れているあぶ・邪悪そのもののようなキャフェの土間口・そこの軒下に立ってねぎかじっているアラビヤ人の木炭売り・往来の中央で反芻はんすうに口を動かしている山羊のむれ・通りを隔ててわめき合う会話・これら一切のうえに往き渡るむっと鼻をつくにおい――おまけに、ここらの台所は共同で、しかも野外である。道路の横に大釜が据えられて、口きり一ぱいに羊の脂肪が沸騰している。この釜のまわりの子供と蠅・それを叱る母親・一せい哄笑する町の人々・じつに盛大に混沌雑沓を極めている。
 波止場の附近では行商人に悩まされた。しかし、彼らはそれでも売るべき何ものかを持っていたが、もうここまで来ると、人は、売るべき何ものをも所有していない。だから、乞食は黙ってその病毒の患部を示し、子供達はわけもなく馬車を追って競争し、女はしきりに車上の行人にはだをあらわす。
 肉屋がある。血だらけな肉切り台は銀蠅で覆われてる。何という反食慾的な腐爛した臭気! そして、これはまた、何と悲しい麺麭屋ベイカリーだ! 店頭のぱんは、数度の発疹に蒼白く横たわって息づいている。不潔と醜怪。狭い往来は病気の展覧会だ。狼瘡ルウパス、風眼、瘰癧るいれき、それからあらゆる期程の梅毒――。
 馬車は急ぐ。
 老人の忘八ホア・マスタが、馬車と平行して走る。
『あらびやの女がいますよ。アラビヤの女が――。』
 右からも左からも色んな声が馬車を包囲する。
仏蘭西フランスの女! 大佐さんムシウ・カアネル!』
モハメッドのために!
モハメッドのために!
 と祈るように私語ささやくのは、盲目の老婆の手を引いた、ベズイン族の少女である。両頬に三本細く文身いれずみしてるのが、青い鬚のように見える。「モハメッドのために」幾らかくれと言うのだ。乞食には違いないが、それは表面で、内密には、即座に物好きな旅行者の求めに応ずる。道理で、乞食のくせに、ここらの住民のどれよりも小ざっぱりした服装をして、顔には白粉のようなものをまだらに叩いていた。
 この辺一帯がその町なのである。
 よろめいて立つ塔婆パゴダの並列。家々の窓から覗く土耳古宮廷妾オダリスクス王公側室サルティナス回教女ファティマ。何と貧しい淫楽の巷であろう! 植民地兵営の喫煙室みたいな前庭。その奥に、薔薇色の壁紙に広告用の掛け暦と、ひびの入った鏡とを飾った客間。全然生の興味を欠いた女たちの顔。洞穴のようにうつろな胸、睫毛まつげのない眼、汚点だらけの肌、派手なKIMONO、羅物うすもの下着シミイズ、前だけ隠すための無花果いちじくの葉の形の小エプロン――そんなものが瞥見される。
 彼女らは先を争って戸口から走り出てくる。キモノが宙に飛んで、皮膚の大部分に直接陽が当る。が、慣れた光景とみえて、誰も何らの注意を払おうとしない。ある一軒の家からは、純粋のあらびや女がふたり、せこけた両腕を伸ばして何か盛んに我鳴り立てた。英語の解る御者に訊くと、土地特有の生ぬるいビイルを一杯ずつ飲ませろと言ったのだそうだ。
 この恐るべきポウト・サイドの後宮ハレムをPASHAのごとく一順して、私たちは港へ帰った。
 あらゆる天候によごれたSS・H丸の姿が何と有難く見えたことよ!
 午後一時、石炭補充を終って出帆。
 がら・がら・がら・がら――錨を上げる。
 これから、今夜おそくまでスエズ運河がつづく。
 右舷スタボウドの岸を船とならんで、白く塗ったカイロ行きの汽車が、沙漠と熱帯植物を背景にことこと這っていた。

     6

 紅海の或る日。
 蒸し殺されるように暑い。これでも今日は幾分涼しいほうである。
 速力。十三マイル半。
 南三八度E。
 北風。軽風2。
 温度。大気八四度。
 海水度。八一度。
 晴。
 この「軽風2」というのは、1が light air, 2が light breeze の2である。
 馬耳塞マルセーユとナポリから大分の日本人が乗り込んで来て、船はいよいよ日本村の観を呈する。
 独逸ドイツから帰国の途にある作曲家のH・R氏――日本風に姓が上である――の一家や、K大学精神病学教室のK博士、A大学法医学部のK教授。それに、倫敦ロンドンから一しょに来たT博士と、だいぶお医者が多い。そのほか鉄工所のK工学博士、建築家のY博士、倫敦正金支店のK氏一家、N氏夫妻、砲兵大尉だの学生だの、外務書記生だの在外商店の人々だの、なかなかの賑やかさだ。
 甲板ゴルフ、麻雀マージャン、ブリッジ、碁、輪投げ、散歩、デッキにこしらえたプウルの水泳。夜は映画、音楽会。舞踏。
 がたん・がたん、と細かく機関が唸る。
 ぺいんとのにおい。海の色。甲板椅子。雲の峰。
 私は毎日、私達の食卓のテエブル・マスタア副船長T氏の部屋へ出掛けて、モウルス信号コウドの残らかを覚えようと努力した。
 船から船へ、発火、無線、旗などによって意思を通ずる浪漫的な海上国際語である。
 U――君は危険に遭遇している。
 V――助力を求む。近くにいてくれ。
 R――貴船の位置は本船の航路外にあり。静かに通り過ぎよ。
 L――停船! 重要あり。通信したし。
 F――自航力なし。通信を求む。
 DS――危険! 注意せよ。
 BFY――不可能。
 HOK――しかし。
 MRZ――いつ君はのし上げたのか。
 MST――遠方。
 AG――船を捨てるほかみちなし。
 AN――前進し得る状態にありや。
 BJ――機関不能。
 BK――何事が起ったのか。
 DF――幾らかの応援あらば復旧することを得べし。
 ETC・ETC・ETC。
 諳記しては、片っぱしから綺麗に忘れる。
 ある日の船内無線新聞。
 伯林ベルリン。昨月曜日夜、ポッツァレル・プラッツに三百人を一団とせる共産党員の暴動起り、警察を襲う。大部隊警官の出動を見て、間もなく平穏に帰す。
 フリイドリヒスハアフェン。天候可良ならば、ツェッペリン伯号は五月二日に維納ウインを訪問すべし。
 テュニス。伊太利イタリー新聞組合の戸外にて機関銃爆発。原因損害等一切不明。
 スエズから古倫母コロンボに至る十日十六時四十分の紅海横断。この間、三三九六カイル
 甲板洋灯ランプの無礼な光線が、私を熟睡から引き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしった。水夫たちが朝早くデッキを洗っている。で、また眠りかけようとしていると、ただならない跫音が廊下を走って階段に上下した。声がする。
『コロンボ!』
 水をかぶったように、私は寝台をね降りた。そして、パジャマに上履きを突っかけたまま、どうしてこう陸地の片影さえもが恋しいのだろうと自分で不思議に思いながら、船室を飛び出して上甲板に立った。
 まだ、空気はひやりとして薄暗い。
 近くの海面を緑と白の灯を長く引いて、大きな帆前船が滑って行く。海岸の突起物は灯台だ。セイロン島である。
 とても、じっとしてはいられない奇妙な感激だ。やたらに甲板を歩き廻る。東の水平線は薔薇色に明けかかって、猛烈な速力で陽が昇るものだから、うしろに、まだ闇黒の固形が山のようにそびえているうちに、全海面が火山口のように燃えて、雲は紫に色どられ、椰子に囲まれたコロンボの町が私の眼前に伸び上って来た。
 水先案内の小艇を抱くようにして、船は徐々に湾内へ進む。停泊中の軍艦、貨物船などの舷側に宝石のように灯がきらめいている。朝の微風こそは、この港で一ばん享楽すべきものだ。水蜘蛛のように大帆を張った漁船の群が、お互いに影を重ねて揺れて過ぎる。そのあいだを、竹や丸太を船べりから水面へ組み出して、顛覆てんぷくを防いでいるセイロン島の土人舟が、何か大声に叫びかわしながら漕ぎ廻っているのだ。よく身体からだすわらないほど狭い独木舟バラグワなので、土人はみな片膝ついただけで水掻きのようなをあやつっている。遠くから見ると、まるで曲馬団の綱上踊子ロウプ・ダンサアだ。
 朝の闇黒から滲み出て来る港の活気は、魔術的である。ちょうどバレイの幕あきのような照明効果をもって、コロンボはいま私達のまえに出現しようとしている。
 市街は、人家と高層建築物の点綴。そして、島は起伏する山頂の連結。
 甲板には人が増してくる。あらゆるバス・ロウブとガウンの陳列会だ。すると、丸窓は一つ一つ眠い顔をはめて、肖像の額縁になる。
 もう陽は高い。霧は海に落ちた。椰子の木の町は、そのホテルの高楼と、印度インド塔の急傾斜屋根と、未完成のような前庇ファサアードをもって、くっきりと天空を限り出す。
 港は、H丸の欄干レイルの下に、一日の生活を開始した。検疫を迎える小梯子の周囲は、黄色い旗をかざした水上警察艇と、一刻も早く上船しようとする土人の両替舟とで、水の見えないほど詰っている。白いスカアトをはいて頭髪をシイニョンに結んだ長身の男たち。青い海を背に、眼の大きなとびいろの彼らの顔と、その独木舟バラグワと、微かに漂う香料と、原色縞の首巾スカアフと、隠見する黄金の腕輪と――私は、印度インドのすべてを、この一望のうちに看取した気がした。
 ポケットに印度貨ルピイを鳴らす両替人。ロリアンテルやル・ギャレ・ファスなどのホテルの客引き。みんな真率で、気高い美男の印度インドの人たちで船は急に重くなり出した。
 男の結髪シイニョンに挿した貝の櫛、サアロンと呼ぶその腰布、ヴェテという着物、なかにはベルトつきの悪くモダンな洋式上衣や、理髪師の仕事服を一着に及んでいるはいからなのもある。
 小蒸汽で上陸する。
 桟橋を出ると直ぐハイシムの宝石店だ。微笑しているシンガリイス人の一団と、眼を射るような彼らの陣羽織テュウニックだ。特産と好奇の店頭と、ライス・カレイの料理店だ。そして、カルジルの洋物百貨店と、マカン・マアカアの装身具屋だ。白孔雀は路傍の大籠に飼われ、手長猿は人の肩に止まり、蛇使いの女は鼻孔から蛇の頭を覗かせて、喇叭らっぱと腕輪のじゃらじゃらで人をあつめる。
 見るべきものがあまりに多く、それが一時に四囲に殺到してくる。船中の倦怠に慣れた耳と眼の感覚には、これはどうかすると強すぎる色彩であり、刺激である。何にしても、この太陽美の甘酔! 直視すべく眼が痛い。
 近くはこの欧羅巴ヨーロッパ区域。
 広い散歩街の両側に、屋内通路アルケイドと、赤、緑、白に塗り立てたおもて口、漆喰細工のちいさい装飾、不可解に垂れ下った屋根、多角形に張り出ている軒、宝石・象牙・骨董を商う店、絹地屋――など、これらの商店はどこも象の模様で食傷している。象の刺繍、象の置物、色琺瑯エナメル製の象の吊垂灯ペンダント――そして、ちょんまげの人力車夫と、ヘルメット帽の赭顔あかがおいぎりす紳士と。
 靴をはいてるのが欧羅巴ヨーロッパ人で、跣足はだしで歩いてるのが印度インド人。天鷲絨ビロウドの骸骨頭巾は馬来マレイ人だ。
 が、ほんとのコロンボは土人街にある。
 まず市場。
 果物市場。
 パイナップルと青香しきみの雄大な山脈。檸檬レモン檳榔樹びんろうじゅの実・汁を含んだ蕃爪樹ばんそうじゅ・膚の白い巨大なココナッツ・椰子玉菜・多液性のマンゴステン・土人はこれで身代を潰すと言われてる麝香猫ドリアンの実・田舎の少女のようなパパヤ・竜眼・茘枝ライチイ麺麭パンの実・らんぶたん――。
 住民は、男か女かちょっと判断のつかない服装をしている。鬚のない顔に長い睫毛まつげ、頭髪をうしろに垂らすか、結い上げるかしているから、なるほど紛らわしいわけだ。そして、その家である。セイロン島の住宅は、すべて往来へ向って開けっ放しになっていて、形ばかりの椰子の葉の衝立なんかを仕切りに立ててあるに過ぎないので、店でも居間でも、おもてからすっかり見える。床屋がある。易者の店がある。高利貸、質屋、陶器師の土間、RAJAHのような魚屋の主人、糊つきの網絹で面覆トウルをした婦人たち、彼女らの不可解な胴緊衣ボディス、ずぼんの上から欧風襯衣シャツの裾を垂らして、ゆらりゆらりと荘重に歩く金融業者チェティス、眉間に白く階級模様と家紋を画いている老貴族、額部に宝石を飾った若い女の一行、そのあいだに砂塵を上げて、満員の電車と、レヴィニア丘行きの乗合自動車が驀進してくる。
 私達も、自動車を駆って郊外へ出た。
 市街をあとにするが早いか、場末に当る区域はなくて、すぐに田舎である。砂ほこりが私たちを追っかけて来る。緑樹に挟まれた赭土あかつちの道が、長く一ぽん私達の前に伸びて、いたるところに新式の農園が拓かれつつあるのを見る。古い土に若い力が感じられる。ココナッツの森を越すと、陽にたぎっている水田の展望だ。玉突台のような緑野の緩斜面だ。そこここに藁葺わらぶきの小屋がある。花壇のなかに微笑して建っている。マグノリアのにおいがする。村の入口では子供が出迎える。車が通る。馬のかわりに水牛がいている。瘤牛ジイブが畑を耕している。その角はすべて美々しく彩色され、頸には貝殻の襟飾りだ。田園のあちこちに働く赤銅色の男たち、その腰に巻いた白布のそよぎ、肩や背に重い竹籠を載せて市場へ通う人々――女が道ばたで石を割っている。道路工事だ。
 セイロンはまだ巨大な処女地の感がある。
 私の足もとの池にはこうして水蓮の花が浮かんで、野には、雲の影が落ちている。
 子供を背負った母親が水瓶を提げて黄色い道を行く。
 何てくらくらする日光だろう!

     7

 しんがぽうるに一泊。
 シンガポウア――永久に新開地めいた町。支那街と馬来マレイ芝居と支那映画「愛国魂」五巻。「打倒日本主義」の貼紙。孫中山ちゅうざん先生の肖像。土人の水上生活。済民学校。適南学校。トモエ自動車商会。鍼灸揉療治所。御料理仕出し「みさを」。万興公司。中西洗衣。コンノウト・ドライヴ。旅人の木。水源地の夕涼み。植物園の月明。
 船は、スマトラの北端、マラッカ海峡の入口にさしかかる。
 正午。
 北経五度五十二分。
 東経九十四度五十八分。
 香港ホンコン――九竜クウロンに一泊。わんちゃいの支那魔窟。縁日。革命屍体の写真。水汲み行列。麻雀マージャン売り。砲台。島。
 上海シャンハイ――ちょうど五三事件の記念日とかで、城内には朝から不穏の気あり。果して共産党の小暴動随処に乱発。散策、買物の後、南京ナンキン路で精進料理を試み、自余の時間は、街上に船中に、ひたすら麻雀売りの撃退に専念す。
 それから神戸――とうとう日本へ帰りました。その証拠には、この満目のKIMONOです。女の帯です。とたん屋根の大洋です。耳を聾する下駄の音です。ぺんき塗り看板の陳列会です。電信柱の深林です。そして、小さく突っ掛るような日本語の発音です。
 倫敦ロンドンを外套で出て、日本へ着いてみると初夏の六月だ。
 長い「海のモザイク」だった。
 がたん・がたん――と、まだ機関の音が耳についてるようだ。
 私たちも、今度こそはここに落ちついていられるのかしら? もう汽車を掴まえて旅に出なくてもいいのかしら?――しきりにそんな気がしている。
 神戸に二日休んだのち、間もなく私達は、上りの特急の窓から、約一年半前に別れた風物に異常な感激をもって接している自分たちを発見した。
 はるばるも帰り来しものかな――やがて亜細亜アジアのメトロポリスへ、汽車は走り込むのだ。半球の旅のおわりと、空をこがす広告塔の灯とが私達を待っているであろう。





底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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