中央公論の二月号と三月号とに、文壇諸家の交友録が載つてゐました。そのなかに正宗白鳥氏は今は亡き人の平尾不孤、岩野泡鳴二氏を回想して、二人とももつと生きてゐたら、もつと仕事をしてゐただらうに、惜しいことをしたものだと言つてゐました。ほんたうにさうで、二氏はそれぞれ
平尾氏が早稲田の文科を卒業後、初めて見つけた勤め口は、大阪の造士新聞といふ
その造士寮には、今中山文化研究所で花形のS医学博士なども、大阪医専の学生としてゐられたやうでした。女学生も三人ばかしゐましたが、そのなかのOさんといふのに、平尾氏が恋をしました。Oさんは金沢在の生れで、朝鮮にもゐたといふことでしたが、いかにも雪国の生れを思はせるやうな、しつかりした、理智の勝つた、主我的で打算的なところの見える婦人でした。その頃Oさんは梅花女学校に通つてゐました。キリスト信者の多いあの学校のなかで、平気で自分の机に小さな仏壇を入れて、仏様を
Oさんは、打ち明けられた平尾氏の恋を聞くと、苦しさうに顔色を変へました。誰にも隠してゐたことですが、実をいふとOさんは亭主持ちの体でした。しかもその亭主といふのは、自分の肉親の叔父で、Oさんは乱暴なこの叔父さんのために自分の童貞を汚され、おまけに子供まで持たせられてゐたのでした。思へば思ふほど、自分の一生を
「ただいま申し上げましたやうな次第ですから、私は何をさしおいても、まづ独立するために、私自身を教育しなければなりません。お情けを受けるか受けないかは、その後のことです」
ときつぱり言ひきりましたが、それでも物質的に平尾氏の扶助を受けることになつて、女子大学に入りました。平尾氏はその当時記者生活の月収が四十円か四十五円しかなかつたなかで、毎月この婦人のために、二十円づつ仕送つてゐたやうでした。
ところが、ある日のこと、平尾氏とOさんとの関係が続き物になつて
「僕が行かなかつたら、Oは死んでしまふかも知れない。そんなことがあつたら、諸君は僕にOの生命を弁償することができるか」
と友人たちに喰つてかかる始末なので、皆は呆気にとられて黙つてゐるより仕方がありませんでした。東京行を決心した平尾氏は、旅費その他の調達を
「金の調達が
といつたやうな交渉の仕振りなので、文淵堂主人は不承無精にその金を調達しなければなりませんでした。かういふと平尾氏は大のイゴイストのやうに聞えますが、(実際氏の友達のあるものは、氏をイゴイストだと思つてゐたやうでした)真実はさうではなく、正直で、一本気で、感情が昂じると、当の目的物以外に、他の思はくなどを構つてゐられない、持前の純な気性の現れに過ぎなかつたのでした。
その頃平尾氏の友達で、家と家との関係から、思ふ女と結婚ができないで苦しんでゐる人がありました。平尾氏はその解決策として、ある方法を友達に申し込みました。それは平尾氏がその女の
悪意のあつた新聞記事は、皮肉にも平尾氏の身の上に好い結果をもたらしました。平尾氏の好意を極度に利用して、もつと学生生活をしようとしてゐた女の気ままは、手厳しい新聞記事のために
幸福な日は続きました。その幸福のなかで、平尾氏の一つの失敗と見てもいいのは、自分と同じやうにOさんをも文藝の道に引き込まうとしたことでした。世の中には結婚すると同時に、妻の藝術的天分をも封じてしまふ良人がありますが、また平尾氏のやうに妻を強ひて自分の道に引つ張り込まないではゐられない人もあります。馬に乗るのにそれぞれ流儀があるやうに、妻を取り扱ふにも各自の勝手があるものです。
困つたことが起きました。Oさんは自分の書いた短篇小説を、平尾氏の先輩であるK氏に見てもらひました。よせばいいのに、K氏は
「よくできました。貴女には立派な才分があるやうです。少なくとも平尾君よりは巧いですね」
といつて
さうかうするうちに、平尾氏の持病である肺病がだんだん進んできて、自分の職業にも離れなければならなくなりました。やがて暗い、陰気な、貧しい日が続きました。血色のいい、はち切れさうな肉体をした、健康なOさんは、良人の病気とその苦痛とに対してあまり同情が持てないのみか、時とすると反感をさへ催すことがあるのを自分で知りました。しかも平尾氏は妻を信じ切つて、少しも疑ひませんでした。
藝術を捨てたのではなかつたが、不治の病気を抱いて、死に直面した平尾氏は、藝術よりもむしろ神の救ひを
「曲げたんですわ、貴方の薬代や何かの足しにと思つて」
平尾氏は感謝の念に打たれないではゐられませんでした。そのうち氏が病気を推して書いた脚本が、読売新聞社の懸賞募集に当選して、賞金二百円が氏の許に送られました。Oさんはその半額を自分に与へてくれるやうに良人に
「これだけあつたら、看護婦学校が卒業できるかと思ひます。そしたら貴方の介抱も思ふやうにできますから」
平尾氏は涙を流して喜びました。賞金の半分は分けられて、妻の
妻に逃げられたと知つてから、平尾氏の病気は急に昂進しました。そして息を引取る間際の最後の祈祷はかうでした。
「神よ、願はくばわが妻を忘れさせたまへ」
「神よ、願はくば妻を免したまへ」と祈らうとしても、どうしてもさうは祈り得られないで、
Oさんが薬代のために曲げたといつてゐたその着物は、まさかの時の用意に、一枚一枚と持ち出されて、実はその友達の家に預けられてゐたのでした。自分のものは何ひとつ失はず綺麗に持ち出したOさんは、京都を発ち際にその友達にいひました。
「私は最初の良人にひどい目に逢ひました。あれでもう沢山です。運命が二度また私を同じやうな目に会はさうとしたつて、それが辛抱できるものですか。私は自身に落ちかかつてくるものを、私の手でちよつと跳ね返したに過ぎません。平尾には気の毒ですがね」
「恋人であり、おまけに敵である」とストリンドベリイは言ひました。文字通りに平尾氏のそれは恋妻であり、また仇敵でありました。
〔大正15年刊『太陽は草の香がする』〕