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三教指帰 (中公クラシックスJ16) 新書 – 2003/5/10
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- ISBN-104121600525
- ISBN-13978-4121600523
- 出版社中央公論新社
- 発売日2003/5/10
- 言語日本語
- 本の長さ362ページ
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対象商品: 三教指帰 (中公クラシックスJ16)
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2003/5/10)
- 発売日 : 2003/5/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 362ページ
- ISBN-10 : 4121600525
- ISBN-13 : 978-4121600523
- Amazon 売れ筋ランキング: - 374,074位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 72位密教(一般)関連書籍
- - 82位中公クラシックス
- - 1,676位仏教入門
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
有難いことに、この本はまるで「新品」です。どこにも、少しのよごれもありません。上質な物を手に入れて満足です。
2023年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
若い頃の空海さんの著者をとてもわかりやすく現代語訳している。
仏教や儒教などの異なる宗教の、それぞれの位置立場を検証している。
空海さんの若い頃の体験がそこかしこに見え隠れして良い本だと思います。
仏教や儒教などの異なる宗教の、それぞれの位置立場を検証している。
空海さんの若い頃の体験がそこかしこに見え隠れして良い本だと思います。
2016年11月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
空海が24歳の時に書いたと言われる「聾瞽指帰」の序文がのちに改訂され三教指帰と名づけられます。これは当時大学で官僚育成のための勉強をしていた空海が、儒教や道教では満ち足りず、仏教こそが3つのなかで最も優れているということを戯曲形式で書いたものです。
本書は原文(漢文)、注釈、現代語訳からなり、現代語訳はきわめて読みやすかったです。また本書の冒頭に掲載されている松永有慶氏による解説もとても有益で、どういう背景で本書が書かれたか、なぜ序文が変更されたのかについての説を述べられていて興味深く拝読しました。初心者は現代語訳だけを読めばいいですし、中級・上級者は四六辯儷体と呼ばれる唐時代に流行していたと言われる原文を堪能できるということで、非常にお得な本ではないでしょうか。
本書は原文(漢文)、注釈、現代語訳からなり、現代語訳はきわめて読みやすかったです。また本書の冒頭に掲載されている松永有慶氏による解説もとても有益で、どういう背景で本書が書かれたか、なぜ序文が変更されたのかについての説を述べられていて興味深く拝読しました。初心者は現代語訳だけを読めばいいですし、中級・上級者は四六辯儷体と呼ばれる唐時代に流行していたと言われる原文を堪能できるということで、非常にお得な本ではないでしょうか。
2020年5月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
分かり易く解説してあるので良かった。漢文は読めないので、文字がもう少し大きいのが読みやすい。
2015年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
諸橋の大漢和や関連の辞典で目星をつければあるい程度出典というのは見えてくるというのは漢籍を扱う者の常識です。でもここまで丁寧にまた深い思索を伴うのは福永先生ならではと思います。
2019年7月23日に日本でレビュー済み
三教指帰には主だった登場人物が4人いる。まずは蛭牙公子(しつがこうし)。蛭(ひる)はその牙(きば)で人の血を吸う生き物であり、この名前はもちろん皮肉だ。本作品の序文で述べられているが、空海の実の甥(貴族階級に属す)がモデルになっている。酒や女遊びに耽り、働きもせず、賭け事に夢中になっており、まさに蛭のごとく苦しむ庶民の生き血を吸って生きている人間として描かれている。
このどうしようもない男を更生させようと、3人の賢者が登場して、所見を披露する、という筋書きである。
最初にお説をご開陳するのは儒教の先生である亀毛(きもう)先生。人の道に外れたことをする蛭牙公子に、心を入れかえて精進せよ、精進すれば立身出世の道が開かれる、と説いている。
確かにこれは、放蕩三昧の愚か者に真人間になれ、と諭す意味はある。しかし弘法大師が真に言いたいのはそこではない。その証拠に空海は、そう諭す先生の名前を「亀毛(きもう)」としている。亀には毛はない。この名前はやはり皮肉がこもっている。儒教という学問は、本来、自己修養の目的を持っており、その目的に沿って学んでおれば当然ながら貪欲を避け、社会的弱者への配慮をなす、という生き方ができてしかるべきだが、当時の貴族はそうでなく、自らの富と名声の追求に終始していたことへの強烈な皮肉である。
そこで、亀毛先生のような偽善と貪欲を認めるわけにいかぬ、として次に登場する賢者が、道教の先生である虚亡隠士(きょむいんし)である。隠士は、「立身出世して美食や酒を楽しみ、美人や歌舞音曲に酔いしれているうちに、人は知らず知らず我が身を害し命を縮める。なんと愚かしいことか。そういう愚かしい人生の夢から覚め、俗世の欲望を捨てて、仙人のように生きよ」、と説く。
たしかに隠士の教えには、俗世の欲望にはきりがなく空しいものである、と諭す意味はある。しかし仙人ならいざ知らず、現実の人間は、霞を食って生きているわけではない。たとえ世を捨てても命を捨てない限り人間は腹がすく。また、俗世に未練がないとはいっても、故郷に残してきた老いた両親のことはどうしても気にかかかる(このあたり、隠士への批判という形をとりつつ、弘法大師・空海みずからの人生が顔をのぞかせている)。恩義ある父母に孝養を尽くさないで、世を捨てることが正しい道なのか。そうではないだろう。
そこで最後に登場するのが、仏教の道を選んだ假名乞児(かめいこつじ)である。乞児いわく、「亀毛先生のような貧しき者を捨てて省みない所論はとれない。かといって虚亡隠士のごとく世を捨て山野を彷徨することによって救われるかと言えば、それも違う。富める者も貧しい者も、はたまた人間も動物も、生けとし生けるものは等しく救われる道こそが求められねばならない。そしてお釈迦様の説く慈悲の道こそ、その道である。この道を進むならば、父母に、例えば冬には温かいものを着せ、夏には涼しく過ごせるよう身近で世話をすることはできなくても、世のため人のために尽くせるという意味では、その深い恩義に報いることになる。かくして仏の道を選ぶことこそが最上なのである。」
大要、以上のような話だ。
弘法大師のご指摘通り、亀毛先生は、立身出世を目的に精進することはいいことである、としているが、そのどこを読んでも貧しき者、弱き者への憐れみや同情は見受けられない。実際、当時の貴族、とくに藤原氏は、一門で高位高官を独占し我が世の春を謳歌していた。一門であれば、能力もなく精進のかけらもない人間であっても高位高官についていた。その理不尽さは、この三教指帰を20代半ばで書いたという大秀才の弘法大師さえ、出世の道を閉ざされていたことからも明らかである。これは、建前として平等化した現代日本には縁のない話にも見えるが、そうではないだろう。金持ちの家に生まれた子は幼い時から塾や家庭教師など充実した教育の機会を得るが、貧しい家に生まれた子はそういう機会を持たない。生まれによって厳然と格差のある社会になりつつある。
そういう、現代社会を想起させる部分に加え、読み手に知らず知らず自己反省を迫るような記述が随所に見られることも、本書の大きな特色である。冒頭近くで列挙される蛭牙公子の悪行の数々にしても、子細に検討すれば、自分もそのうちの一つや二つ、やったことがありはしないか、と思わない人は少ないだろう。また、我々は、豊かな日本でおいしい果物や肉を、当たり前のように食べられる(金持ちでなくとも、それは同じだ。例えば、コンビニ弁当でさえ、かなり美味しく作ってある)。いっぽう、遠くアフリカや中東に生を受け、そのようなものを一度たりとて口にしたことのない小さい子らのことを思うとき、「貪欲で罪深い貴族」とは実は現代の我々自身の事ではないか、との思いにも駆られる。
そうやって読んでいると、これが1000年以上も前に書かれた本であることを忘れる。弘法大師の慧眼が万世に通じる人間社会の業のようなものを抉り出し、そこに鋭い光を当てているからこそであろう。そういう書が古典とよばれるのであり、人生の真実を知ろうとする真剣な人々によって、これからも数千年にわたり読み継がれていくのだと思う。
このどうしようもない男を更生させようと、3人の賢者が登場して、所見を披露する、という筋書きである。
最初にお説をご開陳するのは儒教の先生である亀毛(きもう)先生。人の道に外れたことをする蛭牙公子に、心を入れかえて精進せよ、精進すれば立身出世の道が開かれる、と説いている。
確かにこれは、放蕩三昧の愚か者に真人間になれ、と諭す意味はある。しかし弘法大師が真に言いたいのはそこではない。その証拠に空海は、そう諭す先生の名前を「亀毛(きもう)」としている。亀には毛はない。この名前はやはり皮肉がこもっている。儒教という学問は、本来、自己修養の目的を持っており、その目的に沿って学んでおれば当然ながら貪欲を避け、社会的弱者への配慮をなす、という生き方ができてしかるべきだが、当時の貴族はそうでなく、自らの富と名声の追求に終始していたことへの強烈な皮肉である。
そこで、亀毛先生のような偽善と貪欲を認めるわけにいかぬ、として次に登場する賢者が、道教の先生である虚亡隠士(きょむいんし)である。隠士は、「立身出世して美食や酒を楽しみ、美人や歌舞音曲に酔いしれているうちに、人は知らず知らず我が身を害し命を縮める。なんと愚かしいことか。そういう愚かしい人生の夢から覚め、俗世の欲望を捨てて、仙人のように生きよ」、と説く。
たしかに隠士の教えには、俗世の欲望にはきりがなく空しいものである、と諭す意味はある。しかし仙人ならいざ知らず、現実の人間は、霞を食って生きているわけではない。たとえ世を捨てても命を捨てない限り人間は腹がすく。また、俗世に未練がないとはいっても、故郷に残してきた老いた両親のことはどうしても気にかかかる(このあたり、隠士への批判という形をとりつつ、弘法大師・空海みずからの人生が顔をのぞかせている)。恩義ある父母に孝養を尽くさないで、世を捨てることが正しい道なのか。そうではないだろう。
そこで最後に登場するのが、仏教の道を選んだ假名乞児(かめいこつじ)である。乞児いわく、「亀毛先生のような貧しき者を捨てて省みない所論はとれない。かといって虚亡隠士のごとく世を捨て山野を彷徨することによって救われるかと言えば、それも違う。富める者も貧しい者も、はたまた人間も動物も、生けとし生けるものは等しく救われる道こそが求められねばならない。そしてお釈迦様の説く慈悲の道こそ、その道である。この道を進むならば、父母に、例えば冬には温かいものを着せ、夏には涼しく過ごせるよう身近で世話をすることはできなくても、世のため人のために尽くせるという意味では、その深い恩義に報いることになる。かくして仏の道を選ぶことこそが最上なのである。」
大要、以上のような話だ。
弘法大師のご指摘通り、亀毛先生は、立身出世を目的に精進することはいいことである、としているが、そのどこを読んでも貧しき者、弱き者への憐れみや同情は見受けられない。実際、当時の貴族、とくに藤原氏は、一門で高位高官を独占し我が世の春を謳歌していた。一門であれば、能力もなく精進のかけらもない人間であっても高位高官についていた。その理不尽さは、この三教指帰を20代半ばで書いたという大秀才の弘法大師さえ、出世の道を閉ざされていたことからも明らかである。これは、建前として平等化した現代日本には縁のない話にも見えるが、そうではないだろう。金持ちの家に生まれた子は幼い時から塾や家庭教師など充実した教育の機会を得るが、貧しい家に生まれた子はそういう機会を持たない。生まれによって厳然と格差のある社会になりつつある。
そういう、現代社会を想起させる部分に加え、読み手に知らず知らず自己反省を迫るような記述が随所に見られることも、本書の大きな特色である。冒頭近くで列挙される蛭牙公子の悪行の数々にしても、子細に検討すれば、自分もそのうちの一つや二つ、やったことがありはしないか、と思わない人は少ないだろう。また、我々は、豊かな日本でおいしい果物や肉を、当たり前のように食べられる(金持ちでなくとも、それは同じだ。例えば、コンビニ弁当でさえ、かなり美味しく作ってある)。いっぽう、遠くアフリカや中東に生を受け、そのようなものを一度たりとて口にしたことのない小さい子らのことを思うとき、「貪欲で罪深い貴族」とは実は現代の我々自身の事ではないか、との思いにも駆られる。
そうやって読んでいると、これが1000年以上も前に書かれた本であることを忘れる。弘法大師の慧眼が万世に通じる人間社会の業のようなものを抉り出し、そこに鋭い光を当てているからこそであろう。そういう書が古典とよばれるのであり、人生の真実を知ろうとする真剣な人々によって、これからも数千年にわたり読み継がれていくのだと思う。
2014年6月3日に日本でレビュー済み
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三教指帰の解説本は3冊目ですが、最も良いものにです、人にも勧めて居ます。現代訳も主観が余り入らなくて、忠実に訳されているので、作者の弘法大師の意図とするものが、伝わります。現代訳だけでなく、注釈が素晴らしいです。
2020年4月20日に日本でレビュー済み
空海の引用した部分も載っていて完璧な一冊。すごく良かった。