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「保守本流」宏池会は「保守中枢」になれるか?

「リベラル」の看板ではなく、政策能力で他を圧倒することに賭けられるかどうかだ

牧原出 東京大学先端科学技術研究センター教授(政治学・行政学)

正面から語られなくなった「本流」意識

  「本流」という言葉がかつての日本では至る所にあった。本流のサラブレッドの人材と、傍流の駄馬とでもいったあざとい対比は、人事の下馬評ではしばしば言われたものである。「出向」といえば「左遷」を指すというのもそこでは定型句であった。

 ところが、冷戦終結後にグローバル化が進展すると、こうした「本流」意識が正面から語られることは少なくなった。「失われた20年」の間、日本企業の不調なパフォーマンスを見せつけられるにつけ、「本流」の人材がその戦犯ではないか、と誰もが思うようになったことが一因であろう。

自民党総裁選挙問題で田中角栄元首相(左端)を訪れた鈴木善幸前首相(中央)。右は秘書の早坂茂三氏=1984年10月自民党総裁選挙問題で田中角栄元首相(左端)を訪れた鈴木善幸前首相(中央)。右は秘書の早坂茂三氏=1984年10月

 もちろん「本流」は今なおどこにでもある。だがあったとしてもあからさまにしないのが、昨今の流儀である。現在の政権党である自由民主党では、長らく「本流」は吉田茂以来の旧自由党、「傍流」は改進党から民主党へと流れた集団だとされた。前者が吉田直系の池田勇人、佐藤栄作であり、後者が三木武夫、中曾根康弘である。いずれも大小はあれども派閥を率いて、1960年代から80年代にかけて順次首相に就任した。

 その中でも誕生以来、現在まで派閥名称「宏池会」を掲げているのが、かつての池田派であり、現在の岸田派である。

 派閥名は、戦後歴代首相の指南役でもあった陽明学者の安岡正篤が中国の古典にちなんで命名したとされている。池田勇人、前尾繁三郎、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一といった首相たちや、党総裁経験者で言えば、河野洋平、谷垣禎一といった政治家を輩出してきた「名門」派閥である。

「寛容と忍耐」ー池田内閣のキャッチフレーズ

 1960年に発足した池田内閣は、「寛容と忍耐」というキャッチフレーズを掲げた。それは、日米安全保障条約改定に際して空前の国会前デモに直面して総辞職を余儀なくされた岸信介内閣とは一線を画すというメッセージであった。宮澤は「寛容」は自分が英語のtoleranceの訳語として提案したと述べている。「忍耐」は大平の発案だったという(御厨貴・中村隆英編『聞き書 宮澤喜一回顧録』、岩波書店、2005年)。

 二人の性格の差異をそれぞれよく表した命名であるが、いずれも岸時代のような権力的な政策決定を回避するという点で一致していた。以後、これが広い意味でこの派閥の特徴となっていった。そこでは、抑圧的な政策の忌避、憲法遵守といったある種の和解的・現状維持的な政策が概(おおむ)ねコンセンサスとなっていた。

 現在ではこうした性向を「リベラル」と表現することが多い。もっとも、仮に宏池会が「リベラル」だとしても、その内容は総裁に就任し得た宮澤以前と以後とでは大きく異なる。宮澤以前は権力の継承と奪取の時代であった。以後は加藤紘一が政調会長・幹事長であった時代を除いて中枢から外された時代なのである。

大平正芳・田中六助・鈴木善幸

 池田は首相退任とほぼ同時に癌で死去し、派閥は池田を大蔵官僚時代から支えた前尾繁三郎が継いだ。だが、佐藤内閣時代に佐藤周辺とは距離のあった前尾派の窮状に飽き足らない大平は、1970年の総裁選で立候補見送りによって入閣を狙った前尾が佐藤から最終的に入閣を認められなかったのを機に、これを追い落として派閥会長に就任した。大平は、佐藤の正当な後継とみなされた福田に対抗して自らの派閥を結成した田中と組んだ。田中内閣時代は外相としてこれを支え、福田首相時代の総裁予備選挙で現職総裁の福田を破って総理・総裁に就任したのである。

大平正芳氏大平正芳氏

  それでも大平は、田中派と比べて自派閥に政局操作力が低いことを自覚していた。政界のフィクサー福本邦雄に、派内で政局操作ができるのは田中六助のみであり「あとはみんな宮仕えした役人上がりで、『行って交渉してこい』と言っても誰も、ようしない。情けない派閥だよ」と語ったという。大平自身も経歴上は「役人上がり」だがそうではないという自負があった。権力簒奪(さんだつ)者から見れば、ここでいう「役人上がり」は宮澤を筆頭とする「政策通」を指すと考えてよいであろう(福本邦雄『表舞台裏舞台』、講談社、2007年、80~81頁)。

 もっとも、大平のようなメンタリティーを共有したのは、ここで大平が言及した田中六助であり、大平の急死後派閥会長と総理・総裁をともに継承した鈴木であった。

 鈴木は、党総務会長を長く務めていたが、蔵相、外相、通産相などの重要閣僚経験はなく、内閣は政策面での一貫性に苦しんだ。特に日米関係と安全保障問題については、その傾向が強かった。

宏池会会長代行に宮沢喜一・前官房長官(鈴木氏の左)を指名する鈴木善幸前首相宏池会会長代行に宮沢喜一・前官房長官(鈴木氏の左)を指名する鈴木善幸前首相

 だが党と政権の運営はしたたかであった。1980年11月の内閣改造では、福田が当時ロッキード事件で「灰色高官」といわれていた加藤睦月の入閣を拒んで組閣を終えた。同時期に党最高顧問に就任した岸信介は、日記でこれについて「鈴木首相中々ずるしゃも振りを発揮し福田君体よく無視さる」と観察している。

 こうして、田中と組んだ大平時代、田中と組みつつ、岸を懐柔して政権維持を図る鈴木時代は、宏池会が政権の中枢に位置した時代であった。

 だが1982年に鈴木が首相を退任した後、1991年から93年まで宮澤が総理・総裁に就任した時期を除いて、宏池会は次第に政権中枢から遠ざかっていく。

 そして、この時期から「保守本流」というと、宏池会を指すことが増えていく。朝日新聞社から2006年に出版された「90年代の証言」シリーズで宮澤喜一の回顧録副題は「保守本流の軌跡」である。そして、かつて宏池会では珍しい策士型の政治家であった田中六助は『保守本流の直言』と題した本を出版している。

 1985年に出版された後者では、「保守本流」は「戦後改革という極めて重大な時期に吉田さんをたすけ、吉田さんの政権を担った」池田、佐藤、大平、田中角栄が「保守本流」であるとした上で、さらに広義に「日本政治の運営に責任をもち、その自覚と能力がある政治家や集団を指す」として、岸信介、そして当時首相であった中曾根康弘もここに入るとする(田中「私の保守本流論」、同『保守本流の直言』中央公論新社、1985年)。

宮沢喜一蔵相が自民党総裁選出馬を表明。手前は鈴木善幸元首相宮沢喜一蔵相が自民党総裁選出馬を表明。手前は鈴木善幸元首相

 この田中の位置づけが興味深いのは、政権の中枢とは言い難い時期に限って宏池会に「保守本流」としての期待が集まる点である。「保守本流」とは本来中枢にあるべき集団がそこにない状態を指していたのである。

 これは鈴木内閣では官房長官としてその中枢にいた宮澤が、以後長らく「保守本流」を期待されながら総裁・首相に就任されなかった時代、さらには宮澤が政治改革への対応に失敗して、政権を細川連立政権に譲り渡し、以後も自民党総裁経験者というよりは、知米派・財政通の政治家として記憶されたこととも重なる。

中枢から遠く離れて

 こうした中枢から遠い「保守本流」とは、自民党が野党となると再度顔を出した。細川護煕連立政権の成立によって、自民党が野党に転落すると、党の看板には強面(こわもて)の右派ではなく、「リベラル」のソフトなイメージが求められた。河野洋平はこのときに総裁となるが、村山富市自社さ連立政権の成立によって、自民党が与党に復帰するとほどなく総裁から引きずり下ろされる。

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