ポ ル ト ガ ル 駅 カ フ ェ
 
 小坂 隆一  アジア言語学者。
専門は東南アジア諸言語の比較言語学、音声変化。博士(学術)。
現在、妻とポルトガルに在住。
 小坂隆一さんへのメールは  コチラ


  6月19日(金)  

●ヨーロッパ系言語において、数詞の“20”、“21”、“22”の後に来る名詞といえば、単純に複数形がくる、と考えるのが普通だろう。だが、リトアニア語のような言語の場合には、ことはそれほど単純には済まない。実は、“20”の後には複数の属格が、“21”の後には(なんと)単数の主格(単数である!)が、“22”の後には複数の主格が来るのである(例.20 litų“20リタス”、21 litas“21リタス”、22 litai“22リタス”;“リタス”はリトアニアの通貨名)。

●この多様性、私にとってはなかなか驚きである。と言っても、きっとピンと来ない向きもあろうから、まず、リトアニア語では、英語やフランス語やポルトガル語と違って、名詞というものが、「格」(すなわち、文中における様々な機能)により形を変化させるということをわかってもらう必要がある。そうすると、少なくとも、何らかの要因によって格の形が違ってくることは可能性としてありうるだろうというところまでは、理解できるだろう。

●もったいつけるのはやめて、さっさとその種明かしをすると、リトアニア語においては、先行する数詞がそもそも名詞起源である場合は、その後に来る名詞は属格となり(つまり、属格という格が他の名詞を修飾する名詞の形であるから)、先行する数詞が形容詞起源の場合は、後続する名詞は通常の格、即ち主格におかれるということになる。実際、“20”(dvi dešimt)という語は、語形変化的には不変化の名詞(に準ずるもの)であり、“21”(dvi dešimt vienas/viena)、“22”(dvi dešimt du/dvi)という語は、最後のvienas/viena、du/dviの部分が故に、後続の名詞によって変化を被る形容詞として扱われる。だが、それにしても、“21”の後に来る単数形というのがよく分からん、と訝るのは当然である。

●“21”という数は、どう考えても“1”よりも大きい。一人の妻を養うのと21人の妻を養うのとでは、必要とされる財力も体力も責任感も、全く重みが違うはずである(なんという比喩だ!)。それなのに、“1”も“21”も、その後に来るのはžmona(単数の“妻”)なのだ。すごく理不尽な話である。これも、手取り早く種を明かすと、実は“21”すなわちdvi dešimt vienas/vienaという語は、最後のvienas/vienaが“1”を意味する形容詞で、その“1”の部分だけに引かれてその後に来る名詞は単数形を取る、という単純な理由によるものなのである。理由を知ってしまえば、「な〜んだ」ということになるが、木を見て森を見ず、というか、ちょうど、闘牛が、闘牛士ではなく目の前の赤い布だけに反応して猛進するように、直前のものに対して、全く機械的に反応してしまっているわけである。とは言え、こういう現象に納得の行かない人は、心底、納得がいかないみたいである。

●言語の機械的な形式性という部分は、意味の面に比べて面白味を欠くため、一般にあまり興味を持たれにくいのだが、実は、私がこれまで一貫して関心を抱いてきたのは、むしろこういう言語の形式面の方である。言語における私の主たる関心事は、音声変化という部分であり、「音声」というのは言語における形式面の、そして他方「意味」はその内容面のそれぞれ最たる例である。内容も大切かもしれないが、形にしたって、それに負けず劣らず大事なのだというのが、私の考えである。

●さて、リトアニア語の数詞が導く格の話とどう関係があるのかは分からないが、先週、職場のある同僚との会話を通じて、一つの大きな教訓を得た。さして斬新なものともいえないが、要するに、“何かを口に出すことでよい結果がもたらされるのであれば、それは出し惜しみせずどんどん言ってあげた方がいい”、というものである。

●その極めて現実的で貴重な教訓を私にくれた女性だが、一体どういう親もとでどういう育ち方をすればこういう人間と相成るのか、いろんな意味でただ者でないことだけは一目見れば分かる(といっても、妖怪とか宇宙人とかそういうのではない)。なんというか、“常識”に縛られるというところが微塵もなく、自分の殻を破ってエネルギッシュに前進していくというタイプの、とても興味を惹かれる人物である。そして、私にかろうじてわかるのは、この人は、きっと成長過程でまっとうな愛情を注がれて育ってきたのだろうな、ということぐらいである(この“まっとう”という部分が実はなかなか難しく、お為ごかしの自己本位な愛情が注がれると、なかなかこうはならない)。

●それはともかく、せっかく頂戴した上の教訓については、“形が整うことにより初めてそこに内容も伴う”という原則を改めて胸に刻んで、とりわけ妻とのやりとりの中で、お世辞やおべんちゃらなどに効果的に活かしていきたいと思う(お前なあ・・)。