●リトアニア語という言語は興味深い言語で、単語のアクセントはある一つの音節に来るのだが、その位置については全く制限がなく、どの音節にも来うる(来てもおかしくない)。しかも、音節の長さや数との相関関係もないため、その語を予め知らなければ、語形だけからではアクセントがどこに来るかを予測することができない。例えば、“卵”という単語kiaušinisについて言えば、その単語が、kíaušinis(ki-にアクセント)であっても、kiaušínis(-ši-にアクセント)であっても、kiaušinís(-ni-にアクセント)であっても、リトアニア語の単語として音声的に全く違和感がない。いずれも、当然存在しておかしくない形に聞こえる。
●確かに、英語でも、アクセントの位置というのはいろいろと問題をはらんでいて、そうであるが故に日本の中学や高校の英語の試験ではそこをついた発音問題が繰り返し出されるわけだが、そうは言っても英語の場合、品詞の種類やその語の出自(外来語か本来語か)などが分かればアクセント位置を大まかに予測することができる。それに、基本的な単語についてはリトアニア語みたいに音節の数が多くない。だが、リトアニア語の場合、繰り返すが、その手の手がかりはほとんど皆無なのだ。要は、その単語を既に知っているか否かだけが問題になってくるわけで、その意味では、英語に増して、山勘やあてずっぽうではない正確な知識量を問う試験問題向きかもしれない。
●リトアニア語の厄介な点はアクセントのみに留まらない。あの“悪名”高き文法格の問題も、そこにややこしさの彩りを添える。つまり、格の数が古典語のラテン語の上を行く7格と多く、その変化が、上の自由アクセントの問題も絡んで実にややこしいのである。また、リトアニア語においてかなりの使用頻度を誇る“属格”という格があるが、基本的にはこの格は、その名が示す通り、何かに“所属する”という意味合いを表わすのがもともとの機能であり、日本語では“〜の”に相当する場合が多い。ところが、この属格は、どうやら歴史的にかつての“奪格”(意味的には離脱を示す)を吸収してしまったようで、その為に属格の持ち分(守備範囲)が輪をかけて広くなり、“〜から(離れて)”という“所属”とは正反対の意味を表す場合にも、この属格を使用するに至った。一段とややこしさが嵩じたわけである。
●その他にも、否定形の動詞の後には、目的語を示す通常の格である対格形ではなく属格形がくるとか、数詞の後に名詞が続く場合は、1、11、21、31、41etc.などについてはその後に単数主格がつき(単数である!)、10〜20、30,40・・100・・1000etc.については複数属格がつき、それ以外の2、3、4、5、6、・・・etc.の場合は複数主格がつくというややこしさである。英語やポルトガル語やルーマニア語などで“5分”や“10分”と言う場合、“分”を表わす部分はいずれも同じ形を用いるが、リトアニア語ではそれぞれpenkios minutės“5分”(minutėsは複数主格)、dešimt minučių“10分”(minučiųは複数属格)となって、“分”の形までが違ってくるのだ。
●ついでに付け加えれば、ある種の動詞の活用には、不定詞形には出てこない-n-や-s-が不意に顔をのぞかせて学習者を煙に巻くし、不定詞の形が必ずしもその動詞の活用パターンを示すとは限らない場合があるし(例外の存在)、“それ”とか“これ”とかいった代名詞にまで、格変化が存在するなど、「しゃらくせえ!」的な落とし穴はいくつもある。リトアニア語の煩雑さを挙げれば、実にきりがないのである。もし何かの理由でリトアニア語が国際共通語として英語にとって変われば、当然日本人の習性からして英仏独などさておいてもリトアニア語を学習するようになるだろう。そうなると、学校教育のカリキュラムにも然るべく導入されて、リトアニア語の驚愕の実態を前に、無垢でいたいけな受験生が大量に受難するthe Passion of the Examineesみたいな厳冬の時代が訪れることになる(なんて大袈裟な話には決してならないだろうが)。
●ところで、先日、ポルトガル語絡みの面白い話を耳にした。ポルトガル語で“おめでとう”はparabénsというのだが、この“おめでとうの言葉”という意味を持つ名詞に動詞形成接尾辞-izarを付加してparabenizar“祝う”という動詞がつくられるのだそうである。実は私、こんな単語は初めて聞いた。この動詞は、辞書にはブラジル用法という注記が出ていてポルトガルではほぼ使用されないものだと思うから、ブラジル用法に疎い私が聞いたことがないのも無理はないのだが、それにしてもこの「パラベニザール」という発音は、慣れない耳には滑稽に響く。
●このように、基となるある形からその一部を操作して関連性のある別の語が作り出されるプロセスは、通常は“派生”と呼ばれる。だが、“派生”という用語はその現象面だけを捉えた言葉で、その変化を原理の側面から見ると、既に同様の派生パターンが存在しているという事実が前提としてあって、いわばその定式をなぞっているとも言えるわけだから、その意味ではこれは“類推”と呼んでも差し支えないと思う。類推というのは、こういうものが既にあるのだから、これについてもこうであるに違いない、という発想である。この思考回路は言語の変化にとって大変大きな意味を持つものだが、実は言語のみにとどまらず我々の日常の発想までをも支配している。そして、その類推というプロセスそのものには、多くのものごとと同じ様に両刃の剣という側面がある。うまく使えば複雑に見える物事を単純・簡潔化できるメリットがあると同時に、濫用すれば対象を不適切に型にはめてしまい理解・対応を誤るというデメリットもある。映画「Crash」でマット・ディロンが演じた警察官のように、悪にもなれれば善にもなる二面性を持ったものということである。
●ちなみに、類推の説明とは何の関係もないが、ポルトガル語にはEstás aqui, estás ali.“あなたはここにいる。あなたはそこにいる”という表現がある。一つのものは同時に二ヶ所に存在することができない、という物理の原則に則れば、どう考えても理解不能である。「善悪の共存」でも「両刃の剣」でも「鶏と卵」の理論でもうまく説明できない。かと言って、幽体離脱とかの超常現象を表す表現でもない。実は、“お前は今ここにいる。(そして次の瞬間には)あそこにいるぞ”というところから、“お前、いい加減にしないとぶっ飛ばされるぞ!”という感じの物騒な表現なのだ。映画の台本のト書きみたいなユーモアの効いた言い方を許容するポルトガル語は、リトアニア語とはまた別の意味で興味深い言語である。
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