ポ ル ト ガ ル 駅 カ フ ェ
 
 小坂 隆一  アジア言語学者。
専門は東南アジア諸言語の比較言語学、音声変化。博士(学術)。
現在、妻とポルトガルに在住。
 小坂隆一さんへのメールは  コチラ


  11月20日(金)  

●リトアニア語とラテン語を互いに見比べていて、今までずっと気になっていたことがある。両者の格変化語尾についての対応がとても込み入っているように思えて、今ひとつストンと腑に落ちないのだ。印欧祖語(つまり、英語やフランス語やリトアニア語やロシア語やヒンディー語やらの基になったと言われる言語)には、もともと8つの格(関係性を表わす名詞語尾)があったと考えられている。そして、どうやらラテン語では、処格(場所を表わす)及び具格(手段を表わす)が奪格に吸収され(即ちラテン語には処格と具格が存在しなくなり)、他方リトアニア語では、奪格が属格に吸収された(リトアニア語では奪格が存在しなくなった)という格体系の枠組の変化が起こったらしい。両者の対応がなんだかピンとこないのは、恐らくその変化の結果、状況が余計に込み入ってしまったためである。

●リトアニア語とラテン語というのは、印欧語族の中にあって、実は互いにそれほど近い関係にあるわけではない。そういう中、面白いのは、in(リトアニア語の場合はそこからさらに音変化を被ってį)+名詞の対格という形が、両言語いずれにおいても、その名詞が表わす“場所に向かって”、という「運動の方向」を表わすという事実である。ちなみにこのinは、英語のinとも同語源であるが、英語においては、運動の方向を表わす前置詞はtoであり、inは「存在の場所」を表わす静止的な意味合いしか持たない。それが、ことこのinの用法については、それほど近いとも思えないリトアニア語とラテン語の間で、英語をさし置いて見事に一致しているわけだ。このことは、もしかするとこの用法が相当古い起源をもつということなのかも知れないが、詳しいことはわからない。ちなみに、「存在の場所」については、リトアニア語においては相変わらず処格がその機能を担うが、ラテン語においては、処格が消失したことにより、その機能は、in+奪格が代わって担うようになった。

●ところで、先日DVDを借りて映画「Hotel Rwanda」を見た。その中で、ルワンダのフツ族が、対立するツチ族のことをさかんに“ゴキブリ野郎!”(Cockroaches!)と罵る場面が出てくる。ツチ族への敵意を煽るフツ族によるラジオ放送にも、この表現は頻繁に出てくる。そして、その放送により一般庶民までが煽動されて、最終的には歴史が示す通り、フツ族によるツチ族の大量虐殺という事態に至ってしまう。もともとは、リトアニア語とラテン語の関係のように、互いにバントゥー(語)族として似通った民族集団を形成していたと考えられるのだが、それが一旦切り離されることにより差異が増幅し、憎しみがエスカレートして虐殺に至るというプロセスは、なかなかシュールで恐ろしい。

●ここで少々ゴキブリに焦点を当ててみると、ゴキブリというのは、しぶとく執拗に生活
圏を広げた昆虫のようで、いまや世界のほとんどの地域で彼らが家庭内に住み着いているのを目にすることができるのではないだろうか。そして、やはり日本と同じように、アフリカにおいても、人間に対して害をなすその不衛生さと脂ぎった見た目の印象(?)ゆえか、かなり好ましからざるイメージで見られていることが、この“ゴキブリ野郎!”という表現からわかる。

●ここで、少々冷静になって、地理的分布という観点からゴキブリを見てみると、この昆虫のようにほぼ世界中に生活域を広げてしまった生物というのは(人間を除けば)かなり稀なはずである。普通は、場所・環境が違えば、それに応じて分布する動植物の種類も違ってくるもので、早い話が、どこをどう探してもヨーロッパにはサイはいないし、アメリカにタヌキはいない。生物は、諸般の事情により、ある程度限定されたエリアで暮らしているものなのだ。

●より広い意味で“違い”ということについて言えば、ポルトガルをよく知らない人は、この国は表向きは資本主義国で民主主義を標榜しているところから、日本と互いに共通するところの多い国だろうと思うかもしれない。だが、実際にその中に来て暮らしてみれば、日常生活レベルでは、日本とポルトガルはいろんな意味でかなり対極的なところだということがわかるだろう。タイを知る人が、タイと日本が共にアジアの国というだけで似通った社会だとは決して思わないのと同じである。ともかくも、日本とポルトガルは、その実態は想定の範囲外的に異なっている、というのが私の偽らざる印象である。例えばその違いは、昆虫(特に生きたもの)を家の中で飼うなどという話になると、たちどころにあからさまになる。

●日本で通常、家屋内で飼う昆虫といえば、カブトムシかクワガタか、あるいはコオロギ・ホタルの類だろうが、カブトムシやクワガタといった大型甲虫類については、その生息域は、意外なことに主としてアジアや中南米に限られていて、少なくともここポルトガルを始め西ヨーロッパには見られないようである。周りのポルトガル人に、カブトムシやクワガタの写真を見せて「これ、知ってるか?」と聞いても、皆興味津々集まってきては口々に“こんなの見たことないなあ”とささやき合うばかりで、一向に埒があかない。escaravelhoという単語が、便宜的にカブトムシを示す場合もありはするが、本来この言葉は、同じ甲虫類でも、大型で特異な形態を持つカブトムシやクワガタではなく、日本で言うカナブンやコガネムシの類を意味するもののようである。

●それに、このescaravelho自体も、当地ではさほど馴染みのある存在ではないようで、人によっては、カブトムシの写真を見て“barata!”(ゴキブリだ!)と勘違いするものもいて、思わずのけぞってしまう。さすがのカブトムシも、ゴキブリと一括りにされてしまっては形無しである。一体に、この国では虫類に対して距離を置く、という傾向が強く、昆虫の採集や飼育といったことも、一般に行われない。その結果、虫類全般に対する認識度が低いのである。日本とポルトガルでは、日常生活レベルにおいて、いろんなことが思いがけず違うものだ、という“想定外”の一つの例である。こういう思いがけない文化の違いから、下手をすると「お前ら日本人は、ゴキブリをわざわざ籠に入れて家の中で飼っているのか!」という類の誤った風評が広められてしまいかねず、考えようによってはフツ族によるツチ族の虐殺的にひしひしと恐ろしい。
       


  11月2日(月)  

●リトアニア語という言語は興味深い言語で、単語のアクセントはある一つの音節に来るのだが、その位置については全く制限がなく、どの音節にも来うる(来てもおかしくない)。しかも、音節の長さや数との相関関係もないため、その語を予め知らなければ、語形だけからではアクセントがどこに来るかを予測することができない。例えば、“卵”という単語kiaušinisについて言えば、その単語が、kíaušinis(ki-にアクセント)であっても、kiaušínis(-ši-にアクセント)であっても、kiaušinís(-ni-にアクセント)であっても、リトアニア語の単語として音声的に全く違和感がない。いずれも、当然存在しておかしくない形に聞こえる。

●確かに、英語でも、アクセントの位置というのはいろいろと問題をはらんでいて、そうであるが故に日本の中学や高校の英語の試験ではそこをついた発音問題が繰り返し出されるわけだが、そうは言っても英語の場合、品詞の種類やその語の出自(外来語か本来語か)などが分かればアクセント位置を大まかに予測することができる。それに、基本的な単語についてはリトアニア語みたいに音節の数が多くない。だが、リトアニア語の場合、繰り返すが、その手の手がかりはほとんど皆無なのだ。要は、その単語を既に知っているか否かだけが問題になってくるわけで、その意味では、英語に増して、山勘やあてずっぽうではない正確な知識量を問う試験問題向きかもしれない。

●リトアニア語の厄介な点はアクセントのみに留まらない。あの“悪名”高き文法格の問題も、そこにややこしさの彩りを添える。つまり、格の数が古典語のラテン語の上を行く7格と多く、その変化が、上の自由アクセントの問題も絡んで実にややこしいのである。また、リトアニア語においてかなりの使用頻度を誇る“属格”という格があるが、基本的にはこの格は、その名が示す通り、何かに“所属する”という意味合いを表わすのがもともとの機能であり、日本語では“〜の”に相当する場合が多い。ところが、この属格は、どうやら歴史的にかつての“奪格”(意味的には離脱を示す)を吸収してしまったようで、その為に属格の持ち分(守備範囲)が輪をかけて広くなり、“〜から(離れて)”という“所属”とは正反対の意味を表す場合にも、この属格を使用するに至った。一段とややこしさが嵩じたわけである。

●その他にも、否定形の動詞の後には、目的語を示す通常の格である対格形ではなく属格形がくるとか、数詞の後に名詞が続く場合は、1、11、21、31、41etc.などについてはその後に単数主格がつき(単数である!)、10〜20、30,40・・100・・1000etc.については複数属格がつき、それ以外の2、3、4、5、6、・・・etc.の場合は複数主格がつくというややこしさである。英語やポルトガル語やルーマニア語などで“5分”や“10分”と言う場合、“分”を表わす部分はいずれも同じ形を用いるが、リトアニア語ではそれぞれpenkios minutės“5分”(minutėsは複数主格)、dešimt minučių“10分”(minučiųは複数属格)となって、“分”の形までが違ってくるのだ。

●ついでに付け加えれば、ある種の動詞の活用には、不定詞形には出てこない-n-や-s-が不意に顔をのぞかせて学習者を煙に巻くし、不定詞の形が必ずしもその動詞の活用パターンを示すとは限らない場合があるし(例外の存在)、“それ”とか“これ”とかいった代名詞にまで、格変化が存在するなど、「しゃらくせえ!」的な落とし穴はいくつもある。リトアニア語の煩雑さを挙げれば、実にきりがないのである。もし何かの理由でリトアニア語が国際共通語として英語にとって変われば、当然日本人の習性からして英仏独などさておいてもリトアニア語を学習するようになるだろう。そうなると、学校教育のカリキュラムにも然るべく導入されて、リトアニア語の驚愕の実態を前に、無垢でいたいけな受験生が大量に受難するthe Passion of the Examineesみたいな厳冬の時代が訪れることになる(なんて大袈裟な話には決してならないだろうが)。

●ところで、先日、ポルトガル語絡みの面白い話を耳にした。ポルトガル語で“おめでとう”はparabénsというのだが、この“おめでとうの言葉”という意味を持つ名詞に動詞形成接尾辞-izarを付加してparabenizar“祝う”という動詞がつくられるのだそうである。実は私、こんな単語は初めて聞いた。この動詞は、辞書にはブラジル用法という注記が出ていてポルトガルではほぼ使用されないものだと思うから、ブラジル用法に疎い私が聞いたことがないのも無理はないのだが、それにしてもこの「パラベニザール」という発音は、慣れない耳には滑稽に響く。

●このように、基となるある形からその一部を操作して関連性のある別の語が作り出されるプロセスは、通常は“派生”と呼ばれる。だが、“派生”という用語はその現象面だけを捉えた言葉で、その変化を原理の側面から見ると、既に同様の派生パターンが存在しているという事実が前提としてあって、いわばその定式をなぞっているとも言えるわけだから、その意味ではこれは“類推”と呼んでも差し支えないと思う。類推というのは、こういうものが既にあるのだから、これについてもこうであるに違いない、という発想である。この思考回路は言語の変化にとって大変大きな意味を持つものだが、実は言語のみにとどまらず我々の日常の発想までをも支配している。そして、その類推というプロセスそのものには、多くのものごとと同じ様に両刃の剣という側面がある。うまく使えば複雑に見える物事を単純・簡潔化できるメリットがあると同時に、濫用すれば対象を不適切に型にはめてしまい理解・対応を誤るというデメリットもある。映画「Crash」でマット・ディロンが演じた警察官のように、悪にもなれれば善にもなる二面性を持ったものということである。

●ちなみに、類推の説明とは何の関係もないが、ポルトガル語にはEstás aqui, estás ali.“あなたはここにいる。あなたはそこにいる”という表現がある。一つのものは同時に二ヶ所に存在することができない、という物理の原則に則れば、どう考えても理解不能である。「善悪の共存」でも「両刃の剣」でも「鶏と卵」の理論でもうまく説明できない。かと言って、幽体離脱とかの超常現象を表す表現でもない。実は、“お前は今ここにいる。(そして次の瞬間には)あそこにいるぞ”というところから、“お前、いい加減にしないとぶっ飛ばされるぞ!”という感じの物騒な表現なのだ。映画の台本のト書きみたいなユーモアの効いた言い方を許容するポルトガル語は、リトアニア語とはまた別の意味で興味深い言語である。