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Vol.33 夢は、諦めずに貫け! 〜特撮にかける情熱
映像監督・舞台演出家 鈴村展弘さん

映像監督・舞台演出家
鈴村展弘さん

少年なら小さい頃、誰しも憧れたであろう特撮ヒーロー。特に仮面ライダーや戦隊ものと言えば、なりきって遊んだこともあるのではないでしょうか?  今回のお仕事DBでは、そんな子供の頃の憧れを「監督」として仕事にしてしまい、東映『平成仮面ライダーシリーズ』や『戦隊シリーズ』など数多くの特撮作品に関わって来た、監督・鈴村展弘さんにお話を伺いました。

好きなものは特撮〜鈴村少年の心を掴んだもの

幼い頃に、ウルトラマンや映画スターウォーズに出会い、特撮・SFに興味を持ったという鈴村さん。小学生の頃から将来は『何かものを作る仕事をしたい』と思っていたそうです。
 小学校三年生の時に、父親の仕事の都合でアメリカで一年間過ごした際には、現地の学校でもウルトラマンが大人気だったのだとか。
「アメコミのヒーローよりもウルトラマンの方アメリカの子供にも大人気で、日本の特撮すごいな、とテンションが上がりました」

日本帰国後もそのテンションは下がらず、大方の少年が小学校高学年になって、特撮ヒーローものからの興味を失っていく中、鈴村さんは『卒業』とはならなかったと言います。
「ちょうど周りの友人も『卒業』しなかったやつらばっかりで、仲間がいたのでそのまま好きでいられました。自分も周りに薦めて仲間を増やしたりね」
折りしも小学校六年生の時には『宇宙刑事ギャバン』の放映が。この作品は従来の特撮作品に比べて大人っぽい面があり、思春期に入りかけた鈴村さんの心もぐっと掴まれ、特撮を好きなまま中学生になりました。

中学へ入っても特撮熱は冷めやらず、当時は高価だったビデオデッキを特撮録画のために購入。
時を同じくして、東映ビデオから昔の特撮作品をビデオで出すようになり、レンタルビデオで「人造人間キカイダー」「快傑ズバット」など往年の作品を鑑賞するように。
同時に「宇宙刑事シャリバン」「科学戦隊ダイナマン」「超電子バイオマン」などの作品にリアルタイムで触れ、ますます鈴村少年の特撮への造詣は深まって行きました。

運命の出会い

中学校三年生になって高校受験へ向け勉強をしながらも、特撮のことで頭が一杯だった鈴村少年。その年の夏、東映主催の特撮イベントが開かれることを知ると、何が何でもイベントへ参加したくてたまりません。しかしイベントは夜九時から翌朝にかけてのオールナイトイベント。18歳未満は保護者同伴でないと参加できないものでした。
「親には頼めず、兄弟もいないので、現地に行けば兄貴の振りをしてくれる人がいるんじゃないかと、とりあえず会場の渋谷東映前でうろうろしてたんです。そこへ通り掛かった若い人にお願いしたら、保護者の振りは出来ないけど誰かに頼んであげよう、とスタッフに声を掛けてくれた。そのスタッフが、東映プロデューサーの平山亨さんの知り合いだったんです」

結局、規則は規則、とイベントには参加出来ませんでしたが、後日、仲介してくれた大学生からイベントの役者陣・プロデューサーのサイン入りパンフレットが送られて来ました。
平山さんと言えば、仮面ライダーの生みの親の一人として特撮界では名が轟いた存在。その人とうっすらでも繋がったことに、鈴村少年の特撮熱はますます掻き立てられました。

その後、パンフレットを送ってくれた大学生にお礼状を出す際に、特撮への情熱、特撮に関わる仕事を将来やりたい、という想いも一緒にぶつけたところ、その大学生が、そこまで興味があるなら撮影所見学が出来るようにスタッフに仲介してあげよう、ということに。
それがきっかけで、鈴村少年は東映の大泉撮影所を見学することになりました。
ちょうど撮影所では、『スケバン刑事』や、くだんの平山プロデューサーが担当の『もりもりぼっくん』の撮影をしており、鈴村少年に大きな影響を与えることになるのです。
「こんな風にものを作るんだ、すごい!と衝撃を受けましたね」

この見学をきっかけに、鈴村さんは直接、平山プロデューサーと連絡を取るようになります。
無事高校生になった鈴村さんは、その後も撮影所見学へ通い、平山さんに役者やスタッフを紹介してもらい、雑誌には決して載らないような特撮界の話を、彼らから色々聞いて吸収しました。
身近な所に憧れの世界の人々が現れたことで、夢は広がり、将来は特撮監督へ、と心のベクトルはすっかり定まったのです。

ブレない進路選択

そしていよいよ高校三年生の進路選択の時・・・鈴村さんは、特撮界を目指すためには、と真剣に考え、映像を専門的に学べる某映画学校へ進学することを決意。
「両親には何も言ってなかったので一応大学受験もしていたんですが、決心を打ち明けると、やりたいようにすれば、と後押ししてくれました」

進学にあたっては、東映の平山プロデューサーにも相談しましたが、映像の道に進むのにいい顔をしなかったんだそう。
厳しい世界だ、と言われながらも、意思を曲げない鈴村さんに、平山さんはベテラン俳優の潮健児さんを紹介しました。潮さんは『仮面ライダー』の地獄大使役などで有名な名脇役。鈴村さんは学校以外の空き時間で、潮さんの車の運転手を担当することに。
「現場は厳しいなら学生のうちに先に厳しさを感じよう、と思い、潮さんの仕事が終わるまで、テレビの現場や舞台の現場をとにかく見学しました。この経験は役に立ちました」

濃密な二年間の専門学校生活を経て、いよいよ就職活動という時に、またしても平山プロデューサーから最後の忠告が。
「当時某テレビ会社にも受かっていたんですが、僕はどうしても東映の作品に携わりたかったんです。そこで平山さんに相談したんですが、また止められました。今でもそうですが、当時東映の現場スタッフのほとんどは正社員雇用はせず、言わば短期契約で働くフリーの形。東映に来るならフリーしかないがフリーは厳しい、と散々言われました」
しかし特撮作品の監督になるためには、どうしてもこの門をくぐらなければなりません。鈴村さんは、厳しくてもフリーで頑張る、と、平山プロデューサーに東映スタッフの口を紹介してもらうことになったのです。

「ちょうどその時、助監督の枠には今空きが無いから、制作助手はどうか、と言われたんです。空きが出たら助監督に異動させてやるから、と。映像の世界では、監督になるためには助監督から上がって行くんです。制作助手では将来的に僕のやりたい監督へは辿り着けないんですね」
助監督は、監督の下についていろいろ演出に関わる部分を補佐する役割です。一方制作助手はというと、ロケハンの準備や道路使用許可申請といった、現場の制作進行全般を担当するんだそう。
「僕は第六感というか、ここで制作助手になっちゃだめだな、とピンと来まして。助監督の口が空くまで待っています、と制作助手はお断りしたんです。それがビンゴでした」

なんと、急遽、助監督の口に空きが出て、卒業を前に東映の現場で働き始めることになったのです。

最初の挫折と『助監督』からのステップアップ

二十一歳の年の2月から、鈴村さんの助監督としての生活が始まりました。最初の担当番組は『特捜エクシードラフト』。
通常子供向け番組は、2話を1組として組ごとに監督を中心としたチームで、ローテーション撮影をします。エクシードラフトでは、監督の下にチーフ、セカンド、サードと三人の助監督がついていました。鈴村さんは、サードのポジションに入ることになりました。

それぞれの助監督の役割は、チーフが全般的なスケジュール策定、セカンドが役者関連の衣装・メイク監督、サードが大道具・小道具全部を合わせた美術関係を担当します。
サードの仕事が非常に厳しい内容であることに、鈴村さんは入ってすぐに気付きました。
「特撮ものなので、美術関係で準備しなければならないものの数が、ものすごく多かったんです。しかも当時は実際に美術を用意するスタッフが職人気質で気難しい人ばかり。実力を試される試練がいくつもありましたし、鉄拳制裁も当たり前。それで辞めていく助監督も多かったです」
実のところ、入って三日目で辞めたいと思ったのだそう。そこをこらえ、何とか2組、計4話を撮影したところで、見習いから正式な助監督へとなりました。

「その後はただがむしゃらに仕事を回していくだけでしたね。一年間で約50話あったのですが、回し終えて、何となく要領は掴めた、というだけでした。次の作品が、同じ枠で放送の『特捜ロボ ジャンパーソン』でしたが、この仕事もとにかく大変でした」
『ジャンパーソン』では、敵の組織だけで三つもあり美術設定が膨大。徹夜や何日も家に帰れない、なんていうことも当たり前の状態だったのだとか。また、この時の撮影を担当していたカメラマンやアクション監督が大変厳しい方だったのも仕事の上でプレッシャーでした。
「こういう方がいるからこそ、現場で事故も無く安全無事に進行して行くんですが、隣の戦隊チームの雰囲気がアットホームで、ちょっと羨ましい気持ちにもなりました」

怒涛の二年目も終了し、いよいよ三年目という時に、ここまで迷い無く進んできた鈴村さんの中に、初めて迷いが生じました。
「よく言いますよね、三日、三ヶ月、三年、がターニングポイントだというような。三年目に『ブルースワット』という作品を担当した時に、精神的にかなり辛くなっちゃったんです」
作品の始めの1〜2話くらいを「パイロット」と呼び、この部分を担当する監督が、作品の方向性を決めることが出来るんだそう。
「このパイロットを担当した監督が本当に厳しい方で、ちょっと心の糸が切れ掛かりました。最初でこれだと続けられるのかな、と悩みましたが、僕が一生懸命仕事をしている姿をきちんと見ていてくれたスタッフさんに励まされ、何とか途中からモチベーションを上げられました」

迷い、悩んだ三年目が終わってみれば、鈴村さんの中に、確かな自信が生まれていました。怖かったアクション監督も、鈴村さんの実力を認めてくれるようになり、周囲のスタッフの信用も確実に得ていました。
こうなると今度はもりもりと、仕事に対する情熱が鈴村さんに生まれて来たのです。

「それ以降は辞めたい、と思ったことはないですね。五年目に入った時、『ビーファイターカブト』という作品でサード助監督からセカンドに上がったんです。もうその後は仕事が楽しくて仕方が無くなりましたね」

仕事の要領・コツを掴むところまで行くには、やはり一つの仕事を5年は続けないとわからないのかも知れません。

平成仮面ライダーシリーズを支える

現場で演出をする鈴村監督。
【現場で演出をする鈴村監督】

その後、7年目の『テツワン探偵ロボタック』でチーフ助監督を経験することになった鈴村さん。
この頃東映内部でも、特撮の新しい動きが始まろうとしていました。
「1998年に石ノ森章太郎先生が亡くなった後、先生の意思を継ぐ作品を作ろう、ということで『燃えろ!!ロボコン』を制作。それと並行して1年間の準備を経て、遂に『平成仮面ライダーシリーズ』を2000年に開始したんです」

この第一作が『仮面ライダークウガ』。今や売れっ子俳優となったオダギリジョーの出世作でもあります。鈴村さんはこの作品でもチーフ助監督を務めました。
「プロデューサーの高寺さんが、仮面ライダーを復活させるのならば、絶対に新しいことをやらなければダメだ、と。だからこの作品では、撮影を全部ハイビジョン撮影に切り替えるということになりました。さらに「ロボコン」まではオールアフレコで、後から映像に合わせてセリフを録っていたのを、現場で一度に音まで録るシンクロ録音に変更しました」

ところがこの撮影方法の大幅な変更が、現場に大混乱を招くこととなったのです。
まず、ビデオエンジニアや録音部といった新しいスタッフも撮影に必要になり、大幅にチームスタッフが変更になりました。
加えて、ハイビジョン撮影の場合、監督のカット後すぐの撮影動画チェックが必要、カメラの長いコードとそのケーブル捌きのノウハウも必要、また外部の雑音が入らない状態での撮影も必要になるため、撮影開始一週間で、カメラクルーからスケジュール通りに予定カット数を撮れない、との苦情が勃発。
すぐに東映上層部で会議が行われ、元のアフレコ撮影に戻そう、と会議の流れが動きかけた時、鈴村さんはその席上で想いをぶつけました。
「ビデオ録画で映像が綺麗なのにセリフと口が合っていないと、はっきり判って視聴者は興ざめだと言ったんです。その会議では結局アフレコにする、ということになったのですが、翌日現場に録音部が来ていました。つまりシンクロで録るってことを社でも決心したんですね」

そんな新機軸の仮面ライダーは脚本の制作も難航し、撮影が間に合わず、つなぎでそれまでの総集編を制作しなければならなくなりました。これが鈴村さんの監督デビュー作となりました。
「一日しか時間が無いから、撮影は何とか一日で撮ってくれと言われ、役者にも徹夜で頑張ってもらい、いかにも総集編、ではないものにしたんです。出来上がってラッシュの時に、師匠の石田監督にも拍手をもらえました」

『クウガ』の後、続く『仮面ライダーアギト』で遂に本編監督デビューを果たし、『龍騎』『555』と助監督兼任監督として、平成仮面ライダーを支えた鈴村さん。
兼任は仕事がハードでしたが、がむしゃらな頑張りが認められ『555』後半からローテーション監督へとステップアップしました。

新たな挑戦

演技指導にも熱が入るようやく子供の頃からの夢を結実させて監督となり、少年向き特撮をどう魅力的に撮るか挑戦しているところで来た、次なる依頼は、実写版『セーラームーン』の監督でした。
「僕自身、子供が大きくなったまんまとよく言われますが、男の子がどう感じるかはよくわかるんですよ。でも小さい女の子が何をカワイイと思うのか、最初は全然わからなかった。表現方法にもテレが出ましたね。でも数をこなすうちに慣れました。試行錯誤して、最後は女の子を可愛く撮るのが上手くなりました(笑)」
これが以降の鈴村監督の特徴の一つにもなりました。
なんでも、師匠の石田監督は、男同士の友情を撮らせたら天下一品なんだとか。監督によってかなり表現には違いと特徴があるのだそうです。

その経験が活かされたのが、2005年の「Sh15uya」という新垣結衣出演の特撮ドラマ。
「鈴村が撮った回は可愛い、と先輩監督に言われたのは嬉しかったですね。またこの作品は僕にとって初めての大人向け作品だったんです。色々な規制が子供向け番組とは違い、表現の幅が広がりました」

この作品は同じ東映作品といっても違う部署での制作だったので、新しいスタッフ達との出会いがあり、新しい事を学ぶ事が出来て大変刺激を受けた鈴村さん。

この気持ちを忘れない内に表現の幅を広げようと思い立ち、東映の外に出て、2007年のフジテレビ系『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』で演出助手を担当することに。
「これは共同テレビに自分で売り込みに行ったんです。この作品では、マルチ撮影(同時に複数カメラで撮影する)等、撮影方法や現場のありようが全く違ったので、大変勉強になりました」

そして現在は、角川書店制作・2010年春から放送予定の『大魔神カノン』という特撮番組の準備中です。
「クウガのプロデューサーだった高寺さんという方が、東映から角川書店に移って今回の番組を担当しているんです。僕もローテーション監督として撮らせて頂いてます。女の子が主役なので、僕の撮影スタイルは合っているのかなぁと思います(笑)」

また映像の世界だけではなく、演劇という新たな分野にも意欲的に挑戦中なんだとか。
2010年の2月には『リセット3・2・1…』という演劇をプロデュースする予定です。
「芝居の世界は映像だけじゃないな、と思って幅を広げたいと前から考えていたんです。知り合いの役者さんたちに背中を押されて、だったら映像と芝居をコラボレーションさせるような舞台を作ろうか、と思ったんです。原案・脚色・演出とプロデュースを担当しているんですけど、かなり新しいものになっていると思います」

特撮作品の世界で働くために必要なこと

こうして伺ってみると、特撮作品の世界で働くことは、かなり厳しいながら魅力的なものに思われます。
では、仕事をする上で必要なものは何でしょうか?

「仕事を諦めないこと。僕は基本的に仕事で諦めようと思ったことは、三年目のあの時しかないですね」
鈴村さんはそう言い切ります。
外に出てどう自分がステップアップするかに対して悩んでも、状況には悩まなかったそう。
「突然女子向けのセーラームーンをやれとか、そういう事は仕事の上では多々ある訳です。その変化を恐れたらダメ。刺激を常に受けて、新しい環境で新しいことをやっていかないと成長はしません。それを糧にして身につけて行けばいい。これは何の仕事にも通じるんじゃないでしょうか」

特撮界で働くために、特に必要なことは何でしょうか?

「まず第一にやる気。がむしゃらであればある程いい。オタクやマニアだっていい。中途半端が一番ダメです。現場でオタクとか言われてしょげているようじゃまだまだ。自分を信じて壊れないような精神的な強さが必要です。いろんなことを言う人が世の中にはいっぱいいますからね」
なるほど、好きなら好き、やるならやる、それを貫く一本通った芯が必要、ということでしょうか。

「第二にはプライドはいりません。プライド高い人はそれをまず折ってから来ること。プライドは成長や仕事の邪魔をします。偉くなったら持てばいいもので、そうじゃないなら捨ててください。
第三には悔しい思いをいっぱいすること。『今に見てろよ、見返してやる』という気持ちが大切。仕返しをするのではなく、自分の実績で見返すんです。人間も大きくなります。二手三手先を見て、自分を成長させることですね」
この言葉も、特撮に限らず大事なことですね。非常に心に染み入ります。

では最後に、鈴村さんが監督冥利に尽きることと言えば・・・!?

「観た人が『この間のこの回面白かった』と言ってくれるとか、役者が『私をすごく格好よく/可愛く撮ってくれてありがとうございます』を言ってくれることですね。作り手としてこんなに満足なことはありません」

リセット3・2・1・・・

鈴村展弘プロデュース作品
『リセット3・2・1・・・』

舞台は1999年の日本の下町。ノストラダムスの予言の通り1度滅んでしまった地球。
神様は何故か、極々普通の青年「春輝」に地球滅亡を防ぐ為、最後の3日間をやり直せと命ずる。
そこへ自称悪魔と名乗る美少女「冬」が現れ、あの手この手で春輝の邪魔をする!
いつしか家族や友達をも巻き込むドタバタ大騒ぎファミリーファンタジーコメディの決定版!


2010/2/2(火)〜2/7(日)  シアターグリーン BIG TREE THEATER

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