過去放送内容


奇跡の医療スペシャル

ゲスト:大沢啓二 菊川怜 西川史子 上地祐輔

世界が震撼 SARSの真実

次回予告

































2002年12月 中国南部・広東省広州。病院は、40度近い熱、ひどい咳、そして肺炎のような症状を訴える患者で溢れかえっていた。わずか半月の間に数百人もが感染、街はパニック寸前だった。重症患者の肺には白い影が。呼吸困難、そして胸に痛みが走り激しい頭痛に襲われる。抵抗力の弱い者は次々と死に至る。原因不明。瞬く間の感染。これが世界をパニックに陥れるSARS(サーズ:重症急性呼吸器症候群)だった。感染源は中国南部の動物市場といわれる。様々な野生動物が食用として売買されその場で捌かれる。SARSはコウモリからハクビシンに移り人間に感染したといわれている。わずか7ヶ月で世界29カ国に広がり800人近くの死者が出た。後にわかったことは、患者1人から感染するのは多くて3人。しかも飛まつ感染。つまり咳、くしゃみ、会話などにより患者のウィルスが粘膜に付着して感染する広範囲に拡散する「空気感染」ではなかった。ではなぜSARSは瞬く間に世界中に広まったのか。

そのカギを握る人物は中国広東省、広州に暮らしていた。海鮮卸業を営む周作芬(しゅうさくふん)はこの5日ほど咳と熱が続いていが、旧正月のこの日、激しい咳が止まらず、呼吸困難になり、広州市内の中山大学付属第二病院に担ぎこまれた。SARSウィルスと分からず、重い肺炎と診断され、隔離されることもなかった。抗生物質も一切効かず、容態はますます悪くなるばかり。そこで、周は、呼吸器の専門科がある、同じく付属の第三病院へ。だが、ここでも隔離されなかった。一方、周が転院して4日後、最初に入院した第二病院で次々と感染者が出た。周を診察した者ばかりではなく、一度食事を担当しただけのナース、一度点滴を変えただけのナース、救急車に一緒に乗った隊員、彼と接し30人の病院スタッフが高熱、咳、呼吸困難の同じ症状で倒れていき、周を運んだ救急隊員の一人が死亡した。周が入院する第三病院でも医療スタッフが倒れ始めた。その入院病棟には周と夕食を共にしていた、周の両親、息子、妻とその両親、親戚や友人などもいた。そして周の妻の両親が死亡した。一方の周は、今度は第八病院に転院し、ようやく隔離。それでも同様の事態が起きる。病院スタッフは防ぎようがなかった。医師たちも途方に暮れた。どんな治療も効果がない。やがて周はナースたちから、ひそかに「毒王」と呼ばれ、周の担当になることを嫌がる者も出た。

病院をパニックに陥れた周。実は彼は感染病を広げてしまう体質の患者だった。それが、「スーパースプレッダー」。直訳すると“強力に撒き散らす人”で、SARSウィルスを一人で10人以上に感染させた患者をこう呼ぶ。肺の中でウィルスを増殖しやすく、また、ウィルス濃度が高い呼気を吐き出す、スーパースプレッダー。謎の体質。実は広東省から世界各地へ、猛スピードで広まった原因は周の他に、もう一人、スーパースプレッダーがいた為だった。その人物とは周が最初に入院した第二病院にいた腎臓内科医、劉リュウ・ジェンルン(64歳)だった。すでに定年だったが、特別に勤務を続けていた。感染ルートははっきりしないがすぐに症状は出た。念のため、レントゲン写真で自ら確かめたが特に異常はない。だが彼はすでにSARSに感染していた。そのことには気づかず、恐ろしい行動に出る。抗生物質を打ったからじきに効くだろうと、リュウ医師が妻と一緒に、姪の結婚式に出席するため出かけた先は香港だった。

世界の人々が行きかう国際都市、恐ろしい事態は止められなかった。リュウ夫婦は香港メトロポールホテルにチェックイン。このホテルに滞在する友人に会いに来ていた香港の空港で働く26歳の青年は、部屋へ向かう2人と一緒にエレベーターへ乗り込み感染した。翌朝になり、リュウの容態はひどくなるばかり。まだ症状はないが妻も感染していたと思われる。偶然の恐怖は次々とつながっていく。リュウ夫婦は、結婚式の出席を取りやめ、病院へ向かう為エレベーターに乗り込もうとした。そこへ、カナダのトロントから来ていた中国系カナダ人の老夫婦のうち、妻のスー・クアン、上の階で乗り込んだシンガポールから観光に来ていた若い女性3人、上海から出張でベトナムのハノイへ向かう途中、香港に立ち寄った中国系のアメリカ人ビジネスマンで、リュウ夫婦の向かいの部屋に宿泊していたジョニー・チェンも乗り込んだ。この時全員が感染したと思われる。さらに前日、同じくエレベーターに乗った空港職員の青年も合わせ、既に感染者は7人。そのうち、スー・クアン、ジョニー・チェン、若い女性3人のうちの1人エスター・モク、空港職員の青年と、何と4人がスーパースプレッダー体質だった。

リュウ医師はホテルのすぐ近くの広華病院に入院。ようやく広州で流行していた謎の肺炎に感染していると判明した。看病してくれていた妻も、間もなく発症。エレベーターで感染したとも知らず、彼らはそれぞれの目的地へ旅立っていった。帰国後間もなく彼らは次々発症し、飛行機により、あっという間にSARSは、世界中に広まり始めた。香港の空港職員の青年は、体調不良を感じながらもまだ働いていた。各国からの人々が行きかうこの場所で交通の要衝、香港。飛行機によってSARSウィルスはさらに多くの国に広がった。

香港での感染から9日後、ベトナムではハノイのフレンチホスピタルでジョニー・チェンが呼吸器につながれ、意識不明となっていた。病気の進行の早さに医師は戸惑った。そして、WHOハノイ事務所に連絡をとった。スイスのジュネーブに本部を置くWHO、世界保健機関。感染症の監視、集団発生時に迅速に対応する正しい知識や対策の普及に努めている国際連合の専門機関。そのハノイ事務所に勤務していたのがイタリア人医師カルロ・ウルバニだった。直ちにチェンが入院するフレンチホスピタルへ。フランス資本のこの病院は医師の殆どがフランスから派遣され、医療設備は国内のトップクラスを誇る。抗生物質が全く効かず、入院して5日でレントゲン写真の肺に不気味に広がる白い影、あらゆるインフルエンザ検査のどれも陰性という担当の医師仲間からの報告にウルバニに思い当たることがあった。WHOには中国広州の謎の肺炎について報告が届いていた。抗生物質が効かず、原因不明。明確ではないが、死者も少なくない。患者は各地で爆発的に増え続けている。その一方で中国政府は一切公表していなかった。患者のチェンは香港から来た。ウルバニの中ですべてがつながる。ウルバニはこの状況をWHO本部へメールで伝えた。

それは本部を通じて北京にいる日本人のWHO医師、押谷仁にも伝えられた。彼は西太平洋地域の感染症対策の責任者として中国の謎の肺炎解明のため、何度も中国政府とやりとりをしていたが、情報はまったく得られず。そこでWHO代表として北京へ乗り込み中国保健省と直接やりとりしていた。交渉は難航。何の進展もないまま1週間待ちぼうけを食わされていた。多くの人が行き交う国際社会、感染ルートは無限に考えられる。こうしている間にも、謎のウィルスが世界中に広がってしまうかもしれない…。そんな時、ウルバニからのメールが届いたのだった。WHOの医師同士過去に面識のある2人は未知なるウィルスではないかと意見が一致していた。

ウルバニが意識不明のチェンと会い、謎の肺炎の意識を持った翌日。上海から彼の妻が駆けつけた。資金もあり、強気の妻は香港にもウィルスが拡散するかもしれないというウルバニの意見には耳を貸さず、夫を香港の病院に移すといって聞かなかった。感染について確証のないこの時点ではWHO職員のウルバニには移送を止める権限もなくチェンは香港の病院へと搬送された。チェンが出ていったあとの病院内は恐ろしい事態になっていた!翌朝ウルバニが駆けつけた時には7人もの病院スタッフが入院していた。みなチェンと接した者だった。40度近い熱。激しいせきと嘔吐。それは他のナースたちにショックと動揺、恐怖を与えた。WHOの医師であるウルバニは本来、患者の診察をすることはない。感染を防ぐために適切なアドバイスをし、事態を収拾するのが任務である。しかし、この病院内には多くの入院患者と1日200人を超える外来や見舞いが。となりは産婦人科病棟、乳児もいる。ウルバニはパニックにならないよう、院内消毒と告げ、この病棟の入院患者を移動させ病棟を隔離した。未知のウィルスはどれだけの威力を持つのか全くわからない。ウルバニを中心にわずかな隙間も塞ぎ立入禁止にした。そして病院スタッフには、マスクと手袋、医療用ガウンなどを着用させたが。完全防備のマスクやゴーグル、防護服はなかった。外科手術用のマスクを2重に重ねるのが精一杯だった。とても万全とは言えないが仕方がなかった。消毒を徹底し、患者の衣服やシーツは2重に包んで処分した。2次感染対策は徹底的に防いだ。

その頃香港ではウィルスを世界に拡散させたリュウ医師が、感染させてしまった罪の意識の消えぬまま、苦しみの中、息を引き取った。一方、北京ではWHOの押谷が中国政府との2度目の話し合いにこぎつけた。そして手にした資料は感染者の数を今までの305人から倍以上の700人に、死亡者を5人から25人に訂正していた。しかし中国政府は「終息した」の一点ばりで広州に入ることは許さず、数字の公開も無用なパニックは避けたいとの理由で認められなかった。 WHOの権限は実は曖昧で、確たる証拠がない限り、現地への立ち入り調査は出来ない。中国政府の了解がない限り、この感染症の情報を世界に発信することもできなかったのだ。

一方のウルバニは、患者の行動に関する情報を自らをかき集め、感染状況を推理していった。WHOにとってもウルバニからの情報だけが頼りだった。そしてこのウィルスは空気感染ではなく飛まつ感染。潜伏期間は3日〜5日間だとウルバニは結論付けた。少しずつ見えてくるのはウィルスの実態。ウルバニはWHOの医師としてベトナム保健省にこの状況を世界に向けて発信することを訴えたが、中国同様、無用なパニックは避けたいと止められた。

その間にも感染は世界に広がっていた。シンガポールでは、香港観光で感染した3人の女性―― うち2人は他人に感染させることはなかったが、エスター・モクの周りで家族、病院スタッフが次々と入院。カナダ・トロントではスー・クアンから夫と3人の子供が感染し入院、そして、彼女に関わった医療スタッフも次々倒れ、拡大の気配。香港の空港職員の青年は噴霧呼吸器による治療を受けていたがこれはウィルスをばら撒いているようなものだった。香港での感染から14日、ハノイの病院での感染者は17人にのぼっていた。病棟のナース19人のうち、14人が倒れ、病院としての機能を失いかけていた。感染を恐れ、休む者や病院を辞めていく者も続出した。もはや病院内はパニック状態。この病院に応援にきたウルバニだったが、今や全責任を負うような立場。治療法が見つからないとはいえ何かしてやれることはないか…患者たちを悲観させないよう精神的な支えになることに努め、心から励ました。

戦場のような現場から束の間の帰宅。ウルバニには妻と幼い3人の子供がいた。生きていることを確かめるように、家族を見つめる。感染を心配する妻に「病院内に封じ込める」と答えた。本来、WHO職員は政府や各機関からの情報を収集し、対策を立てるのが仕事。だがウルバニは、「国境なき医師団」のメンバーとしてノーベル平和賞を受賞した経歴を持つ。この現場を見過ごすことなどできなかった。ところが、ウルバニ自身が異常を感じはじめていた。この数日、頭痛が続いている…。身に迫る恐怖、だが、自分が倒れるわけにはいかない。そんなウルバニにようやく希望の光が。ベトナム保険省が感染症専門チームの入国を許可するとの報が。それを受けウルバニが真っ先に応援を要請した人物はWHOの同僚、日本人医師の押谷だった。すぐに押谷から頼もしい返事が来た。一刻も早い助けを願った。ウルバニの頭痛は激しくなり微熱も続いていた。香港での感染から17日、すでに完全閉鎖となっていたフレンチホスピタルに押谷医師が到着。ウルバニは押谷医師と再会した。ウルバニは自らの感染を確信し、ハノイでは自分を受け入れる余裕などない事も。自分には家族がいる。家族を守る責任がある。死ぬわけにはいかない。しかし、WHOの職員としての責任もある。考えた挙句、ウルバニは学会に出席する為、タイのバンコクへ向かった。

しかし、病状は大分悪化していた。ウルバニは妻に電話した。少し熱があるというその言葉で、夫に何が起きたのか悟った。泣き出す妻に、ウルバニは、子供たちを連れてイタリアへ帰るよう話し、「自分に何かあったら子供たちを頼む」と伝えた。そしてウルバニはWHOに謎のウィルスに自分も感染したことを報告した。ウルバニはWHOの要請を受けたアメリカ疾病対策センターの手により病院へ移送された。翌3月12日、WHOはウルバニからの情報を元に、この感染の診断基準を定め、世界に向けて警告を出した。この時、初めて「SARS(重症急性呼吸器症候群)」という病名がつけられた。世界中が知る事となったのはさらに5日後だった。感染者を診察したと思われる病院は、相次いで閉鎖。入院患者も隔離され、消毒が徹底された。世界規模で広がるSARS対策。ウィルスを防ぐ特別なマスクが売られ、台湾の地下鉄では乗客にマスク着用を義務づけた。さらに、感染の疑いのある者は自宅からでないことを呼びかけ、外出していないかテレビ電話でチェック、外出したものには罰金や懲役まで課せられるケースも…。日本でも成田空港にサーモグラフィーを設置。帰国した人の中に、熱がある者はいないかチェックした。

そんな中、あの、ベトナムにSARSを持ち込んだジョニー・チェンは香港の病院で死亡、カナダのスー・クアンも死亡した。彼女からの感染は2次感染も含め、250人とも言われている。シンガポールのエスター・モクは、自身は回復したものの、多くの人に感染させ、両親や見舞いに来た友人が死亡した。香港の空港職員の青年も回復したが、100人以上に感染させたと思われる。二次感染で感染した男性が、1万5000人が暮らす「アモイ・ガーデン」を訪ねたことで大感染を招いた。彼の排泄物が流れる配水管からウィルスが各家庭へ飛散。空気感染はないとされていたが、例外的に集団感染したことで、謎は深まった。3月27日、香港大学でSARSウィルスは、新型のコロナウィルスと判明、これにより、迅速に患者をSARSと認定することができ、早い隔離が可能となった。世界的パニックは一気に終息していく。日本での感染者はゼロ。だが世界29か国で感染者8096人、774人が死亡した。ハノイのフレンチホスピタルでは5人が死亡したがベトナムでの死者はこれだけ…。それに力を尽くした人物ウルバニはSARSに感染してしまった。ウルバニはタイの病院で駆け付けた妻に支えられ、SARSとの戦いを続けていたが、発症から17日目、息を引き取った。彼がいなければSARSの被害は間違いなくもっと拡大していた。ところで、全ての発端となった「毒王」、周は1か月の闘病の末、無事回復したが、関わった130人以上に感染させたと言われている。現在は東北大学大学院教授である元WHOの押谷医師によると、SARSは未だワクチンがないが、もう一度、SARSが現れても今度は被害を食い止められるという。