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【わたしの失敗】俳優・柄本明さん(59)(3)
■初監督…試写室で失神
「セーラー服と機関銃」「カンゾー先生」など、数々の映画作品で名演を見せる柄本明が、監督を務めた作品がある。あるサラリーマン一家の日常が崩壊していく様を描いた「空がこんなに青いわけがない」(平成4年)。後にも先にもこれ1本だけだ。
幼いころから映画ファンで、映画監督という職業には強いあこがれを持っていた。撮影初日。カメラ、照明、録音…大勢のスタッフに囲まれ、柄本は万感の思いを込めて言った。
「ようい、スタート」
沈黙。しばらくして、カメラマンから返ってきたのは「聞こえません」という一言。
「もう、頭がかーっとしてね。倒れそうになったよ」と苦笑する。
舞台の演出は無数にこなしてきたが、映画監督は勝手が違った。
「舞台は仲間うちで、演出家と俳優の一対一の関係で作っていく。でも、映画はカメラマンなどさまざまな要素が絡んでくる。そこが面白いんだけど、おれは途中で何が何だか分からなくなっちゃったんだ」
悪戦苦闘の末に撮影は終了したが、編集前のフィルムの試写中に、柄本は息苦しさを感じ始めた。
「フィルムには俳優の芝居や、風景が写っている。だけど、観客はそんなものではなく、監督の意思を見るものだろう。うまく言えないけど、見ているうちに…」
試写室で気を失い、救急車で運ばれた。
失意の柄本に、さらに追い打ちをかけるような出来事があった。9年、「復讐するは我にあり」「楢山節考」などで知られる今村昌平監督の「うなぎ」の撮影現場でのことだ。柄本はカメラ前に立ち、出番を待っていた。
やがて、今村監督が口を開いた。
「ようい、スタート」
少ししわがれた重々しい声が響いたとたん、ベテラン俳優の柄本が動けなくなった。
「瞬間的に、この監督に小手先の演技は通用しない、と分かった。怖くて足がすくんじゃったんだよ」
動けなかったのは、ほんの一瞬だったというから、動揺に気づいた者はまずいなかっただろう。しかし、柄本は断言する。
「映画監督の『スタート』の一声には、何かが宿っている。やっぱり尊敬するに足る職業だよ。ぼくはもう二度とやりません」=敬称略
文 岡本耕治