ホーム>社会 2003.07.25(金) 19:57


池明観教授「日本月刊誌『世界』の韓国通信の筆者は私」

 1973年から88年までの15年間、日本の進歩系月刊誌「世界」は、「韓国からの通信」というコラムを連載した。  
 
 韓国の軍部政権の人権弾圧と民主化運動がそのテーマだった。筆者は「T.K生」と当然仮名で、誰もその正体を知らなかった。日本に駐在している韓国情報要員らが筆者の正体を探ろうと全力を尽くしたが、徒労だった。  
 
 池明観(チ・ミョングァン/79)翰林(ハンリム)大学・首席教授が「世界」8月号とのインタビューで、15年目に初めて事実を明らかにした。「『T.K生』とは私だ」と。  
   
 平安(ピョンアン)北道・チョンジュで生まれた池教授は、ソウル大学・物理学部の講師と、徳成(トクソン)女子大学の教授を歴任した後、1972年10月、日本に渡り93年に帰国するまで20年間、日本東京女子大の教授を務めながらコラムを執筆した。  
 
 このコラムを書くことを最初に勧めたのは当時、「世界」の編集長をしていた安江良介(岩波出版社社長歴任/98年死去)だった。池教授は「幼い頃から一緒に育った故郷の先輩、ソヌ・フィ(86年死去)元朝鮮日報主筆が私を安江編集長に紹介した」とし、「ソヌ主筆は『T.K生』の正体を知っていた数少ないの知人の1人」と話した。  
 
 池教授は「当時は、維新体制(朴正熙(パN・ジョンヒ)大統領による第4共和国のこと)の発足と緊急措置の発動などにより、政権関連の記述が禁止されていた。しかし韓国国民の民主化への熱望を外部の世界に知らせたかった」と執筆の動機を語った。  
 
 取材は簡単ではなかった。米国人宣教師や記者などを含め100人余に達する人々が、韓国の民主化陣営が危険を顧みず作成したメモを池教授に伝達した。池教授は「小さく折りたたんだ手書きのメモでたばこの葉を巻き、たばこの箱に入れて持ってきた人もいた」と話す。  
 
 こうしたメモをもとに、月に一度の割合で池教授が200字詰め原稿用紙100枚分の原稿を書いた。ちょっと席を外した隙に、誰かがが手書き原稿を盗み見るのではないかと恐れ、明け方まで同じ場所に座り続けて一度に書き上げた。  
 
 脱稿すると、安江編集長が第三の場所に人を送り、スパイよろしく池教授の原稿を受け取った。安江編集長は池教授が手書きで書いた原稿を一枚一枚手で書き写し、自らの手で原本を燃やした。  
 
 池教授は「1980年7月号に掲載されたコラムでは、『反民主化の暴力』という題で光州(クァンジュ)民主化運動の実像を生々しく書いた」という。光州の真実を誰も口にすることができなかった時代、韓国の知識人たちは日本から持ち込まれた「世界」を手から手へと渡し、紙がすり切れるまで回し読みした。  
 
 日本で池教授と会い、韓国に戻った人の中には、情報当局に連行され「世界のコラムの筆者は誰か言え」とひどい目に遭った人もいた。池教授は「独房で寂しくむち打たれても、最後まで私の名前を言わなかったその人のことを考えると、今でも胸が痛む」と語った。  
 
 98年に安江編集長が亡くなった時、池教授は日本の文豪の大江健三郎氏、東京大学名誉教授の坂本義和氏とともに、安江編集長の葬儀で弔辞を読み上げた。安江編集長が「生涯の知古だった3人に弔辞を読んでほしい」と遺言したためだ。  
 
 安江編集長は特に、「池教授は世界にコラムを書いたため、長い間、韓国の地を踏めず苦労した」と心を痛めていた。池教授は葬儀でひどく泣いたという。  
 
 池教授は88年の大統領選挙直後、自発的にコラムの連載を中断した。「誰でも自由かつ安全に言いたいことを言える時代が来たと判断したから」という。  
 
 「T.K生」が2003年の韓国の現実を見たら、何を一番残念に思うだろうか。  
 
 「どちらの立場に立とうと国を思う気持ちは同じなのに、最近は分裂の度合いがひどすぎて、まったく…」  
 
金スヘ記者