宗麟原供養碑

兼日記」の資料を遺している当時の宮崎城主である。いずれにしても、東攻西征の血戦に明け暮れた戦国武人たちにも、南に北に、領域を争う殺生無惨の戦火への批判があったものか、諦観すれば一切空なりとした四行の偈に、風雪にも消えぬ無量の感慨が、まざまざと滲んでいるかのようである。これは今に至るまで続いている不侵不戦への悲願でもあった。肝に銘じ石に刻んだ悲僻の偈は、そのままに、格調高い名調子の碑文となって、またも天正戦記は、日向の国を南から北へ、北から南へと激しい戦火の渦を駈け抜けさせている。








念願の日薩隅統一
 島津氏が日向統一の北征軍を進めるには、薩隅二国を掌握するのが先決の課題であった。ほとんどの国人領主たちが臣従して、ようやく祢寝重長も降伏した。残るのは肝付氏と伊地知氏だけとなっていたが、伊地知領は肝付領に接しているため、その去就は、肝付氏の動向に左右されていたようなもので、当面の対抗勢力は肝付氏だけであった。島津氏が鎌倉幕府任命の守護職の伝統を誇れば、肝付氏は、それよりも先行する大伴氏伴大納言の後裔を誇り、平季基譲りの島津の荘の差配権を楯に、肝付兼重このかた、奥三州では最も頑強な反島津の国人領主であった。勢力の消長によって、島津氏と協調したことはあっても、その下風に立つことは代々拒否してきた。肝付良兼の後を継いだ弟の兼亮は、兄と同じく島津義久の伯母を母としながら、木崎原戦後も伊東氏と結んで島津氏に対立していた。しかし天正元年(1573)一月、末吉に進入して北郷時久に迎え撃たれての敗戦が、肝付氏衰亡の動機となった。時久の子の相久、忠虎の兄弟が勇戦して、肝付勢は歴戦の一族諸将を戦死させたのが、兼亮には大きな痛手となったし、当時、盟友伊東氏も、強力な援軍を送れる状況でもなかった。
 天正二年(1574)には伊地知重興も島津氏に降り、いよいよ孤立となった肝付兼亮は、市成と廻(めぐり)(福山)を島津義久に献じて遂に屈服したのであった。兼亮の母の阿南は、宿老薬丸孤雲などと相談し、兼亮を当主の座から追って三男の兼護(もり)に相続させた。天正四年(1576)の高原城攻めのときには、義久に従って兼護は参陣したが、その後一族間に内紛もあって、天正八年(1580)十二月、本拠地高山から南薩の阿多村に移転を命ぜられた。肝付氏が盛んなときには、櫛間、志布志、大崎、串良、百引(もびき)、内之浦、鹿屋、大姶良、姶良など、一万二千町余を領有していたのに、阿多で与えられた領地はわずか十二町に過ぎなかった。これよりおよそ二百五十年前、三俣院司として高城の月山日和城に拠り、名門肝付氏の家名を高めた八郎兼重の後裔も、苗字地肝付郡高山を去って、阿多の小名主に転落したのであった。兼護は兼重から数えて十代目の当主である。高山郷の新しい地頭として、島津家から赴任してきたのは、伊集院忠朗の孫になる忠棟であった。後に入道して幸侃(こうかん)という。肝付兼護は、島津義弘に従って関が原の合戦で戦死している。
 肝付氏が屈服して、不順の勢力を領内から一掃した島津義久は、もはや守護家の権威に頼るまでもなく、実力を具えた独立の戦国大名の地位にのし上がった。そして北征の進軍がはじまる。第一関門の高原城を攻略した翌天正五年(1577)十二月、野尻城の福永祐友を伊東氏から離反させると、そのまま一挙に、都於郡城と佐土原城を目指し、直撃の