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[コラム] 京南企業の成完鍾会長はなぜ自殺を選択したのか

「1兆ウォン神話」主人公の人生と悲哀 

    京南企業の成完鍾(ソン・ワンジョン)会長をよく知る知人は、「遺書を残して家を出て行った」というニュースを見た後、「10回以上電話をかけたが、連絡がつかなかった」と残念がった。

    周辺では皆、企業の経営でもしっかりしていればよかったのに、なぜ政治の世界に入って苦労ばかりして、恥と侮辱を受けた末に命まで差し出したのかと話すと言いながら、自分も今になって彼の境遇を理解できると語った。自殺した日、監視カメラに捉えられた彼の姿は、足が地から浮いているかのように、体の中が空っぽのように見えたと言って目頭を赤くした。

    ソン・ワンジョン会長はいつかインタビューで、日本の松下グループの創業者である松下幸之助を最も尊敬すると発言したことがある。2007年に発刊した自叙伝『夜明けの光』では、松下会長の逸話も引用した。

    1965年、松下会長が古希(70歳)を迎えた後、グループの総帥になると、ある従業員が尋ねた。「会長は、どうやってこのように大きな成功を収めることができたのですか」、それに対して松下会長は「私は天からの3つの恵みを受けて生まれた。家が貧しかったこと、体が弱かったこと、小学校しかでていないことがそれだ」

    ソン会長の人生は松下会長と似ている。朝鮮戦争の最中に生まれた彼は、父の冷遇と継母の虐待の中で育った。通っていた小学校を中退したワンジョンは、ソウルに女中奉公をしに行った母を探しに上京した。幼いワンジョンのポケットにはわずか100ウォンだけが入っていた。

    朝には新聞配達をし、昼間は薬局の使い走りをして、夜には教会の付設学校で勉強をするという、根気強い人生を生きていく。7年の間、苦労の末に集めたお金で故郷の忠清道に戻って母と弟3人と一緒に食べた夕食をソン会長は「人生で一番おいしい食事」だったと記憶する。

    彼が故郷で初めて始めた事業は、貨物仲介業だ。元手はたったの1千ウォンだった。26歳には200万ウォンをかけて瑞山土建を立てて建設業に飛び込んだ。瑞山土建は勢いに乗り、1982年に大亞建設、2003年には京南企業を買収し、一時2兆ウォンの売り上げを誇った。彼は「1千ウォンの神話」を書いた立志伝的な人物として描かれた。

    メディアは、独力で成功した企業家として称賛を受けていた彼が崩れ始めたきっかけを政治に飛び込んだところから見つけようとする。世間の評価のように、より大きな夢のために政治権力も握って見てみたいと思ったのかも知れない。

    彼が政治的にメディアで取り扱われはじめたのは、14代総選挙のあった1992年からだった。政府与党が金品を散布するなど、官権の不正選挙があったとし、証拠物として提示した小切手の束が大亞建設の口座から引き出されたという事実が明らかになったときだ。「小切手が会社の口座から引き出されたことは事実だが、それ以降の小切手の流通過程については分からない」という言葉が通じたのか処罰は免れたが、野党からは忠清南道の官給工事を大亜建設がまとめて獲得できたのは、政界との癒着があったからではないかという疑惑を受けた。

    2000年の16代総選挙で国会議員への出馬を明らかにした時に、すでに彼は堅い基盤を構築していたと確信していた。1991年に設立された瑞山奨学財団を通じて2万人に近くの学生と縁を結び、2000年から会長を務めた忠清フォーラムには潘基文(パン・ギムン)国連事務総長と鄭雲燦(チョン・ウンチャン)元総理も含まれていた。

    しかしソン会長は、その年の選挙で本選に上がることさえできず、落馬する。金鍾泌(キム・ジョンピル)総裁が率いる自由民主連合(自民連)に公薦(公認)を申請したが、公薦の過程で苦杯を飲んだ。以来、政党を転々として国会進出を狙ったが、その後も毎度公薦で押されていた彼は、2012年にセヌリ党の公薦さえも失敗に戻った後、無所属の出馬を強行する。

    候補登録前日に、自由先進党(先進党)の候補に変貌した彼は、ついに国会議員に当選した後、合党の過程を経てセヌリ党の国会議員になったが、2014年6月に公職選挙法の違反であれほど望んでいた議員職を失ってしまった。

    ここまでを見ると、金と権力を両手に握ろうとしていた男の野望がむなしく霧散したと見ることができる。しかし、彼の本心には切迫さがあったのかもしれない。

    小学校も卒業していない人間が韓国社会で受ける冷遇は経験したことがなければ言葉で表現することはできない。学閥による人脈もなく血縁もない彼は権力の力がより必要だったのかもしれない。しかし、権力の中心に近づけば近づくほど屈辱感や悲哀はより大きく感じられたはずだ。

    このような屈辱感は、自分に力がないから「資源外交不正」事件でも、罪のない自分が犧牲になって俎上に載せられたという考えを増幅させたことだろう。権力の座に座っていた元大統領でさえ「出身が微賤で学歴が取るに足りない」という侮辱を与えた韓国社会の実像がさらに痛切に感じられたのかもしれない。

    太陽に向かって飛び、燃えて死んだイカロスに似たソン会長の自殺は、派閥に染まった韓国社会、醜悪な政治に対して抵抗しようとする「身もだえ」だとして解釈したい。

    ソン会長は死ぬ直前にある新聞とのインタビューで、金を渡した相手の名前を挙げするたびに信頼について言及し、「私一人が犠牲になって、他の人がもっと犠牲にならないようにしなければならない」という言葉を残したと伝えられる。命を差し出した彼の「最終陳述」が少しでも意味をもつためには、彼が残したリストに対する聖域のない捜査が行われなければならない。
  • O2CNI_Lim, Chul/写真=MBN | 入力 2015-04-17 18:30:00