支那人失望す可らず

• 初出：『時事新報』明治31年（1898年）4月16日
• 底本：『時事新報』明治31年（1898年）4月16日
• 所蔵：国立国会図書館新聞資料室
• 注釈：原文は漢字ひらがな交じり。句点はなし。

支那人失望す可らず

支那の近状（きんじやう）を見ればます〳〵外國に迫（せま）られ所謂（いはゆる）今日一城を割（さ）き明日一州を割（さ）くの有樣にして外より眺（なが）むるも堪（た）へ難き次第（しだい）なれば况（ま）して其國人の身と爲（な）りては自から腸（はらわた）を割くの思（おもひ）ある可し或は此極に至りては國事（こくじ）亦爲す可らずなど失望（しつばう）落膽（らくたん）するものもあらんなれども我輩は日本人として自から自國（じこく）の經歴（けいれき）に徴し其現状（げんじやう）は氣（き）の毒（どく）に相違（さうゐ）なけれども前途（ぜんと）の成行决して失望す可らざるを勸告（くわんこく）せんとするものなり抑も我國の今日あるを致（いた）したるは决して偶然（ぐうぜん）に非ず開國（かいこく）の當初（たうしよ）より非常（ひじやう）の困難（こんなん）を經歴し漸（やうや）く現在の地位（ちゐ）に達したるものにして當時の有樣（ありさま）を回想（くわいそう）すれば今尚ほ悚然（しようぜん）たらざるを得ず徳川政府は外國（ぐわいこく）の要求（えうきう）止（や）むを得ずして開國と决（けつ）したれども國中の攘夷熱（じやういねつ）はます〳〵盛（さかん）にして政府の威令（ゐれい）殆（ほと）んど行はれず所謂（いはゆる）浪士（らうし）の輩處々（しよ〳〵）に出沒（しゆつぼつ）して外國人を暗殺（あんさつ）する等その騷動（さうだう）一方（ひとかた）ならず外國人は最初貿易（ばうえき）の一點よりして日本の開國を促（うなが）したることならんなれども中には此有樣を目撃（もくげき）して竊に野心（やしん）を催（もよ）ほしたるものもなきに非ず彼等が國内の騷動（さうだう）に乘じ種々の無理難題（むりなんだい）を言（い）ひ掛（か）け結局自から利（り）したるは實際の事實（じゞつ）にして内々の魂膽（こんたん）は聞て驚（おどろ）く可きもの多けれども姑（しばら）く之を擱（さしお）き外に現（あら）はれたる一二の出來事（できごと）に就て見るも時の事情（じゞやう）を察するに足る可し彼の生麥事件（なまむぎじけん）の如き僅々一二人の危害（きがい）の爲めに政府に迫（せま）りて十萬ポンドの賠償金（ばいしやうきん）を取りたる其上に軍艦を以て鹿兒嶋（かごしま）に闖入（ちんにふ）し其城下を砲撃（はうげき）したる後更らに遺族（ゐぞく）の扶助料（ふじよれう）として薩州（さつしう）より二萬五千ポンドの金を拂（はら）はしめ又長州人が下（しも）ノ關（せき）に於て外國船に砲發（ほうはつ）したりとて聨合艦隊（れんがふかんたい）の力を以て其砲臺（はうだい）を破壞（はくわい）し政府より三百萬弗の償金（しやうきん）を收（をさ）めたるが如き最も著（いちじる）しき事實にして事の起（おこ）りの理非曲直（りひきよくちよく）は兎も角も其擧動（きよどう）は亂暴（らんばう）至極（しごく）畢竟我弱味（よわみ）に付込（つけこ）んで自から利したるものに外ならず殊に維新革命（ゐしんかくめい）の時に際し英人が陰然（いんぜん）その事を助（たす）けたるが如き新政府の創立（さうりつ）に力（ちから）を添（そ）へ其政府を思（おも）ふまゝに頤使（いし）して大に恩威（おんゐ）を逞（たくまし）うせんとしたるものにして其志の小ならざるは無論、又當時佛（ふつ）露（ろ）の二國が幕府（ばくふ）に對して大に好意（かうい）を表（へう）したりと云ふも畢竟他に目的（もくてき）を存したるが爲めにして今日より考ふれば寒心（かんしん）に堪へざるの事實少（すく）なからず幸（さいはひ）に我國は種々の損害（そんがい）を蒙（かうむ）らしめられたるのみにして土地（とち）を失（うしな）ふに至らざりしかども對馬（つしま）の如きは一旦露國の爲めに占領（せんりやう）せられたるの姿（すがた）を成し漸（やうや）くにして取返（とりかへ）したることさへもあり要するに維新前（ゐしんぜん）外交（ぐわいかう）の困難（こんなん）は毫も支那の現状（げんじやう）に異（こと）ならざる其困難を經過（けいくわ）して今日あるを致（いた）したるのみ思ふに支那の開國（かいこく）は年既に久（ひさ）しと雖も其進歩甚だ遲々（ちゝ）として外交の程度（ていど）は恰も日本の當時に等（ひと）しく今正に煩悶（はんもん）困頓（こんとん）の經過期（けいくわき）に在るものなり豫後（よご）の成行、果して如何（いかん）と云ふに我輩の所見（しよけん）に於て决して失望（しつばう）す可らずと云ふ其理由（りいう）は支那の外形（ぐわいけい）衰（おとろ）へたるが如しと雖も其體格（たいかく）肥大（ひだい）にして然かも内地の榮養（えいやう）充分（じうぶん）なるの一事は大に望（のぞみ）を屬（ぞく）す可き所なり同じ東洋の國にても朝鮮（てうせん）の如きは既に衰弱（すゐじやく）の極に達して回復（くわいふく）の望（のぞみ）なけれども支那に至りては版圖（はんと）の廣大（くわうだい）なると共に内の富源（ふげん）は殆んど無盡藏（むじんざう）にして量（はか）り知（し）る可らず左れば外國の爲めに海岸の要地（えうち）を割（さ）きたりと云ふも版圖の全體（ぜんたい）より見るときは九牛（きうぎう）の一毛に過ぎず或は旅順（りよじん）威海衞（ゐかいえい）の如き渤海（ぼつかい）の關門（くわんもん）にして此門を失（うしな）ふときは首府（しゆふ）を劫（をびやか）さるゝの危險（きけん）ありと云はんかなれども今の北京の地位（ちゐ）にして果して安全（あんぜん）ならざるに於ては都（みやこ）を南方（なんぱう）に移（うつ）して自から守（まも）るも差支（さしつかへ）ある可らず本來外國人が競（きそ）ふて支那の土地を要求（えうきう）したるは畢竟列國間の均勢（きんせい）を保（たも）たんとするが爲めにして全國を分割（ぶんかつ）して之を支配（しはい）せんとの野心（やしん）あるに非ず或は實際に斯（かゝ）る野心ありとするも全國の分割（ぶんかつ）は到底（たうてい）行ふ可らず強（し）ひて之を行ふときは其維持法（ゐぢはふ）に窮して結局自から苦（くる）しむの外なきのみ故に支那人が目下の困難（こんなん）に懲（こ）り自から奮發（ふんぱつ）して其富源（ふげん）を開き大に國力を養（やしな）ふときは版圖（はんと）の維持（ゐぢ）の如き敢て難（かた）からざるのみか或は既失（きしつ）の土地を回復（くわいふく）して面目（めんもく）を全うするの望なきに非ず要するに支那の實力に富（と）めるは疑ふ可らざる所にして朝鮮などの貧弱國（ひんじやくこく）と同日の談に非ず今後の成行（なりゆき）决して失望（しつばう）す可きに非ざれば今の困難（こんなん）は恰も經過（けいくわ）の順序（じゆんじよ）として自から慰（なぐさ）む可きのみ或は支那人の身（み）と爲れば日本の今日を見て大に羨（うらや）むことならんなれども日本は恰も支那の今日を經過（けいくわ）して現在（げんざい）の地位（ちゐ）に達したるものなり支那人も早く目下の困難を經過（けいくわ）して日本の今日に至（いた）らんことを期（き）せざる可らず我輩は日本人として殊に同情（どうじやう）に堪へず其時機（じき）の一日も速（すみやか）ならんことを希望（きぼう）するものなり

明治31年（1898年）4月16日

関連資料

• 「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」（『郵便報知新聞』明治8年（1875年）10月7日）
• 「朝鮮の交際を論ず」（『時事新報』明治15年（1882年）3月11日）
• 「朝鮮独立党の処刑」（『時事新報』明治18年（1885年）2月23、26日）
• 「脱亜論」（『時事新報』明治18年（1885年）3月16日）
• 「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」（『時事新報』明治18年（1885年）8月13日）
• 「兵力を用るの必要」（『時事新報』明治27年（1894年）7月4日）
• 「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」（『時事新報』明治27年（1894年）7月5日）
• 「改革の着手は猶予す可らず」（『時事新報』明治27年（1894年）7月6日）
• 「支那人親しむ可し」（『時事新報』明治31年（1898年）3月22日）