ノート:オーガズム

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

話題[編集]

陰嚢や大陰唇については、性感帯と言うよりは嗜好・嗜癖に近いのですが、「性器全体」と言う言葉でくくり残しました。 なお、前立腺とGスポットの削除、コメントなき削除でしたので復活いたしました。詳細についてはそれぞれのリンクも参考にされて下さい。 男性におけるオーガズムのレベルの削除についても同様に復活しました。男性のオーガズムについては、女性のそれに比較しても多くの誤解が存在していますので、あえて。。。--以上の署名の無いコメントは、Bucchi f会話投稿記録)さんによるものです。2006年4月30日 (日) 23:56 (UTC)[返信]

編集の方向性[編集]

  • マスターズ&ジョンソンの研究は原著は1970年(今からすでに40年も前のもの。古い。)で、すでに古典的研究とされており、いささか内容が古くなってきているのではないか。古典というのは、あくまで古典として扱うものであり、現在知られている知識とも異なる点があり、そのまま信用できるとは限らない。ウィキペディアにおいては、古典の扱いには慎重になれ、とのルールがある。マスターズ&ジョンソンの研究における記述を紹介するのも、それはそれで良いのだが、その内容を100%信頼せず、同研究にも、現在の視点で見れば間違いが多数混入している可能性がある、と思って中立的に慎重に紹介したほうがよい。
  • Igiturさんが言うように「人間がオーガズムをどう捉えてきたか」の変遷を時代に配慮しつつ追うならば、記述の順は基本的には、むしろ 宗教的→文化・文学的→医学的・生理学的→生物学的の順になるるべきでしょう。ウィキペディアというのは百科事典プロジェクト。百科事典というのは世の中の実にさまざまな面が豊富に盛り込まれている事典です。せっかくの百科事典を、ただのつまらない自然科学事典や自然科学偏執狂事典や <<自然科学崇拝者のための事典>>にしてしまわないように気をつけましょう。どうもウィキペディアや2chには教養不足・勉強不足が原因で大勘違いされている人が多いようなので、ここではっきり言っておきますが、文化というのは非常に非常に重要なものです。人間が生きてゆく上では、時に(実証主義がこだわる)素朴な事実なんかよりも、文化的な知識(=事実にかかわらず、人間がそれをどう見なしているのか、ということ)のほうがはるかに重要で決定的な要素だったりします。人間というのは、物理的な世界に生きているというよりも、社会的なきめごとの世界や、人間の心が作り出す意味空間の中で限定されたり、可能性を与えられて生きています。つまり、人類が伝統的にどのように考えてきたか、ということは非常に重要なことなので、百科事典ではそれもしっかりと力を入れて紹介するようにしましょう
ただし、一番古い観念から全てを時代順に解説するというのも、それはそれで読みづらいので、まず概説の次の節において、最近では知られるようになっている(医学的で、そっけないような)事実を簡潔に分かりやすく記述しておいて、次に時代を一気に遡り、古い古い知識、伝統的な知識(人々が長らくその考え方で生きてきた文化的考えで、現在でも人々がしばしばそう感じているような考え方)、近代の考え(西洋哲学者による、古臭くて、あきらかに哲学的主張が強く、くせのある考え方) → 20世紀前半(19世紀~20世紀の自然科学特有の頭の固いドグマ的な考え方が満載で、現代からみれば見落としだらけで間違い含み) →ごく最近の見解、(+最近の奇説も少量紹介) と順を追って述べてゆくのがよいパターンだろうと思います。
というのは、このパターンだと、実用的知識にも最短でアクセスでき、人類が辿ってきた文化の歴史も吸収できて教養を身に付けられてよろしく、最後に少し変な珍説も読めて楽しめる、という総合的によくできたパターンだからです。
進化生物学者の主張している諸仮説(諸珍説)は比較的新しいものなので末尾に配置すればよい。ちなみに、進化生物学者の主張している諸仮説なんていうのは、何ら統計的検証も経ていないし、はっきり言えば、第三者から見れば、全然 科学に至っていない、《未科学》の部類。その意味でも、特に大切にする必要などなく、上部に表示する必要なし。たとえ信奉者が多くても、それは一種の宗教のようなものだから信奉者が多い、子供にも分かりやすく美味しく感じられるSFのようなものだから信奉者が多い、ということにすぎない(ウィキペディアには一部、進化生物学の熱心な信者がいて、しかも自分が信者だとの自覚がなく、進化生物学がそのまま事実を記述しているなどと狂信していて、中立性を欠いたルール違反の記述をする者がいる。要注意。)。ほとんどの進化生物学的言説は、厳密に事実を数理的・統計的に検証してもおらず、ただただ、憶測に基づいてドグマ(教義)で哲学的な説明を繰り返しているだけ。カール・ポパーだったら、「反証可能性を満たしていない」として疑似科学に分類するような代物です。進化生物学者の言説は教義の循環論法的な繰り返しが多く、(良くも 悪くも)、一種の文化的なものです。時代の流れからしても、その派生関係からしても、文化の並びの末尾のほうに配置すればよい。ちなみにフロイトの説と最近の進化生物学の仮説の配置の順は、フロイトの説→進化生物学の(珍)仮説 の順になっていなければならない。逆順としてはダメ。フロイトの説というのも、その根本動機としては、19世紀末の学問を徹頭徹尾、唯物論的で実証主義的なものにしようとした学問上の思潮(「モダニズム」とも呼ばれる)があって、そのような一種の思想的・文化的運動の中で生まれたもの。フロイトの説も一応、科学的になろうとした結果、生まれたもの。進化生物学というのも、それをやっている当人たちは科学にしようとしているつもりだが、第三者から見ると根拠薄弱なもの、未科学になっている、という代物。どっちもどっち。その意味ではフロイトの説と進化生物学の(根拠薄弱な仮説)との間にウィキペディアンが勝手に優劣などつけて、歴史順をひっくりかえしてはダメ。素直に歴史順に配置すべき。
  • 「Aという説とBという説があって、互いに矛盾しているから、(オレはBの説のほうが正しいと思うから)Aを非表示にしてやる」という理屈で編集をしてはいけません。(Igiturさんはどうも、それをやってしまう癖があるようですが、それは今後は絶対に止めるべき)。それは、ウィキペディアンが勝手に推論を行って記事を編集していることになり、ウィキペディアで禁止されている独自の研究に近い。ウィキペディアンが他の論者の説の優劣を勝手に判断してはいけない。複数の異なる説がある場合は、どちらも中立的に紹介する。各論を併記してゆくのがウィキペディアの作法。各説が矛盾しているのなら、矛盾しているままに「A説はXと述べている」「B説はYと述べている」と中立的に紹介するのがウィキペディアなのです。特定の視点であまり優劣をつけないほうがよい。

--60.39.121.3 2011年6月27日 (月) 06:02 (UTC)[返信]