アドレナリンとエピネフリン | きくな湯田眼科-院長のブログ

きくな湯田眼科-院長のブログ

眼瞼下垂、結膜母斑、なみだ目、レーシック、流涙症なら                     

横浜市港北区菊名にある『きくな湯田眼科』

アドレナリンは米国ではエピネフリンと呼ばれています。ドイツ、フランス、英国など他の多くの国ではアドレナリンですが、我が国では日本薬局方で以前は米国式にエピネフリンの名称が使われていましたが、2006年より正式名称がアドレナリンとなりました。(裁判制度、郵便制度など何でも米国のまねをする我が国では珍しいことです)


ポーランドの生理学者 Napoleon Cybulski (1854-1919 下写真) が1895年に動物の副腎の抽出物質に血圧を上げる作用があることを発見し、nadnerczynaと命名し報告しました。この物質は純粋なアドレナリンではなく他のカテコラミンを含んだ混合物でしたが、キブルスキーが一応、アドレナリンの最初の発見者とされています。



きくな湯田眼科-院長のブログ



1897年、米国ジョンズホプキンス大学の薬理学教授であった John Jacob Abel (1857 - 1938 下写真)がヒツジの副腎抽出物質に同様な昇圧物質を認め、彼はこれをエピネフリンと命名しましたが、彼の抽出物も純粋なアドレナリンではありませんでした。(従って彼の仕事はアドレナリン発見と言う点においてもファーストではありません)エーベルはアドレナリン抽出実験の最中の事故で片眼を失明しており、アドレナリンに対する思い入れは相当なものがあったと推定されます。それ故、アドレナリン発見の真の栄誉を得られなかったことはかなり悔しかったに違いありません。その証拠に後に回想録で自己の正当性を主張し、自らが考案したオリジナリティーのない”エピネフリン”の名を広めようとしたのです。



きくな湯田眼科-院長のブログ


1900年米国ニュージャジー州のタカミネ研究所で、所長の高峰譲吉(1854-1922)と助手上中啓三(1876-1960)によってヒツジとウシの副腎から純粋な昇圧物質が抽出され、これを高峰はアドレナリンと命名しました。



きくな湯田眼科-院長のブログ


実際に抽出に成功したのは助手の上中の方で、彼は殆ど不眠不休で実験を重ね、偶然の出来事からついに抽出に成功したのでした。彼は極めて几帳面な性格で、実験終了後は必ず実験器具を洗浄していましたが、ある時急用ができ実験器具を洗うことなく実験を終了しました。翌日実験器具を洗おうとしたところガラス器具の中にきらきらと光る物を見つけました。これがアドレナリンの結晶だったのです。


こうしてアドレナリンの純粋な結晶抽出者として高峰譲吉の名が残ることになりましたが、後にアーベルが1927年の雑誌サイエンスに寄稿した回想録で、高峰のアドレナリン発見の仕事は自分の研究の盗作であると訴えることがありました。


今日アドレナリン発見に関しては、几帳面であった上中の詳細な実験記録が残されており、アーベルの主張は間違いであることは明確になっていますが、米国の薬理学の父とされているアーベルのこの回想録の影響は大きく、今日アドレナリンの名称が米国で使用されない大きな要因となっていると考えられます。


高峰はアドレナリン発見の功績を事実上独占しています。学会発表では上中の名前は排し、単独名で行っています。さらに高峯は米国でアドレナリンの特許を得て巨万の富を得ましたが、特許も単独名で申請しており、上中はその恩恵には全く与りませんでした。なお、上中はその存命中には実験ノートを公表せず、アーベルの盗作であるという主張に反論することもありませんでした(上中はあくまでも謙虚な人柄で、自身の実験ノートの公表が高峯の功績を否定することになると考えたと思われます。)高峯はその遺書で、上中に5千円の贈与金を与えることを書いています。そしてその後に”寛大と誠実とに感謝をこめて”の追記がされています。


こうしてヨーロッパ諸国では高峰のプライオリティーに敬意を表してアドレナリンの名称が使われ、米国では上記のような理由もあってか、アーベルの主張したエピネフリンが用いられることになったのです。