【福岡県香椎耳塚】「伝神功皇后三韓征伐の耳塚(馘塚)」の本来の伝承について(上) | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。

今回含めて3回は、福岡県福岡市東区香椎にある、香椎宮付属の

  耳塚(みみづか)こと馘塚(きりみみづか)

の由来について、追及した論文を掲載します。

本耳塚(馘塚)は

  古代日本の神功皇后が三韓征伐を行った際に討った新羅人の耳ないし首を納めて祀った

と言われる塚です。

それを韓国の民間研究者が

  豊臣秀吉の文禄慶長の役の際の朝鮮人被害者?の耳塚だ

という主張を始めているのに対抗するために書いたものです。

ちょっと専門的ですが、お時間があればご覧ください。

なお、本論文はPDF化したものを香椎宮及び福岡県の歴史研究者などにも送る予定です。

では、以下が論文となります。

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「伝神功皇后三韓征伐の耳塚(馘塚)」の本来の伝承について(上)
 2016年4月2日
 流じゅうざ

序章:韓国人が発見した豊臣秀吉の耳塚?
私が福岡県福岡市東区香椎駅東にある「耳塚」こと「馘塚(きりみみづか)」(以下、耳塚(馘塚)と表記する。正式名称は「馘塚」だが、現地では一般に「耳塚」と呼ばれているからである)について調査を始めた理由は、2016年1月19日付の韓国の聯合ニュースに以下のような新聞記事が載ったからだ。(本文は要約である)

「日本福岡で朝鮮人の耳の墓跡発見」
 日本の福岡で壬辰倭乱(文禄の役)と丁酉再乱(慶長の役)のとき犠牲になった朝鮮人たちの「耳の墓」の痕跡が発見されたとする。発見者は韓国の韓日文化研究所所長金文吉(キム・ムンギル)氏で、「日本福岡市香椎で耳の墓である「馘塚」の祠堂を発見した」と明らかにした。

 (これが福岡市で仲哀天皇・神功皇后を祭神とする香椎宮の付属地である香椎駅東の「耳塚(馘塚)」を指しているのは同記事に写真も掲載されているので間違いない。 )

金所長は貝原益軒の『筑前國續風土記』の記述と思われる「新羅人の耳を納めたこと」、またかつて盗掘された際に「其内は方三尺許に石を畳めり。高さ一間許、其中に四尺許の刀有しが、三に折たり。」を引用しつつも、「新羅人」とは「朝鮮人」の呼称であるとし、「日本の郷土歴史家たちも、この馘塚が新羅時代ではなく、壬辰倭乱の時、当時の地域の支配者であった小早川秀秋が作成したものと見ている。」という説を紹介、「他の耳塚の場合のように祠堂の下に耳塚があると推定され発掘の必要性がある」と主張した、とのことだった。(注1)

 しかし、この韓国の金韓日文化研究所所長は日本の各地で過去の豊臣秀吉の文禄慶長の役の際の耳塚(馘塚)を発見したと称する他、対馬は朝鮮の領土であったする主張など朝鮮・韓国に一方的に有利な主張を繰り広げている人物であり、その言説を鵜呑みにすることは出来ない。

実際、文禄慶長の役(1592~98年)から100年程度後に編纂された貝原益軒の『筑前國續風土記』(編纂期間1688年(元禄元年)~1703年(元禄16年))の「馘塚」の項には神功皇后の三韓征伐についての記述があるのみで、文禄慶長の役との関連、小早川家との関連については語られていない。(注2)また実際に2016年2月に訪問した香椎宮の神職のお話でも「神功皇后の三韓征伐の耳塚(馘塚)である。」とのお話であった。

そのため、韓国側民間団体の動きを放置して、香椎宮付属地として祭礼の対象とすべき耳塚(馘塚)について豊臣秀吉による残虐行為の証拠というレッテルを張られることを恐れたために、改めて本耳塚(馘塚)の由来の諸説について検討し、その本来の伝来を明らかにしようと努めたものである。 ただし、仲哀天皇・神功皇后の事績自体は、歴史的・考古学的に明らかにすることは難しいので、あくまで遡れる範囲での伝来の言い伝えを探ると共に、巷間に広まる「豊臣秀吉の耳塚」や「元寇と関連する史蹟」という説について、その根拠と背景を明らかにし、ここに清算するものである。 

第1章:文献・伝聞資料の存在しない「豊臣秀吉の耳塚」論
香椎の耳塚(馘塚)の由来について、現在伝えられている説は概ね以下の3つである。

1)神功皇后が三韓征伐後に新羅人の耳(ないし首)を祀ったもの。(初出は貝原益軒の『筑前國續風土記』)
2)元寇関係の慰霊塔(初出は琴秉洞『耳塚-秀吉の鼻斬り・耳斬りをめぐって』)(注3)
3)豊臣秀吉の文禄慶長の役の耳塚。(初出は丸山雍正「馘塚(耳塚)と「鼻證文」」) (注4)

しかし子細にそれぞれの文章を確認すると2)、3)の説が裏付けるものがない説であることがはっきりする。  

明治期の耳塚(馘塚)の絵図。香椎駅の建設に伴って移設された後である

まず、2)の琴秉洞の論とされている論だが、注意すべきは琴が「耳塚(馘塚)は元寇関連の遺跡である」と書いている訳ではないことだ。琴が香椎の耳塚を実際に訪問した際に、その石室の中に「南無妙法蓮華経」という句と共に、「元寇の役時の犠牲者供養のための札があり」、また「この香椎「耳塚」まで案内してくれた人は偶然にも所在をたずねた近所の人であったが、この人は「元寇の役と関連のある塚ですか?」と聞き返した。石室内の札といい、この案内者の言といい、あるいはこの附近で「耳塚」の所在を知る人たちの間では、神功皇后関係の「耳塚」というよりも、元寇関連の塚とうけ取られているのではないかと思われる。」と書いているのみなのだ。(注5)

そもそも琴も現認した現存する塚自体が『筑前國續風土記』にあるように、延宝の初年(1674年)の盗掘後に「塚を築置、石仏を其上に据え、地蔵と号」したものである以上、琴が見た「元寇の役時の犠牲者供養のための札」というのは1674年以前に遡るものでは決してない。

また、耳塚(馘塚)自体、かつては現在のJR香椎駅周辺にあり、1890年の九州鉄道による香椎線の建設工事の際に現在の場所に移されたものである。(注6)(存外この重要な事実が書籍、資料に書かれていない。)移設後に耳塚の周囲はいわゆる新興住宅地なり、耳塚(馘塚)自体が民家の裏庭に置かれるような形になったために香椎宮による祭祀も自由に行えなくなってしまい(注7)、周囲の住民からその存在・意味も忘れられることになったものと思われ、それが琴に質問した地域住民の「元寇の役と関連のある塚ですか?」という「質問」に現れていたと考えられる。

前後するが、琴は同じ書の中で耳塚(馘塚)について柳田国男の『耳塚の由来に就いて』と吉田東伍の『大日本地名辞書』の記述を検討した上で、「この香椎の「耳塚」が神功皇后の「三韓征伐」時のものだというのは、「三韓征伐」自体が歴史的にも何らのうらづけのないものであることは先にふれておいた通りなので、その限りではこの香椎「耳塚」が朝鮮本土と関連する耳塚でなかったのは明白である。」とも書いており、最終的に香椎耳塚(馘塚)の正体については結論を出していない。(注8)

ところが、こうした琴氏の言説が正確に引用されることなく、後に魯成煥がその論文「耳塚の「霊魂」をどう考えるか」で「1977年に琴秉洞が現地を訪れた時、地元の人は、その塚を蒙古軍と関連付けて説明していたという」とし、さらに「この塚は本来蒙古侵略の際に犠牲になった日本側の無名勇士の碑、あるいは蒙古や高麗の兵士の屍体が埋められた所なのかもしれない。」などと解釈した(注9)のと同様に誤解されたことによって、耳塚(馘塚)=元寇関連の史蹟という誤った説として世に広まったものと考える。

では3)の豊臣秀吉の文禄慶長の役の耳塚説はどうであろうか?韓日文化研究所の金所長も「日本の郷土歴史家たちも、この馘塚が新羅時代ではなく、壬辰倭乱の時、当時の地域の支配者であった小早川秀秋が作成されたものと見ている。」と発言していたのだが、この説について調査をして見ると、初出は上に挙げたように丸山雍正九州大学名誉教授がその2つの論文「馘塚(耳塚)と「鼻證文」」と「唐津街道と耳塚・鼻切り-朝鮮侵略への道-」(注10)で提唱したものだ。

 しかし、2つの論文ともども文禄慶長の役において如何に日本軍が朝鮮で残虐な行いをしたかを表すのに終始しており、前者では黒田長政軍の「鼻證文」(戦果としての朝鮮人の鼻の数を報告したもの)の内容の紹介が大部分であり、後者では唐津街道が「太閤道」として文禄慶長の役に使われたことと同戦役中の日本軍の行路についての解説がほとんどを占めている。耳塚(馘塚)については、わずかに貝原益軒の『筑前國續風土記』、吉田東伍『大日本地名辞書』、伴蒿蹊『閑田次筆』、そして琴秉洞の『耳塚-秀吉の鼻斬り・耳斬りをめぐって』の諸説を紹介しつつも、すべてを否定し「豊臣政権の朝鮮侵略の兵站基地だった博多・箱崎、これに近接する香椎浜男の歴史・地理的条件を考慮すべきではなかろうか。それが確かならば、これは小早川隆景・秀秋の家臣による築造と推測しても差し支えはなかろう。」としている(注11)のだが、筆者には何が「差し支えはなかろう」なのかまったく理解が出来ない。

理由の第1は、丸山が「耳塚(馘塚)」を「小早川隆景・秀秋の家臣による築造と推測し」つつも、一片の文献資料、伝説、伝聞を示していない点である。丸山の推測は耳塚(馘塚)が文禄慶長の役の際に豊臣軍が進軍した唐津街道に沿いにあるという「地理的」条件と耳塚の地が当時小早川家の所領であったという単純な歴史事実と豊臣軍によって朝鮮人の耳斬り・鼻斬りが行われたという事実以外の何物でもない。同地に伝わる耳塚の小早川家縁者による建立由来や、同敷地を小早川家が香椎宮に献上した証文のような証拠が全くないのである。むしろ『香椎町誌』の香椎宮の「神領の変遷」を見ると、文禄慶長の役以前になる天正15年(1587年)に小早川隆景が合計159町歩を寄進した記事を載せるが、秀秋の代にはむしろ「理由なく是を減じて60町歩としてしまった」とあり、さらに秀秋の転封後に至っては「石田治部少輔、大谷刑部大輔が暫く当国を支配していた間に神領を全部没収してしまったのである。」とある。(注12)そこには小早川家やその家臣からの文禄慶長の役後の耳塚(馘塚)の土地の寄進の記録はないし、秀秋の香椎宮に対する態度を見ると到底考えられない。

理由の第2は文禄慶長の役後、100年ほどしか経っていない時期に編纂された貝原益軒の『筑前國續風土記』などにその事実が一篇たりとも書かれていないこと。そして第3は、小早川隆景・秀秋の家臣による塚であるならば、何故「香椎宮付属地」として扱われなければならなかったのかについても説明がされていないことだ。耳塚(馘塚)が神功皇后由来のものとされてきたからこそ古来香椎宮と結びつけて紹介されてきたのだが、丸山の言説にはそれを切り離す証拠はまったく挙げられていない。

上記を理由として、筆者は丸山による「耳塚」=「文禄慶長の役の耳塚」説を否定する。そして、寡聞にして丸山以外に論拠を挙げて「文禄慶長の役の耳塚」説を唱えた人間を知らない。「文禄慶長の役の耳塚」説は丸山の論文、著書からの引用や、その孫引用による「ウィキペディア」の記載(注13)(筆者により訂正済み)から来ているものと思われる。

以上、この章では耳塚(馘塚)の由来について、戦後に発生した「元寇関連説」「文禄慶長の役の耳塚説」を除くことが出来た。次章では、耳塚(馘塚)の本来の伝承である、2つのルートを遡ってみる。

<注>
 序章
(注1)韓国・聯合ニュース「일본 후쿠오카서 조선인 귀무덤 흔적 발견」2016年1月19日
(注2)貝原益軒『筑前國續風土記』巻之十九、引用は中村学園大学図書館貝原益軒アーカイブ所収『筑前國續風土記』巻之十九による。

 第1章
(注3)参照したのは琴秉洞著『耳塚-秀吉の鼻斬り・耳斬りをめぐって』増補・改訂版(総和社)1994年8月。ただし初版は二月社から1978年1月発行。
(注4)福岡県地域史研究所「県史だより」第109号所収(2000年(平成12年)5月)
(注5)琴、上掲書210P。
(注6)耳塚(馘塚)の移設とその後の事情については香椎宮権禰宜木下氏より伺う。また『香椎タウンストーリー』ホームページ「ふるさと香椎」にも記載がある。
(注7)香椎宮権禰宜木下英夫氏のお話による
(注8)琴、上掲書208~209P。
(注9)魯成煥「耳塚の「霊魂」をどう考えるか」『日文研フォーラム』第268回(2013年10月31日)48P。
(注10)丸山雍正「唐津街道と耳塚・鼻切り-朝鮮侵略への道-」『交通史研究』第46号(2000年(平成12年)10月)
(注11)丸山雍正「唐津街道と耳塚・鼻切り-朝鮮侵略への道-」『交通史研究』第46号(2000年(平成12年)10月)、8P。
(注12)香椎町役場『町制施行十周年記念 香椎町誌』、1953年、40P。
(注13)かつて「ウィキペディア」の「香椎」の項の「馘塚・耳塚」の部分には、空閑龍二著『福岡歴史がめ煮[東区編]』(海鳥社)(2010年12月)が論拠として「小早川氏かその家臣による耳塚」説が示されていたが、空閑の論は『街道の日本史48 博多・福岡と西海道』(吉川弘文館)(2004年2月)所収の丸山の「太閤道と馘塚」という文章からの引用であり、この文章は丸山の上掲論文から結論だけ引いてきたものであった。


<関連エントリー>
【福岡県香椎耳塚】「伝神功皇后三韓征伐の耳塚(馘塚)」の本来の伝承について(上)
【福岡県香椎耳塚】「伝神功皇后三韓征伐の耳塚(馘塚)」の本来の伝承について(参考書類)

(下)に続く



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