■寺島実郎の発言

問いかけとしての戦後日本−(その5)
日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷

岩波書店「世界」2008年8月号 脳力のレッスン76

 

 敗戦の苦しみの中にあっても人々は歌を忘れなかった。一九四五年の一二月一〇日、東京の芝田村町の飛行館においてNHKのラジオ番組「希望音楽会」が行われ、並木路子が『りんごの歌』を歌った。「りんごは何にもいわないけれど、りんごの気持ちはよく分る」というサトウ・ハチロー作詞、万城目正作曲の歌は、染み入るように焼け跡の日本に浸透していった。その年の大晦日には、後の「紅白歌合戦」の原型となる「紅白音楽試合」が水の江滝子と古川録波の司会でスタートした。進駐軍の指導で「合戦」は好戦的なイメージで使用不可ということであった。
 翌四六年の一月、NHKの「のど自慢素人音楽会」が始まった。今日まで続く「のど自慢」である。第一回の出演者募集には九百人以上もの応募があったという。初期の「のど自慢」では『リンゴの歌』『誰か故郷を想わざる』『異国の丘』などが多く歌われたという。日本人はまだ「敗戦」「抑留」という傷を背負っていた。私はこの「のど自慢」という番組が好きで、日曜日の昼、この番組を見るのを楽しみにしている。いかに番組制作者の作為が加わっても、番組に登場する素人の「のど自慢達」の放つ空気が日本社会の隅々の現実を描き出すからである。正に「歌は世につれ」を思わせるのである。

日本の歌から「不条理」が消えた時

 戦争の災禍から十年以上が経過し、一九五〇年代後半から一九六〇年代にかけて、日本人の心を捉えていたのが「望郷演歌」であった。春日八郎の『別れの一本杉』(一九五五年)、三橋美智也の『リンゴ村から』『哀愁列車』(五六年)、『夕焼けとんび』(五八年)などが代表であった。
 

「おぼえているかい 故郷の村を たよりもとだえて 幾年過ぎた 都へ積み出す まっかなリンゴ 見るたび 辛いよ 俺らのナ 俺らの胸が」(矢野亮作詞、林伊佐緒作曲)
 これらの望郷演歌は、戦後復興から成長へと向かった日本が、田舎から大量の労働力を都会に吸収していった時代を背景にした都会と田舎の応答歌であった。一九五〇年に就業人口の四九%を占めた一次産業従事者の比率は、六〇年には三三%、七〇年には一九%へと低下していった。故郷を後にして都会で生活するようになった人と田舎に残された人の心の共鳴のようなものが歌の底流に流れており、そこには貧困、差別、抑圧、孤独などの社会的不条理に関わるテーマが静かに横たわっていた。
 コロムビア・ローズの『東京のバスガール』(五七年)や島倉千代子の『東京だよおっかさん』(五八年)、井沢八郎の『ああ上野駅』(一九六四年)も望郷演歌の路線であり、集団就職の悲哀や健気に東京で生きる若者の心象風景を描くものであった。望郷演歌の最後の代表格が千昌夫の『北国の春』といえよう。この歌は遠藤実の作曲で一九七七年に作られたが七〇年代末から八〇年代にかけてのヒットとなった。すでに不条理を抱えた哀愁は後退し、美しい北国の故郷への郷愁に溢れる曲想となっていたが、それでも
「兄貴も親父似で 無口な二人が たまには酒でも飲んでるだろか あの故郷に帰ろうかな」
という歌詞に見られるごとく、故郷を兄貴に任せて上京した人間の「後ろめたさ」のような感情がまだかすかに滲み出ていた。
 「七〇年安保」と「全共闘運動の時代」、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて、若い世代の怒りのメッセージを内包し「アングラ」とか「反戦」などの名を冠し、マイナーな存在だったフォークロックがメジャーへと変身して様々な音楽要素が混ぜ合わされて、七〇年代に和製英語「ニューミュージック」となった。
 吉田拓郎が
「・・・・・僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 仲間を呼んで 街の教会で結婚しようよう」
(『結婚しようよう』七二年)
と歌い、井上陽水が
「・・・・・テレビでは わが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をして しゃべっている だけども問題は今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ・・・・・」(『傘がない』七二年)
を聴いたとき、それは私が大学のキャンパスにいた最後の年だったが、「政治の季節」が終わったことを確認した。南こうせつとかぐや姫の『神田川』(七三年)『二二才の別れ』、イルカの『なごり雪』(七五年)に至って、日本人の歌は一段と私小説的世界に入り込んでいった。
 言葉の魔術師・阿久悠が最も輝いた時代が一九七〇年代から八〇年代であった。この人が二〇〇七年に亡くなった時、「戦後歌謡曲黄金時代を築いた人」として、時代の心をつかんだ作品をいかに数多く残したのかに改めて驚かされた。沢田研二、ピンクレディーなど時代を駆け抜けたビッグスターを育て、レコード大賞をとった作品だけでも『また逢う日まで』(尾崎紀世彦、七一年)、『北の宿から』(都はるみ、七五年)、『勝手にしやがれ』(沢田研二、七七年)と、途方もない創作力を持った作詞家であったことがわかる。日本の一人当たりGDPが一〇〇〇ドルを超した一九六六年から、一万ドルを超した八一年まで、戦後日本がひたすら成長を加速させていた時代と阿久悠は並走していた。改めて、阿久悠の作品集を聞いてみると、そこに描かれた世界は一段と個に入り込んだもので、恋愛にしても社会的関係からの抑圧や桎梏を感じさせるものではなく、その時代の空気を投影してなのか、基本的に楽観的である。
 サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でデビューしたのが一九七八年であった。一世を風靡したサザン・ワールドを集約するならば、歌詞の論理性やコンテンツによって訴えるものではなく、早口言葉のような「コトバへの乗り」を感性で表現するものである。一九八〇年代後半にレコードが完全にCDに変わった頃、若者の歌の主流は「J−ポップ」といわれる、詩的内容よりも楽曲のスピード、リズムや衝撃的サウンドが重視される方向に向っていった。
 日本人の歌から故郷が消え不条理への怒りが遠のき、個の世界への沈潜が進むにつれ、この国の分配に関する構造転換がなされたことに気付く。戦後日本は産業化を通じた富の都市(中央)への集中を「全国一律」に田舎(地方)へも配分するという構造で成り立っていた。そこには地方に肉親を残して上京した多くの日本人の「地方への共感」のようなものが存在していた。盆暮に帰郷する故郷にも舗装道路や公民館ができていくことへの安堵感や喜びさえ存在していたといえる。
 ところが、九〇年代に入ってバブルがはじけて都市サラリーマンへの分配が右肩上がりの時代ではなくなるにつれ、地方への配分に関して寛容ではいられなくなった。「東京に人口・産業が集積し、徴収した税金を東京のために優先して使用して何が悪い」という石原都知事が提起した「外形標準課税」のような分配論に都民が共鳴する時代になったのである。戦後、東京に集積したサラリーマンは既に第三世代に入り、田舎(地方)は父母や兄が住む場ではなく、心を通わす対象ではなくなったともいえる。八〇年代末の竹下内閣の時代、全国の三千を超す地方公共団体に「ふるさと創生」を目的として一律に一億円ずつの資金を配るという大味な分配論が実行されたが、これこそが戦後型分配の最後のあだ花であった。

歌謡曲の国際化

「晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音たのし 別れテープを 笑顔で切れば のぞみはてない 遥かな潮路 ああ憧れの ハワイ航路」(石本美由起作詞、江口夜詩作曲)
 『憧れのハワイ航路』が岡晴夫の澄み切った声で世に出たのが一九四八年であった。また渡辺はま子の『桑港のチャイナタウン』が登場したのが一九五〇年であった。一九五〇年の時点で海外渡航者はわずか八九二二人にすぎなかった。日本人にとって、船乗りとしてハワイに行くことさえ「憧れ」だったのである。日本航空がDC−6で羽田からウェーキ島経由のハワイ便を就航させたのが一九五四年二月であった。
 一九七五年の秋、初めて欧州を訪れた私はパリの街角のレコード店で沢田研二の『パリに一人』がベスト・テンのコーナーに並んでいるのを買い求めた。間違いなく沢田研二の歌が異郷の地で売れているのをみて感動したものである。この年、日本人の海外渡航者は二四七万人になっていた。一九六一年に発売された坂本九の『上を向いて歩こう』(永六輔作詞、中村八大作曲)は、『スキヤキ』という奇妙なタイトルで米国でも発売、ビルボードの第一位になるということもあった。ただし、日本の楽曲が世界でも高く評価されたと考えるのは早計であろう。私の体験の中で、日本人の楽曲が評価され受け入れられていると実感したのは、八〇年代にワシントンの学生街ジョージタウンのレコード店で、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のテクノ・ポップがニューウエイブの旗手として熱く評価されているのを目撃したときであった。
 庄野真代が唐突に『飛んでイスタンブール』を歌ったのは一九七八年であった。ニューミュージックというジャンルの一人であった庄野が
「いつか忘れていった こんなジタンの空箱 ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと そうよ みんなとおなじ ただのものめずらしさで・・・・・飛んでイスタンブ−ル 光る砂漠でロール 夜だけの パラダイス」(ちあき哲也作詞、筒美京平作曲)
と歌い上げるエキゾチックな曲想は新鮮であった。後に、私は何度かイスタンブールを訪れたが、イスタンブールに砂漠はなく、現実との違和感に気付いたが、そんなことを超えて、日本人が中東にまで動き回る時代のイメージソングであった。庄野真代の歌は、さらに『モンテカルロで乾杯』となって走り巡った。
 同じく七八年、平尾昌晃と高校生の畑中葉子という奇妙なデュオによる『カナダからの手紙』が発売された。一九八〇年の海外渡航者は三九一万人にまで増えていたが、まだ一般的日本人にとっては「洋行帰り」の世界であった。日本人の海外渡航者が急速に伸びたのは、八五年からの五年間であり、一九九〇年にはついに、一一〇〇万人となった。
 一九八〇年代には、チョー・ヨンピルの『釜山港に帰れ』(八三年)、テレサ・テンの『愛人』(八五年)など近隣のアジアの歌手の日本での活躍も目立ち始め、桂銀淑は八八年から七年連続で紅白歌合戦に出場した。日本人が素直にアジアの歌手の歌唱力を受け入れていった時代であった。
 海外渡航者は九〇年代の一〇年間にさらに七〇〇万人が増え、二〇〇〇年にはピークの一七八二万人となった。二〇〇一年の九・一一事件を境に、海外渡航者は低迷、ようやく二〇〇七年になって一七二九万人にまで戻った。一九九五年に出たPUFFYの『アジアの純真』は象徴的だと思う。
 
「北京 ベルリン ダブリン リベリア 束になって 輪になって イラン アフガン 聴かせて バラライカ 開けドアー 今はもう 流れ出たらアジア」(井上太陽水作詞、奥田民生作曲)
という歌詞は支離滅裂で何の体系性もないが、国境の壁を深刻なものと受け止めることなく、異文化を偏見なく許容するしなやかな感性を日本の若者が身に着けてきたともいえる。
 そのことを前向きに評価するものだが、戦後六三年が過ぎ、日本人が本当に国際社会への認識を深めてきたのかと自問するならば、なお道遠しと自答せざるをえない。異文化の際に屹立した鈴木大拙は「外はひろく内は深い」と繰り返し述べていた。国際社会に向き合うには好奇心や悪ノリを超えた柔らかく強靭な知性と意志が不可欠なのである。

 
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