規範倫理学の学説


倫理学は「規範倫理学」「応用倫理学」「メタ倫理学」からなるといわれる。
「応用倫理学」は生命倫理・環境倫理など、現代社会が生み出す諸問題に 倫理学的観点からアプローチする学際的領域で、技術倫理もこの一部である。
「メタ倫理学」は倫理の基本的用語、例えば「善い」「正しい」「べし」などの 意味や用法を分析する学問である。
「規範倫理学」は「どのような行為が本当の意味で善い行為といえるのか」 という問いに答えようとする試みといえる。

現代の規範倫理学を代表する学説には、 などがあるとされる。
以下では、功利主義倫理学と義務倫理学の学説を簡単に紹介する。

功利主義(utilitarianism)

功利主義の創始者はイギリスの思想家 ジェレミー・ベンサム(1748〜1832)である。 彼の唱えた古典的功利主義では、「幸せ」だけが「善」とされる。 ここに「幸せ」とは「喜びで痛みのないこと」である。 あらゆるものは「幸せ」のための手段となる場合のみ「善」であるとする。 そして、人間の幸せの総量を増加させる行為を「正しい行為」とし、 減少させる行為を「正しくない行為」とする。
このように考えると「最大多数の最大幸福」こそが、究極の目標となる。 健康はそれ自体が善ではなく、幸せをもたらすものだから善だと考える。 ここまでは容認できよう。 しかしもっと極端な例を示せば、この考え方が万能でないことはすぐ分かる。
Aは健康でB、Cはそれぞれ心臓と肝臓を患っているとする。 臓器移植を行えばBもCも必ず助かるとする。 Aを殺してBとCを助けると二人の生と一人の死であるが、 何もしないと一人の生と二人の死である。 最大多数の最大幸福はAを殺してBとCを助けることではないか?
真の功利主義に立てばそのような結論とはならないと反論するのは簡単である。 それは各自に考えていただくこととして、ここで憶えておいて頂きたいのは、 功利主義も万能ではないということだけである。
功利主義はベンサムから ジョン・ステュワート・ミル(1806〜1873)、 さらにヘンリー・シジウィック(1830〜1900)、 リチャード・M・ヘア(1919〜)と受け継がれていく。
ミルは「人間独特の能力の遂行」すなわち 知性や感性、美徳といったものは肉体の快楽より高い価値があるとした。 しかしいかなる状況でもこれに同意できるとは言えないであろう。
功利主義では 「自分の最善の利益になることは、社会全体にとっても利益になり、 逆もまた然りである」というのが前提となる。 シジウィックはこれに疑問を抱いていた。
ヘアをはじめとする現代功利主義者は選好功利主義を唱えている。 この考えに立つと 「各人が幸せと認めるものを追求することを可能とする条件の達成」 が究極目標となる。 この条件とは自由(freedom)と福利(well-being)である。 自由とは自分の人生の重要事項について他人から強制されないことである。 自由であっても、飢餓や病気に苦しむのではなんにもならない。 教育も大切である。 これら自由を味わうのに必要なのが福利である。 日本国憲法が保証する基本的人権はこの2つであるといえる。

最大多数の最大幸福を目標とするなら、 その達成にはどのような手段が最適か調べるのにコスト・ベネフィット分析 (費用対効果分析)を用いることができる。 これは幸福を経済的価値に置き換えて評価するもので、 本来置き換えられない人の命さえお金に換算して考える。 そういう問題はあるものの、単純に割り切りやすいことから多くの場面で使われる。 ただ、単純に割り切ることが問題を発生する可能性があることを忘れてはならない。
古典的功利主義では割り切れない問題を解決するために 行為功利主義や規則功利主義 が提唱されている。
なお、功利主義は 結果だけを大切にするという意味で結果論者の考え方だともいわれる。 結果論というと胡散臭さを感じるのなら「帰結主義」という言葉を使えばよい。 なにを目指すかという観点から「目的論」という呼び方もよくされる。 このほうが「義務論」との対称性がいい。 いずれにせよ同じ意味である。
目的論は功利主義だけではないことは注意されたい。 例えば個人の「幸せ」を善としないで国家の反映を善とするなら、 それは国家主義である。 自分だけの「幸せ」を究極的目的とするなら、 それは 「利己主義」である。 自分以外の他者だけの「幸せ」が究極の目的なら、 それは 「利他主義」である。

義務論(deontology)

一定のルールに照らしてその行為が正しいか否かを判断するのが義務論である。 このモラル原理となるルールを義務と呼ぶ。 現代においても功利主義と並ぶ規範倫理学の代表的考え方である。 イマヌエル・カント(1724〜1804)は、 それが普遍化可能なときのみモラル原理は正しいと主張した。 すなわち、ある行為がモラル的に正しいということは、 その際に従ったルールを全ての人が採用できる場合であるという。 自分にだけ特例を設けることは許されない。 このように考えると、絶対的に守るべき一連のモラル原理を摘出することができる。 例えば「人を殺すな」とか「嘘をつくな」などである。 カントの考えでは嘘はたとえ人の命を救う場合でも許されない。
現代の倫理学者は モラル原理を一応のもの と考え、絶対的な何が何でも守るべきものとはみていない。 デビッド・ロス(1877〜1971)は次のような基本的義務のリストを作った。
  1. 過去の行為についての義務(約束を守り、犯した過ちには償いをする)
  2. 感謝の義務
  3. 公正の義務(功績と幸せが比例するようにする)
  4. 善行の義務(他人の状況を改善する)
  5. 自己改善の義務(倫理的・知的改善をする)
  6. 他人を傷つけない義務
ロスはこれを「一見自明な義務」あるいは「一応の義務」 (prima facie duty / conditional duty)と呼び、 本来の義務(duty proper / duty sans phrase)ではないとした。 ロスによると「嘘をつかない」とか「困っている人を助ける」 というルールが正しいことは自明であるが、 ある状況においてどのルールが優先されるべきかについては議論の余地がある。 すなわち上記のリストは完全ないし最終のものとは主張しない。 倫理規程を定めるということはある意味では義務論の立場に立っているといえる。 規程そのものが義務のリストである。 ただ、規程は一応の義務であって、何が何でも教条主義的に守るべきものではない。 倫理規程が整備されていなくても義務論的立場で行動することはできる。 それには 黄金律 を用いればよい。 「人からしてもらいたいことを人にもせよ」ないし 「人からしてもらいたくないことを人にはするな」である。

参考までにいろいろな戒律を ここに置いておきます。

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