刀剣の豆知識

GHQの刀狩り - ホームメイト

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「第二次世界大戦」後、日本はGHQ(連合国最高司令部総司令官)の占領下に置かれ、国民を非武装化させる一環として、GHQによる刀狩りが実行されました。GHQによる刀狩りは、民間から刀を含むすべての武器を取り上げるというもの。しかし、古来、日本人にとっての刀とは、武器としての役割よりも精神性を表す役割に重きが置かれていました。そこで、GHQの刀狩りに対し日本政府は「刀は武器にあらず」と主張。すべての刀が接収されることは防ぐことができましたが、GHQの刀狩りは現代社会において銃刀法が整備され、刀が非日常となった理由のひとつとなりました。

刀狩りの原因

日本人にとっての刀とは

日本におけるのイメージのひとつに、合戦などで戦うための主要武器というものがあります。しかし、古来、合戦で主要武器として活躍していたのは。戦国時代には鉄砲が伝来したことで主要武器は取って代わられましたが、全国に名をはせた「今川義元」(いまがわよしもと)や「徳川家康」などは、その強大さを表す二つ名として「海道一の弓取り」と称されており、「弓取り」は弓を持って戦う者、つまり武士を表していたほど、弓は武の象徴とされていたのです。

武将達は戦場に刀を持参し、必要があれば抜いて戦ったと考えられますが、刀の役割は、武器というよりも自らの信仰心や精神性を表す物として扱われていました。これは、日本において刀は神道と深いかかわりがあり、刀は邪気を払う物とされたことが理由のひとつ。武将達は刀に信仰を託し、寺社に奉納していたという歴史もあります。

新選組

新選組

刀が主要武器として用いられるようになったのは、幕末のこと。新選組などの幕臣も、攘夷志士達も刀を武士の魂として扱い、刀を用いて戦っていました。

明治維新により近代化が進むと刀は白眼視されるようになりますが、最大の士族反乱「西南戦争」において、政府軍が刀を主要武器として用いた士族の反乱軍の鎮圧に甚大な被害を出したことで、明治政府剣術の価値を再確認。刀は価値を取り戻し、陸軍や警察においても剣術が重要視されるようになりました。

一方で、民間における刀の存在はより身近で、武器としての意味合いよりも、祭祀の際に用いられる社寺における神宝や、家に伝来する遺産など、日本人の精神性を表す日常的な道具とされていました。また、現在観光地でよく見られる土産物として模造刀(もぞうとう)や木刀がありますが、江戸時代以前は模造刀や木刀に代わって真剣の刀が売られており、誰でも簡単に購入することができたほど身近な存在。戦前では、3世帯に1軒は刀を所有していたとされるほど、民間に普及していたのです。

刀狩りの背景

ポツダム宣言と軍刀

ポツダム宣言と軍刀

第二次世界大戦に敗北した日本は、1945年(昭和20年)のポツダム宣言を受諾したことで、GHQ(連合国最高司令部総司令官)の占領下に置かれます。

GHQは日本国内にある一切の武器を接収することを決定。この「一切の武器」のなかには、銃砲類の他にも刀類が含まれていました。

日本における刀とは、前述の通り武器としての意味合いよりも、祭祀、鑑賞、土産、身分標識など、様々な用途に用いられる生活に密着した道具です。しかし、日本人の生活に根付いた道具である一方で、「太平洋戦争」において帝国陸軍兵士が最後まで軍刀を手に戦い抜いたことから、GHQは刀を軍国主義の象徴や武器としてみなし、徹底的な捜索がなされました。

刀狩りの内容

GHQは、日本の非武装化の一環として「民間の武装解除条項」を施行。この条項は銃砲類をはじめとする武器を取り締まろうとするもので、銃砲類の他、刀や脇差(わきざし)、などを、警察署を通して連合軍が指定した場所に接収しました。

接収された刀はアメリカの進駐軍に戦利品として持ち出された物の他、ガソリンで焼き払われた物や切り刻まれて破却された物、機関車の動輪などに鋳直された物もありましたが、多くが海中へ投棄されたと言われています。

この条項の発令により、民間人はGHQを恐れ、自ら刀を破壊したり、所持していた名刀を提出したりする事態となりました。「命令に従わず、刀を隠し持った者は射殺される」などの流言が飛び交ったことも、刀が失われていくのに拍車をかける一因となっていたのです。

本間順治(本間薫山)

本間順治(本間薫山)

日本政府はこの事態に、文化財保護の観点から刀の接収を拒否。古刀研究の権威であり、当時文部省(現在の文部科学省)の重要美術品等調査委員会に所属していた「本間順治」(ほんまじゅんじ/本間薫山[ほんまくんざん]とも)は、「刀は武器にあらず」と主張し、首相に働きかけました。

首相は本間順治の熱意に心打たれGHQを説得しようと試みますが、GHQはこれら日本政府の主張を却下。そのため日本政府はすべての刀を保護するのではなく、一部の刀に美術的価値を付加させることで名刀を護ろうとしました。

日本政府は「帝国美術院展覧会」において、美術工芸の部に刀の出品を可能とさせる、1934年(昭和9年)に可決された建議案「帝展第四部ニ刀剣追加ニ関スル建議案」を典拠とし、GHQに対して刀の美術的価値が日本において周知されていることを主張。日本政府の粘り強い説得により、GHQは美術刀の保管を認めることとなりましたが、はじめは美術的価値の判断はGHQに任されており、なおかつ、日本人の刀の所有はいまだ認められていませんでした。

しかし、1946年(昭和21年)に発布された「銃砲等所持禁止令」において、美術的価値の判断やその審査、所有権の認可が日本政府にゆだねられるようになります。これにより、刀が再び所有者に返還され、日本人の手元に戻ってきました。

刀狩りのその後

戦前には、全国において1,500万軒もの世帯が刀を所持していたと言われています。しかし、日本政府は刀に美術的価値を付与し、一部の刀の保護に成功したものの、300万振にも及ぶ数の刀がGHQの刀狩りによって失われました。

GHQの刀狩りによって民家の刀の多くが失われ、国民にとっての刀は、身近な日用品から博物館で鑑賞できる美術品や、人を斬るための武器として認識されるようになります。また、現代人の多くが刀に対するイメージとして持っている「刀=恐ろしいもの」という印象が植え付けられたのもこの時代。

商工・文部・農林・運輸省(現在の国土交通省)により出された「兵器・航空機等の生産制限に関する件」という共同省令によって、新たな刀の作刀も制限されたことから、多くの刀匠が廃業せざるを得なくなり、刀の文化は衰退していくことになりました。

しかし、1948年(昭和23年)、「東京国立博物館」(東京都台東区)に財団法人「日本美術刀剣保存協会」が誕生。日本美術刀剣保存協会は略称を「日刀保」と言い、日刀保は現在に至るまで、刀の保存と公開を行う他、作刀や研磨などの技術を伝来し、作刀に必要な材料の確保、さらに調査研究や観賞指導を行い刀の文化の再興に尽力しています。

国に戻った刀「赤羽刀」

赤羽刀」(あかばねとう)とは、GHQにより接収された刀のうち、関東、及び東海地方から接収され、東京都北区赤羽にあるアメリカ陸軍第8軍兵器補給廠(へいきほきゅうしょう)に集積されたことが名前の由来となった刀です。

1947年(昭和22年)、アメリカ陸軍第8軍兵器補給廠に200,000振を超える大量の刀類が集められていたことが発覚。刀剣専門家の調査により、美術的価値があると判断された約5,000振の刀のなかから、所有者の分かる物はもとの所有者へ返還されましたが、約4,500振は所有者が不明のまま残されることとなります。この所有者不明の刀は国の所有となり、赤羽刀と呼ばれるようなったのです。赤羽刀は、はじめ東京国立博物館に収蔵されましたが、のちに約3,200振が全国にある公立博物館へ贈与され一般公開されています。