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【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(4)アトリエ跡 繁二郎が愛した風景

 花宗川沿いに植えられた木々はわずかに紅葉が始まっていた。収穫が終わった田んぼはミレーの「落ち穂拾い」を連想させる光景に彩られる。八女市緒玉のパステルカラーに彩られた農村。この風景に魅入られた巨匠がいる。久留米市出身の洋画家、坂本繁二郎(1882~1969)だ。

 坂本は50歳を目前にした1931(昭和6)年、友人から土地の提供を受け、花宗川沿いにアトリエを構えた。「代表作『放牧三馬』など馬を描いた有名な一連の作品もこの地で描かれました」。茶のくに観光案内所(八女市)の観光コーディネーター吉松慶子さん(41)が、坂本の画家人生における、この地の重要性を教えてくれる。

 坂本は30代後半になり、フランスに3年間留学した。その感性を最も刺激したのは、多くの風景画家が集まったフランス・バルビゾン村の明るい光と風だったという。帰国して7年。緑豊かな八女の風景を見て「東洋のバルビゾンがここにある」と感動し、定住することを決めた。

 しかし、既に国内で高い評価を受けていた坂本はなぜ、東京に行かなかったのだろうか。華やかな画壇の世界が待っていただろうに。久留米市美術館の森山秀子副館長は、坂本の親友でライバルでもあった青木繁(1882~1911)への対抗意識があったのではないかと推測する。

 同い年の坂本と青木が絵画の道を志していた当時、発表の場は東京しかなかった。28歳で亡くなった天才画家・青木は終生、活動の場として東京へ強いこだわりを持っていた。そして、坂本もその後を追ったこともあった。だが、坂本は坂本だった。

 森山副館長は「早熟な青木に対し、晩成型の坂本と、2人の生涯は対照的に見られた。青木が東京を目指したのであれば、自分は田舎を制作の場にしようと思ったのでは」と考える。

 また、八女は古くから仏壇や石灯籠、ちょうちんなど伝統工芸が盛んな地だった。「芸術家を受け入れ、静かに制作に没頭できる環境が整っていたことも背景にあったのかもしれませんね」と観光コーディネーターの吉松さんは指摘する。

 坂本のアトリエは現在、久留米市の石橋文化センターに移築・復元されている。その跡地には石碑が残るだけだ。だが、敷地の周りには坂本が大好きだったというムクゲの花が咲き、芸術家の魂がここにあったことを伝えている。

=2017/10/06付 西日本新聞朝刊=

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